2011年10月21日金曜日

10/18(Mon)--10/23(Sat)

10月18日(月)何人かのクラス・メートの紹介
・今日はホーム・ステイ関係の友人ではなくて、毎日通っている語学学校のクラス・メートについて、少し整理しておこうと思う。これは学校で知り合った人達の中の数人を選んだものだが、特に仲が良いという訳ではなく、印象に残ったメンバーを一方的にまとめたものだ。
・キーサンカン・・韓国人の男性で40代の後半。韓国のナショナル・セミコンダクターでバイス・プレジデントをしていたが、今度、サムソンに移籍したらしい。語学に磨きを掛ける為に、3ヶ月のサバイバル休暇をとって単身でUCLAに数ヶ月滞在している。英語はかなり上手だし、アメリカに関するいろいろな知識や話題が豊富である。親日家で日本にも頻繁に来ており、日本語もかなり話すことが出来る。自分とは他のメンバーより年齢が近いこともあり、気安く話ができるメンバーの一人である。
・ハイシャ・・韓国人の女性で40歳代、歯医者さんらしいが英語を身に付けて、今後はアメリカに住むことを考えている。現在の処では、英語があまり得意ではないように見えるが、とても積極的である。かつ、経験が豊富でキャリア・ウーマンと言う感じがする女性である。
・ミナ・・21歳の韓国人で、とても人懐こく、そして素晴らしい女性である。一緒に話をしていると、相手にも優しくて温かい心が伝わってくる。話していると自分も心が明るくなってくる女性である。
・YUK・・日本の立命館大学の4年生で同様に21歳の若い女性である。大学で学びながら、既にイギリスやオーストラリア等でホーム・ステイをして英語を学んだ経験を持っている。どんな環境でも積極的に行動する事ができる、明るくてチャレンジ精神の旺盛な女性である。
・YR・・日本の同志社大学でマネージャーとして働いている、英語がかなり出来る女性である。この語学学校には英語を学びに来ている他に、自分でも学校の授業方法を改善していくというテーマを持っており、その調査を兼ねてやってきている。とても積極的で活動的な聡明な女性である。一人でカリフォルニア大学や東部の大学等、アポイントを取って全米を動き回っている。
・スハ・・やはり韓国人の女性で22歳。YUKIの話では、親が大変な金持ちらしい。とても物静かで、それでいてとても恥ずかしがり屋の女性である。
・ジュリー・・25歳の日本人女性である。美人でオシャレな独身女性であるが、既に日本に結婚を予定した彼氏がいるらしい。この暑いLAでもブーツを履いていることが多いが、それがとても様になっている。ファッショナブルな女性である。帰国後は彼氏と中国に行って、ビジネスをする予定だと言っていた。
・ヨンターク・・日本生まれで日本に住んでいる20歳の男性である。一年位ここにいる予定らしい。趣味がダンスで、とっても行動的である。既にUCLAの学生と多数知り合いができており、UCLAのダンス・サークにも出入りしているらしい。彼等が住む学生寮にも時々寝泊まりしている様であった。英語はあまり得意ではない様だったが、授業中に良く発言する積極的な若者である。一年後には相当英語が上達している筈である。
・ジェー・・同様に日本で生まれて、今は親と高円寺に住んでいる韓国人の男性である。年齢は22歳で、やはり一年位はここにいる予定らしい。車で通っているが、とても背が高く、もの静かでオトナシそうな青年である。一方では、とても芯が強そうな処がある。
・ジェニー・・何時でもとても明るくて、人懐こくて、お茶目なタイ人の22歳の女性である。誰とでも直ぐに友達になれるという特技を持っている。
・YK・・26歳であるが、既に結婚している美人の日本人女性である。既に6ヶ月位LAに滞在しているようだった。とても美人であるが、自分のスポーツ・カーで通っている裕福そうな女性である。しかし、話をしていると、とても物静かでしかもしっかりした考え方を持っており、自分の信念を貫いていくという芯の強さが感じられる素晴らしい女性である。
・モハメッド・・ドバイからアメリカの大学に通う目的で来ている22歳の男性で、その為に必要な語学を学んでいる。話を聞いた限りでは、本国には日本人より相当豊かな人が多いらしい。彼は苦労を全く知らない、貴族の様なナイスガイである。
・バキ・・同様にドバイからアメリカの大学に通う目的で来ている22歳の男性で、その為に必要な語学を学んでいる。強者の様に見えるが、実は思慮深い一面がある。
・こうして見てくると、多くが若い日本人と韓国人・タイ人の女性、及び韓国人ばかりである。社会人の経験者も多い。東洋系以外では、ドバイから来ている若い男性が3人、チョット人種が偏ったクラスである。初級クラスなので、上級クラスのようにヨーロッパ人がいないし、皆、人間的にもどこか静かな所がある人ばかりなのが面白い。
・一昔前と比べると日本人の数が随分と減って、その代わり韓国人が増えているようだ。日本の影がアメリカからどんどん薄くなっていること、そして代わりに韓国人が実にエネルギッシュにアメリカという国にアプローチしていることが際立って感じられる特徴である。この事は学校のクラス編成だけではなく、アメリカ中を旅行していても、そこかしこで強く感じることである。良いものを作ろうとしているが、逆にモノづくりの精神から抜け出せないで、日本の中だけでモガイテいる日本が透けて見える。このままでは、10年後の日本が大きく飛躍することは難しいと感じた。

10月19日(火)僕のプレゼンについて(2)
・今日のトピックは、自分がクラスでプレゼンテーションをしたことである。上がることもなく、落ち着いて話すことができたが、英語をうまく喋ることは残念ながらできなかった。
話の内容は、アメリカに来てから行った3週間のドライブ旅行で感じた、日本とアメリカの道路事情の違いを述べたもの。その観察結果から事実を整理して、その違いの根本的な原因に焦点を当てた仮説を立て、原因分析を行い、結論として自分の意見を整理した。
・聴衆からの反応・評価はまあまあで有ったと思う。プレゼン後の質疑応答も活発にあったが、しかし、講師の評価は厳しいものであった。
・まずは原稿に書いてあることを、そのまま読むようなことは絶対に避けるように言われた。皆の目を見ながら、必要なことを口頭で説明していくこと。その進行上の順番や説明のためのロジックを間違えないようにするために、スライドを使いなさいとのアドバイスを受ける。その為には、スライドは前後関係を明確にして、箇条書きにした目次のようなもので十分であると云う。図とかグラフとか写真のように、スライドでなければ分からないようなものを見せることは良いが、その説明はスライドには書かないで口頭でやること。もう少し、実践的な話すためのトレーニングを積んでいくことが必要であると想った。


10月20日(水)再びバスとLAの携帯事情
・本当に月日のたつのは早いもので、そろそろバス通学も残す所、後、3日となってしまった。これからはLAでバスに乗る機会も減ってしまうと思うので、もう一度、バスに関して気がついたことや考えたことを書いておきたいと思う。
・日本の都会で生活している人が、LAに行って暮らしても殆んど大きなギャップを感じること無く生活をすることができるということは、逆の意味で自分にとって一つの驚きであった。しかし、そこにはやはりカルチャー・ショック程ではないが、やはり、日本との違いのようなものが幾つかある。つまり予想と少しだけ異なった経験である。携帯電話がその一つであった。こちらの人は最近の日本と違って、携帯電話で話しながら歩いている人がとても多い。しかも、大きな声で長々とやっている。バスの中でも同様である。それに対して、日本では(東京では)既に携帯は、メールを見ることや、ゲームをする姿を多く見かけるだけで、話をしている姿を見掛けることは少なくなった。周りの視線がそれを拒絶しているからである。
・また、最近こそ日本でもスマート・フォンが大流行しているが、LAでは多くの人が既に使っている。特にUCLAの学生街に行くと、そこには裕福な人達が多いせいもあるが、ほとんどの学生が持っているといって良い。ただし、こちらでは最新式のスマート・フォンだけではなく、昔からあるブラック・ベリーを使っている人も多いようである。こちらも含めて、多くの人が右手を使ってアプローチしている姿が普通になっている。チョット道を尋ねただけでも、グーグル・マップを見せてくれる事が多い。
・アイポッドを使っている人も多い。日本でも若者は多くが使っているが、LAでは良い年をした大人が、イヤ・フォンやヘッド・フォンをしながら歩いているのを見かけ事が多い。

10月21日(木)英語を学ぶ目的と勉強方法について
・今日は学校へ通う残りの時間も少なく成って来たこともあり、語学(英語)の勉強法について考えたことをまとめておこうと思う。その前に、「何で英語をやるのか」について、少し考えて見ようと思う。
・自分がUCLAで面接を受けた時に、同様のことを聞かれたが、その時に答えた事は以下のようであった。自分が英語を学ぶ目的は3つある。一つは①自分の残りの人生の楽しみとして、海外の文化や歴史を学びたいと思っている。ただ単に外国のガイド・ブックを日本語の翻訳書で読むことや、観光旅行等で、実際に自分の目で見て経験して楽しむだけではなく、その国の言葉で書かれたあらゆる本を読んで理解し、その国に住んでいる人と実際にコミュニケーションをとって、外国人の友人を増やしていくと共に、実際にその地で起こっていることやその背景を含めてより深く理解したいと思っている。その為に、世界で最も広く使われている言語として英語を学び、自分の視点を広げていきたいと考えていること。2つ目は②自分は中学校から大学まで英語を学んできた。しかしそれは英語を「読んで理解する」ことに重きを置いた教育であった。従って、英語を「聞いたり、書いたり、話したりする」、所謂、コミュニケーションの道具として使うには、余りにもレベルが低い状況にある。今まで学んだ英語によって、ある程度は外国の文化や技術を学ぶ事は出来るが、自分の考え方を外国人に知らせることや、自分に優利な結果を交渉によって得る事ができるレベルには程遠い。今までの様に日本の国内だけで生きていくのではなく、残りの人生を、世界を舞台としてチャレンジ出来るような人生にしていくために、よりコミュニケーションに重きを置いたスキルを磨きたいと考えている。そして最後に3つ目として③英語をマスターすることに寄って、楽しみだけではなく自分が現在やっている事業のスパンを、少し広げていくことを考えている。
・以上の考え方は今でもあまり変わっていないが、少し追加をしたい点が出てきた。それは自分という切り口だけではなく、現在の日本がその将来に向け活動を十分にできているかどうかを考えた時に、英語力に関して考えてみたときには大きな問題を抱えていると感じることだ。自分の残りの人生を、この点を変えていく行動を少しでも進展させていくことにも費やしていきたいと考えるようになった。
・問題点とは何かというと、日本の教育は明治時代の初期からずっと「外国から如何に学ぶか」という点を目標にして、そして大きな成果を上げてきた。しかし、既に外国から学ぶだけではなく、日本の考え方を世界に発信し日本の考える戦略に沿って、日本を優利にしていくような活動を行なっていくべき時期に来ている。にもかかわらず、相変わらずと言うよりもますます日本は内向きになっていて、日本の考え方を外国人に理解させることはあまりできているとは言えない。これを少しでも改善していく教育方法を、自分が実践すると共に、その方法を国内に発信することや、ボランティを通して日本に住む外国人の役に立ちながら、少しでも日本の英語教育の改善に対して貢献したいと思う。
・その為に、英語の有効な教育方法を考えて、色色な活動を実践していくことを4つ目④として加えたい。
・以上をもう一度まとめて見ると、自分にとっての英語を学ぶと云う目的は以下である。
・趣味や楽しみの一つとしてとして、外国の文化や歴史を学び、それを実際に見たり、聞いたり、読んだり、話をしたり、翻訳文では得られないダイレクトなコミュニケーションを取りながら、彼らの目的や方法、理由や影響の大きさ等を理解することによって、自分の視野や考え方の幅を広げていき、また、外国の友人を得ることによって自分が楽しむことも満足させていく一つの手段として英語を習得したいと思う。
・日本の優れた点を中心に、自分自身の感じたことや考え方を世界に発信することによって、自分自身と外国との結びつきを強め、外国をも豊かにし、結果として、自分やしいては日本の優位性を保っていく。その為の一つの手段として英語を習得したいと思う。
・日本人同士の中だけの議論に留まるのではなく、広く世界の中での日本のポジションを知った上で、種々の価値観や多様な考え方を理解し共有したいと思う。その為に、自分が行動し、自分の仕事や影響力を拡大させていく為の一つの手段として英語を習得したいと思う。
英語の勉強方法について:
・話す能力、書く能力(作文力)、正しい発音・・・オクスフォードのテキストを使用してこれをマスターすることを目標にする
 ・ネイティブが読む英語を聞くこと。その英語の関する質問に声を出して答える。
 ・その英文を英語の構文に沿って日本語に訳し、それを見て英語を話すこと。
 ・出来なかった所を復習し、結果として英語の文章と重要な構文を覚えること。
復習のやり方としては、まず口頭で声を出して読み、次に文書を書いて頭に入れる。
 ・書けないスペルは5回書いて覚える。
 ・書かれた文章の大意を英語でまとめる。更に自分の感じた感想を英語で書き加えるとともに、それらを口頭で発音し頭に入れておく。
 ・発音練習を独立させて実施する。
・読む力、ヒアリング力、単語力・・・S.シェルダンの本を日常的に読みそして聞く。
 ・まずは適切なレベルの本を選んでたくさん読むこと。繰り返し読むことで、単語や文章の意味を想像できるようにするとともに、単語の数も増やす。
 ・読んだ本の内容が英語で録音されたものを繰り返して聞くことにより、発音が聞き取れるように耳をならすこと。
・その他の実践や文法、背景となる知識
 ・自分の日常の経験や考えたことを小さなテーマとして設定して、250語位の英語の文章でまとめること
 ・英語を話すサークルに参加して、色々な人の話し言葉を聞くと共に、できるだけ自分の意見を発言する機会を持つこと。
 ・英語について書かれた本を読むこと
 ・DVD映画やユーチューブ、ラジオの英語ニュース等を見たり聞いたりする。

10月22日(金)修了式
・今日は早いもので、語学学校では今月の修了式の行われる日である。と言うのはこのスクールでは、授業は一ヶ月単位で進行しており、多くの人は3ヶ月位で終了し、次の段階の進むようである。大学を目指しているのであれば、次はアカデミック・コースへ行き、進学に必要なスキルを中心に更に数ヶ月を費やす事が多い。自分の周りにいる社会人の場合であれば、やはり3ヶ月位の休暇を終えると、元の仕事に戻っていく。遊びで来ている人も、多分、同様だろうと思うが自分には良く分からない。
・午前中は、シンシアの最後の授業だった。マーケティングの話を中心に、グループでディスカッションをしたりした後は、ゲームをして遊んだ。どんなゲームかというと、各人が適当な言葉を考えてそれをカードに書き、隣の人の背中に貼り付ける。その後で二人一組のペアで、それぞれの背中を確認してから、相手に簡単なヒントを与える。そして背中の言葉が何なのかを当てる。もしも当たらなかった場合には、別のペアを探し同様にヒントと答えを当たるまで次々に繰り返すのである。
・或いは同様に背中にある言葉を書いたカードを貼り付けた一人が前に出て、その人が皆に質問し、それに対してヒントになる言葉を誰かが返すことで教えて上げる。このような質問を次々に行い、最も少ない質問数で答えを当てることを競い合う。もちろん、ヒントの出し方には、幾つかのやってはいけないルールがあるのであるが。
・そんなことをやっている内に、11時になると、今日のために皆で一品ずつ持ち寄ったお菓子や飲み物で簡単なパーティが始まった。それぞれ親しい仲間と写真を撮り合い、互いに親しい仲間とお話をしている内に時間が来てしまうという訳である。
・そして、昼飯の後は講堂に集まって修了式が行われた。クラス毎にメンバーが集まって前に出て、一人ずつ修了証を貰って一言何かを喋ってお仕舞い。
・修了式の後は何人かで、UCLAの中にある美術館に行くことになった。メンバーは自分の他は、YRとイタリア人のエリカとXXX,コリアのキムの5人であった。ただし、その前に全員が今日で授業を終了するため、学生ビザ手続きを行った。どういうことかというと、学生ビザは5年間有効であるが、授業を連続して同じ学校で受けない場合には、その学校の授業が終了した時点でそれを証明するための手続きが必要なのである。そして、次に別の学校で再び授業をうける場合には、授業を開始することを証明する手続きが必要になる。これはアメリカの政府が、学生ビザをもって入国する人は必ず、政府から認可を受けた学校で授業を受けたことを確認できるようにするための措置である。これはどこの国でもやっていることだが、特にアメリカでは9.11のテロ事件の後で、厳格に管理されるようになった。
・YRはやはり3ヶ月の予定でやって来ていたが、UCLAの授業には失望しており、このままUCLAでの授業を継続するか、他の学校に移るかで、この二三日悩んでいたのだった。しかし、結局、他の学校に行くことに心を決めて、今日はこれから既にUCLAに払い込んでいた授業料を返してもらうために交渉に出かけたのだった。エリカとキムとは外で待ち合わせることにして、YRと自分だけがUCLAのオフィス棟に出かけていった。結局、事前の契約とは異なり、YRは払い込んだ授業料の全額を取り戻すことができたのだった。
・UCLAの美術館は、一般人は$10位の入場料がかかるようだが、学生は無料であった。学生証は今日まで使用可能なので我々は無料だった。美術館はキャンパスから少し離れた町の中にあるのだが、大きなモダンな建物で中に入ると大きな中庭があり、気持ちの良さそうな庭に繋がったオープン・カフェとシックなレストランが庭に面してあった。値段は特に高いと言う訳ではなさそうなので、都会の中の穴場の一つだと想った。
・美術館の中は、特に名前の知られた作品は見当たらなかったが、現代美術に力をおいた力作ぞろいで、自分にはダウン・タウンにある有名なMOCA(カリフォルニア州立現代美術館)よりも立派であった。
・美術館を見た後、中には皆で記念撮影をした。自分以外のメンバーは、明日の昼にサンタ・モニカに遊びに行こうという約束をしていた。自分も形だけ誘われたが残念ながら行くことが出来なかった。月曜日からはLAを離れて再びドライブ旅行に出かける予定だったので、明日の午後は別のホーム・ステイのメンバーが、同じサンタ・モニカで送別会をやってくれることになっていた。

10月23日(土)お別れパーティ@サンタ・モニカ
・今日は夕方からサンタ・モニカに出かけて、イタリア・レストランで自分の送別会を行なってくれるということになった。送別会とは、もちろん皆が集まる口実なのだが、一応、自分の他に、Mei、XX、KZ、KOR、TAKAが集まってくれることになった。夕方、まだ日の高い内に、MEIと自分がホスト・ファミリーの家の前の広い庭にでて彼女の写真を沢山撮った。何時もはジーパンかスラックス姿なのだが、今日は彼女も少しだけオシャレをして黒いスカートを履いている。
・それからKAZの運転する車でKORの家に向かいに行く。KORの家はLAでもLAX空港の近くで、しかも太平洋に面した海辺にあった。ドライブ気分で避暑地に来た感じがする所だった。海辺で再びMEIの写真を撮った後、サンタ・モニカに向かう。一方、TAKAは自分の車で、途中、ピコ・ストリートにあるXXXに寄ってくることになっていた。
・メイン・ストリートと海沿いの道路の間にある、公共駐車場位に車を止めようとしたが、あいにく日曜日ということで一杯だった。この駐車場は二時間までは無料だった。実は自分はこの時が、サンタ・モニカのメイン・ストリートを訪れた初めての時だった。しかも夜だったので、他のLAとは大きく異なって、街のネオンがとても綺麗だった。久しぶりに東京の街を思い出してしまった。少し寒かったが、まだ明るい内に海辺を少し散策した。綺麗な街並みときれいな海があるという点では、東京でこの街に匹敵する所は見当たらない。
・暗くなってから、メイン・ストリートに戻って、良さそうな店を物色して歩いた。MEIが今日は自分(つまり私です)が王様だから、自分が好きな所を見つけるべきだと言ってくれたが、どの店も人で一杯だった。しばらく通りをブラブラ歩いて行くと、歩道までテーブルと椅子を持ちだして、しかもとても賑わっているイタリア・レストランがあった。中を覗くと丁度テーブル席に空いたところが有ったので、すかさずここにしようということに決まった。
・今日のメンバーは自分の他は学生ばかりなので、皆の財布に合わせて注文をすることにした。定番のスパゲティやピザの他に、幾つかのディッシュとパンを控え目に頼む。さすがに学生だけ有って、多分、何回頼んでも同じ料金の筈であるパンは、合計で何回もお代わりを頼んだような気がする。酒は、はじめはビールで、後からはワインを飲んだ。大いに盛り上がって、勘定は一人当たり$15位だった様に思う。
・その後は、しばらく通りをぶらついたり、アップル・ショップを覗いたり、本屋で買い物をしてから、スター・バックスの野外の席で長々とお喋りをした。基本的には割り勘なので、随分と安いコストで、気分がこれまた随分と若返った気がした。

10/11(Mon)--10/17(Sun)

10月11日(月)再びUCLAの授業方法について
・授業が終わった後にYRがやって来たので、二人で近くにあるコーヒー・ビーンに行く。この街にもスター・バックスやコーヒー・ビーン等の気楽に入ることができるカフェがあちこちにあるが、少なくとももっと数の多いスター・バックスよりは、コーヒー・ビーンの方が、空いているだけでなく雰囲気も良い。店の中はアーリー・アメリカン調で少し暗いがとても落ち着いた感じである。
・自分達はまず最大の課題である英語の勉強法について議論した。そして、今、二人が通っているUCLAの語学教室が果たしてその授業料に見合ったものかどうかについて意見を交換した。YRはUCLAの教え方には納得が行かないという。彼女は来月も授業を取るつもりで既に費用を払い込んでいるのであるが、このままUCLAで授業を受けるよりも、来月からは街の語学学校に通った方が良いのではないかと悩んでいた。そこで、直ぐ近くにある学校に行って、見学をする予約をとってあるという。語学を中心に考えるのであれば、その方が良いと自分も想った。

10月12日(火)雨の中のキャンパス散歩
・この所、本当に良く雨が降る。こんな事はLAではめったにないことらしい。しかし、雨と言っても、日本のようにザーっと降ってくるわけではなく霧雨なのだ。こちらの人は皆、 これが雨だという。確かに雲ひとつなく、透き通った様な青い空が当たり前のカリフォルニア(LA)で、霧雨といえども何日も続くと気が滅入ってしまい嫌になってくる。雨と入っても道行く人を見ると、傘をさしている人は少ししか居ない。成るほど、自分も霧雨と言ってもたいしたこともなさそうなので、空を見上げてから面倒くさい感じがしてしまい、結局、傘をささずに出かけることにした。
・授業が終わってから、広大な(本当に広い!)UCLAの構内を散歩しようと外に出た。しかし、はじめはたいした事のない霧雨が、段々と激しくなってきた。帽子はかぶっていたが、レイン・コートも着ていなかったので、はじめはそれ程ではなかったシャツが段々と濡れてきて、しまいには肌寒いほどに成って来た。CAといえども、雨の中を傘も持たず歩きまわるということは、とても惨めな気分になることが分かった。しかも途中で道に迷ってしまい、どこを歩いているのかも分からない。段々と疲れが出てきてしまった。シャツも随分と濡れてしまい、考えてみたらバスの中でこんな惨めな格好をしている人も少ない。車で移動している人以外は、やはり濡れると格好悪いと感じた。
・向こうから金髪の女性が、大きなバッグに本を抱えながら一人で歩いてきたので、道を聞こうとしたら、逆に、先に道を聞かれてしまった。相手が「今日が二日目なんです。」と言ったので、自分の方が少し先輩ヅラをできると思いながら、少し話をしながらいろいろ知っていることを教えてあげた。
・そのあとで図書館に行き、宿題を少しと来月からの旅行のために、少しガイド・ブックなどの資料を探して読もうと想った。実際には、専門書のような本ばかりで、なかなか良い資料は見つけられなかったので、街の本屋で買うことになったのだが。

10月13日(水)食事の話
・YRとはワインかビールを飲みながら、もっといろいろな話がしたかった。夕食を一緒に食べようとYRに話をするとOKが出たので、以前、ミナがとても良いレストランだったと言っていた、ウェスト・ウッドの中華レストランに行くことにした。しかし、夕方までにはまだ時間が十分あったので、大学の中央図書館に行って勉強をすることにした。
・我々は、クラスは違うがどちらもプレゼンテーションの課題を持っていたので、それをどうやるかについて、少し時間を掛けて考えたかったからである。そしてその後で、アッカーマンズ・ショップ(大学の生協)をぶらついて、Tシャツやコンピュータを物色した。結局、何も買わずに外に出た。
・レストランのオヤジはとても愛想よく迎えてくれた。豆腐料理とえび料理、ヌードル系等を頼んでビールで乾杯した。所がYRはあまり酒を飲まないらしい。しかし、すっかり自分だけは気分が良くなってしまい、舌がとてもなめらかになってしまった。ただし、日本語である。オヤジに声を掛ける時も、つい日本語が出てしまった。(実はアメリカではレストランでは声を出して、人を呼ぶ習慣は無い。普通に有りそうなことだが、実は全く見掛けることはなかった。あくまでもアイ・コンタクトと手振りが普通である。でも自分は近くをウェイターが通りかかったせいもあるが、クリアな声で「スイマセン」と声をかけてしまったのだ。しかも日本語でやったので、彼女に笑われてしまった。)
・アメリカに来てから、外食を中心に色々な料理を食べてきた。しかし、大体がしつこすぎるのと、味付けが辛すぎることもあって、あまりうまい料理に出会うことはなかった。このレストランの中華料理も似たようなものだった。店の雰囲気や作りは金がかかっていてとても良い感じなのだが、肝心な料理の味が如何にもいい加減で投げやりな感じである。ヌードルはまるで、こねましたスパゲティのようだったし、味が濃くダシも利いていない。しかも量だけはやたらと多いのである。二人で食べても半分位を食べるのが精一杯だった。
・店を出た時は遅い時間ではなかったが、夜風が顔にあたって気持が良かった。まだ、そのまま別れてしまうには、心残りがあったので近くにカフェを探した。別に家まで押しかける気はないので、コーヒーを飲みながらお喋りをしてから別れた。彼女はここから歩いて帰ることができるらしい。

10月14日(木)雨漏りとテーブル騒動
・ここのところ、本当に毎日のように雨が続く。しかも、昨夜は雨音が聞こえるくらいチャンとした雨が降った。朝、いつものように起き出して学校に行き、そして夕方、部屋に帰ると何だか部屋の様子が変わっていた。今まで大きな机が置いてあった場所が移動し変わっていて、90度方向が変わっていた。ホスト・マザーに聞くと、雨漏りがしてテーブルを濡らすので、位置を移動させたと言う。契約には書いてないことが起こったためか、随分と言い方だけは低姿勢で、如何にも申し訳なさそうに謝る。別にどうってことはない話なので、さっさと引き下がってもらう。
・所がその後で彼女から文句を言われた。何かというと、部屋にはホコリにまみれた小さな籐製のテーブルが片隅においてあって、その上に小型のブラウン管式のテレビが載っていたのである。私が勝手にテレビをテーブルから降ろして、テーブルの位置を少し移動させておいたのだった。彼女がこれを見つけて、もとに戻せと言ってきたのである。自分はこのテレビを見ることはなく、邪魔なテーブルだったので、皆が部屋に来た時にテーブルだけでも利用できないかと思って移動させたのである。
・所が彼女はテーブルの位置を絶対変えてはらないと言う。そんなことは契約書に書いてないというと、ここでは全てのことを私が決めるのであって、私がダメなものは絶対に認めないと言うのだった。小さな話ではあるが、一方的な言い方に対してついに自分の声も段々と大きくなってしまった。「もうイイからさっさと出て行ってくれと」と言ったのだった。これに対して彼女が怒り狂ってしまった。部屋を出てからも、自分には何を言っているのか分からなかったが、一人で、大声で何か不満そうなことを叫んでいた。
・小さな事だが、さてっ。これからどうしようかと考えながらも、出来ればカネを返してもらって、そして別のホーム・ステイ先を探したかった。しかし、契約書のどこを読んでも、トラブルがあった時に金を返すとは書いてなかった。ここに滞在する予定も後10日位なので、今から別の所を探すのは得策ではなかった。そこでこのまま居続けることにしたが、その間、彼女と喧嘩したままであるのは如何にも気まずいので、明日の朝、顔を合わせた時に自分から謝ろうと想った。
・翌朝、「何であんなことを言ったのか、自分でも分からない。」と言って謝った。一緒にいたホスト・ファーザーが、間を取り持ってくれて、一応、落着することができた。事実、その後は、相手も自分も今までのように、気軽に話をして楽しく生活することができたので、まあ良いかと思った。しかし、心の中では、ここをLAにおける自分のホーム・グラウンドにしたいという気持ちは無かった。もしも、もう一度、LAを訪れる機会があったら、別の所を探すつもりである。


10月15日(金)レンタカーとカーナビの手配について
・10月24日の午前中に、このホーム・ステイを引き払って、再び車でアメリカ西部を縦断する予定である。今までのカリフォルニア旅行では、地図は持っていたが道路が全く分からなくなってしまうことが何回もあった。そんな時は走りながら誰かを探して車を止め、地図を見せながら道を聞くしかない。しかし、誰も居ないことも良くあったし、夜などは人が居ないだけではなく、全く自分がどこにいるかもわからない状態で、立ち往生してしまうのだった。そこで、思い切って中古のカーナビを買うことにした。
・アマゾンで中古品を調べると、アメリカでは最もポピュラーなTomTomの代表的なポータブル型が、何と70ドルで手に入ることが分かった。日本円では6000円もしない位の値段である。そこでインターネットで注文して、ホスト・ファミリーの家に配達してもらうことにした。配送料は$5だった。受け取りはホスト・マザーに依頼した。クレジット・カードを使うと、当たり前だが日本にいる時と全く同じで、簡単に注文が出来る。配送されるまでに4日を見ておけば良いので、一週間位同じ場所に滞在している場合であれば、全く問題なく安い物を手に入れることができる。
・このカーナビはポータブル型で、サイズが5インチ位の小型で使い安い感じのものである。持ち運びが問題なく出来る軽さである。画面が付いている本体の他は、12V電源用のコードが出ているだけである。以前、ステープルやビッグ電気で現物を見たのだが、展示されているものは、殆んど同様のものばかりだった。最も有名なメーカーは、“TomTom”と言う会社で、テレビでもよく宣伝を見掛ける。この辺りでは、最も多く使われているようだった。
・アメリカでは始めからカーナビが付いている車はまだ少ないようだ。そして後から車に取り付ける場合には、この持ち運びができるという点が、アメリカでは必須の条件である。何故ならば、外からカーナビが付いているのを見られたら、駐車中に窓を壊されて盗まれてしまう確率が高いと言われている。(なにせホームレスがあちこちにいるのである。)
・しかし、何でこんなに価格が日本と比べて安いのだろう。新品で同じ物を購入しても$180で手に入れることができるのである。実はこのカーナビ(アメリカではGPSと言わないと通じない)日本では同様な品は手に入らない。何故かというと、機能が全くシンプルなのである。行き先をインプットすると、曲がる場所を指示してくれるだけで、細かな地図は表示されない。しかし、全米とカナダの全域がカバーされているスグレモノであると思う。しかもそれでいて、随分沢山のホテルやモーテル、気の利いたレストラン等の情報がいっぱい詰まっているのである。必要な機能はチャンとカバーされているのである。日本では、カーナビというと、普通は10万円位する筈だった。自分が日本で使っているカーナビは、テレビが見られたり、細かな地図が見られたりと、いろいろ豊富な機能があるが本当に扱いにくい。アメリカ人の合理性が、何とも自分には嬉しい。
・次にレンタカーを予約した。先月、バジェット・レンタカーで借りた車は、日本で予約したのだが、小型車、保険付き、期間が3週間で、丁度10万円だった。それでも、ハーツやエイビスよりは割安だったが。こちらで会った友人の何人か(高さん等)の意見では、やっぱり随分と高いという話だった。
・そこでインターネットの最安値を中心に、チャンと保険が付いている事を確認して、同様の小型車で5週間という条件で探してみた。そして、8万6千円(1$83円)で見つけたものを予約した。一番の決め手は、レンタカー・オフィスが、ホーム・ステイ先から歩いて行けることと、オフィスから空港まで送迎してくれることであった。
・レンタカー・オフィスはホーム・ステイ先から歩いて15分位の所だったので、夕方、散歩がてら見に行ってみることにした。(行ってみると、その辺りは他にもハーツやエイビス等の大きなカープールとオフィスがあった。) 何故なら、値段が安いのは大いに助かるのだが、何と行ってもインターネットでは車の状態が確認できないので、変な車だったら心配だからである。ポンコツ車を借りてしまったら、もしも万が一にも、誰もいない荒野で車が故障した場合にどうなるか? 考えただけでもリスクが大き過ぎる様に感じられたからである。
・レンタカー・オフィスに行って見てビックリした。予約した会社は
”THRET”という名の小さな会社の筈だったが、扱っているクルマや保険等の手続き業務は、すべて ”Doller”が取り扱っているフランチャイズだった。車もダラーの自社工場で十分に手入れがされている様だった。オフィスの隣に大きな修理工場があった。しかもLAXの近くにあるということで、旅行者の借り手も多いのだろう、とても活気に満ちていた。車は韓国製の ”KIA”か、フォードの“XXX”等の数種類から選択ができた。いずれも見た所では、新車に近い新しさである。ただし、日本と違って走行距離は1ヶ月で5千Km位は当たり前の国なので、相当走っている様だった。取り敢えず車は来週取りに来るのだから、今日は下見を終えて満足し、既に暗くなって誰もいない夜道を、一人とぼとぼと歩いて帰宅した。

10月16日(土)韓国人街と韓国料理
・高さんが呼びかけ人になって何人かを集めて、数人で韓国街に焼肉を食べに行くことになった。韓国人街がどの辺にあるかは、自分もLAの地図を調べていたので大体は分かるのだが、車で飛ばしていくと改めてLAの広さが実感できる。何せ普通の道路が高速道路のようなスピードで走れる位、広い。つまり東京の街を、建物をそのまま残して、土地空間だけを20倍位広げた感じの景色である。途中には石油を採掘している場所まであり、昔ながらの機械式のクランクを使った油田用の組上げポンプが何十基と立ち並んでいる所もある位である。本当にここはLAなのかと思う。それを見かけたのは、確かLAのほぼ真ん中あたりに位置するストッカーと言う場所で、LAXから北方向に向かうラ・シェネガと云う名前の幹線道路の近くであった。
・LAで一番大きな韓国人街は、地図で見るとウェスト・ウッドとダウン・タウンを直線で結ぶそのほぼ中央にあった。その通りは、確かウィルシャーと云う名前の通りだった。ここは路線バスで何回も近くを通った所であるが、実は自分の足で歩くのはこれが始めてだった。兎に角大きな街で、この街から一歩も外にでないで暮らしているお年寄りも多いという話だった。つまり、生活に必要なものは、何でもここだけで手に入るらしく、本格的な韓国料理の食材も直ぐ近くで売っているらしい。
・しかし、高さんがINで調べた数軒のレストランに実際に行ってみると、あまり活気があるようには見えず、最初に行った店はドアが閉まっていた。街中であったが、近くの道路にも人の気配がなく、何となく寂れた感じがした。二軒目に行った店も同様な感じがしたが、ドアを開けて中に入ってみると、そこには大勢の人で溢れていた。多分韓国人ばかりだろう、皆、髪の黒い若者ばかりだった。テーブルには食べ残した皿やナプキンが山のように残されたままだし、通路にもゴミが落ちていたりビール瓶が置いてあったりして、お世辞にも綺麗な感じはしなかったが、料理は期待できそうな感じだった。何しろ、アメリカに来てから既に6週間以上になるのだが、旨い料理を食べた記憶があまり無いのである。少なくとも、日本で食べる韓国焼肉と同じ位の味が、更に安く食べられるのではないかと期待した。
・料金は確か$15位で料理は食べ放題ということであった。味は予想通りで美味かったし、値段も日本で食うのと比べて、はるかに安かったと思う。未成年のKaorとドライバーの高さんは酒を飲めなかったが、自分とKazはビールをジョッキに2杯も飲んで満足した午後だった。

10月17日(日)中国人街とナタデココ&再びホスト・ファミリー家でのパーティ
・日曜日の午前中に、先週と同じように一週間分の洗濯をしているとKazが中国人街に一緒に行かないかと誘ってきた。聞くと若い中国人留学生のXXXが、中国の食材を買うためにモンタレー・パークに行きたいので運転手として一緒に行くように頼まれたと言う。自分は、直接関係はなかったが、中国人街に少し興味があったので、今まで言ったことのないその街に一緒に行って見ることにした。モンタレー・パークはダウンタ・ウンから少しだけ東に行った処にある市の名前で、LAの中では最も大きな中国人街があるらしい。
・LAXの近くにあるホーム・ステイ先からXXXの住んでいるPIKOへ行く。XXXとは近くのドライブイン・レストランの駐車場で待ち合わせているので、そこに車を止めて待っていた。すると、しばらくして店の裏の調理場から人が出てきて、店に用がないのならばここに車を止めないでくれと言われてしまった。広いLAでも、駐車場は一応、私有地なので仕方なく横の道路脇に車を移動させる。しばらくすると、見覚えのある女性が向こうからとことこやってくるのが見えた。彼女は大学1年生とのことだが、まだ18歳なので本当に若い。若いがKazを運転手として確保するあたり、かなりのしっかり者との印象を受けた。
・YYYはLAの北東の方へ、かなり走った所にあった。LAの中心街にあるダウン・タウンの直ぐ側にも中国人街があるが、そこと比べても格段に大きな街だった。街というより町全体に中国人や韓国人が住んでいるような印象を受けた。あちこちに東洋系の髪の黒い人達が歩いている。
・いくつか大きなマーケットがあるようだったが、その中の一つでホスト・ファーザーに描いてもらった場所を探した。そこはさすがに大きな駐車場がある、食材ばかり扱っている大きなマーケットだった。中に入ると、日本では見たこともない野菜や魚やその他色々なものを売っていた。魚にしても何十種類もの魚が氷の上に並べられていて、それぞれ英語で名前が書いて有る。一つ一つ覚えようとして頭に刻んでいったが、最後のところまで来ると全部忘れていた。
・色々と目新しい物を見ていたが大分時間も経ったので、そろそろXXXは買い物が終わったのかと思って姿を探してみた。所がどでかいカートには、まだホンの少ししか買うべきモノが入っていなかった。世界中どこへ行ってもそうだが、そして老いも若きも同じなのだが、男に比べると女性は買い物に掛ける時間が桁違いに長いと思う。さっさと決めれば簡単なものでも、一度手にとってじっくり見てから、また元に戻したりしている。そろそろ、自分は疲れが出てきた感じがするのだが、女性は買い物で疲れてしまうと云う事が無いのだろうか。
・やっと、買い物が済んだ。今度はナタデココの美味いカフェがあるので、そこに行きたいと彼女が言い出した。自分も甘いモノが嫌いではないので、良かった。しかし、肝心の店の場所がわからないという。カーナビを使って、また、色々と聞いて回って探し当てた店は、さすがに長い行列が出来ていたのでビックリしてしまった。その店には20種類位のいろいろなナタデココがあった。
・自分はナタデココの他に、きなこ餅の様な一品を頼んだ。しかし、店で食べるのにアメリカの他のカフェでも良くあるように様に、お持ち帰り用の透明で薄いプラスティックでできたケースに入れてくれるのだ。使い捨てのスプーンやフォークと太いストローを貰って、わずかに空いているテーブル席で食べる。
・店の中なのに、自分達のテーブル席の前には、店の外から続く長い行列の最前部分にいる人達が並んでいる。見ると、皆、若い男女か女性のしかも東洋系の人達のグループばかりである。アメリカの町では、どこに行っても男同士のグループというのは見かけない。大抵は男女のカップルか、子供連れのファミリーである。しかし、ここだけはまるで日本のように、髪の毛の黒い人達が大勢いて、まるで日本にいる様な感じを受けた。
・しかしながら、目の前の一組のカップルだけは、さっきから人目を意識した感じの濃厚なキスを繰り返している。イタリアやフランスでは良く見かけるこの光景も、ここアメリカでは今まで全く目にしなかったものだ。実は今回の旅行で、街中でキスをしているのを見たのはこれが二回目だった。
・兎に角、ナタデココは少し甘すぎる気もしたが、まあまあ美味かった。YYYが “今度、日本に行ったら家に行く“ からと言ってメール・アドレスを聞いてきたので、やむなくアドレスを交換する。
・帰り道は、少し完全燃焼出来なかった感じが残っていたので、わざわざKAZに頼んでダウン・タウンに寄ってもらい降ろしてもらった。ブロードウェイの近くで映画でも見てから、バスで帰るつもりだった。
・夜、8時近くにホーム・ステイ先に帰ると、そこにはKazとMeiの他にYYYが色々な中華料理を作って待っていた。というより、自分が帰るとすぐに丁度、皆で食事が始まったのだった。聞くとホスト・ファミリーは月に一度の教会の集まりがあって、帰りが遅くなるらしい。ホスト・ファミリーは、ホーム・ステイをしているメンバーの友人達が家の中に入ることを極端に嫌っていた。しかし、今日だけは皆、自由に羽を伸ばして、キッチンを長時間占領出来るという訳だった。食事の後はビールを飲みながら、ゆっくりと話しができたのだった。兎に角、料理が大好きだというホスト・マザーの作る料理は、手抜き料理ばかりで、お世辞にも美味いとは言えなかった。また、アメリカに来てから何軒かのチャンとした中華レストランで食事をしたことがあるが、ハッキリ云って旨い料理にお目にかかれなかった。しかし、彼女達は素人であるが、彼女たちが作る中華料理より美味い食事は今まで無かった。それ程に本当に料理が美味いと想った。

10/4(Mon)--10/10(Sun)

10月4日(月)私のプレゼンについて(1)
・学校の授業でプレゼンテーションをやることになった。話しをする持ち時間は15分位で、質問とそれに答える時間が15分位を考えて欲しいとのことだった。そして、プレゼンテーションを上手くやるための注意点や、トピックスの構成の作り方などの話があった。このプレゼンテーションの時間は、当然のことながら話の内容が重要なのではなく、皆の前で、英語で何かまとまったことを話す訓練の場である。アイ・コンタクトで聴衆の様子に合わせて、話し方を少しずつ変えていくようなという所に、訓練を行うポイントがある。しかしながら、自分としてはただ上手に話をするのではなく、キチンとした内容のある話を伝達したいと思った。
・自分は話の内容として、授業前に行った旅行の中の話題から、アメリカの道路事情をテーマとして選択した。特に道路の作り方やその設計方法について、日米比較を行いそこから何かの意味がありそうな仮説を立てて、それを検証することで何を伝えたいと考えた。そこでタイトルを「アメリカン・ロード」と決めた。
・構成としては、まず事実としてのアメリカの道路の特徴を、日本のそれと比較する形で説明する。次にそれによって生じるメリットとデメリットを整理する。更に、どうしてそうなったのかについて考えるために、その背景にある日本人とアメリカ人の考え方の違いを仮説として述べる。そして、仮説に沿ってデータを調べる。調べた結果を分析する。そして、最終的に得られた結論をまとめる。というような構成を考えた。
・アメリカの道路は日本と比べると幅が広く、特に高速道路はレーンの数が多いこともあって、実に合理的に出来ているのである。自分はこの点を強調して、その理由として「アメリカ人は日本人より合理的な考え方をする」という仮説を立てた。
・そして分析結果として、実は仮設は間違いであること。民族の考え方の違いから道路の作り方が違っているのではなく、最終的にはスペースの広さが決定的な要因となって、根本的な道路設計の違いとなって現れるという結論を導くことにした。ただ単に、設計しやすい為にそうなっているだけ。
・アメリカは広くてスペースが余っているので、何処に行くにしても相当に長い距離を移動しなければならない。そこで、できるだけ短時間で移動する事ができるように設計しているのである。日本では逆に、狭い所に無理やり道路を通すようにしているので、速度よりも安全を第一優先で道路を設計していること。従って、基本的な人間の考え方の違いが原因ではないということを結論として強調したいと思った。

10月5日(火)買い物
・今日、学校から帰ってくる時に購入するべきものをリストアップした。そろそろ寒くなる可能性があるので、長袖のスポーツシャツ、ジャケット、英語のヒアリング練習用のヘッドフォン、授業で使う英英辞典、それにプレゼンテーション用の資料をまとめる為のパワーポイント等である。
・自分は一応、UCLAの学生なので、学校の生協で売っているものであれば何でも安く買うことが出来る。特にPCのソフトウェアは、学生用のアカデミー版を買うことが出来る。自分は「オフィス」の中の「パワーポイント」だけを欲しかったのだが、パワーポイントだけではなく全てが入っている 「オフィス」 のフルセット版が$99で買えることが分かった。日本円で計算すると8000円位である。(確か街で購入すると、日本では4万円位の筈である。)
・早速、購入してPCに入れて使ってみた。当然のことながら英語版の仕様なので、プルダウンで出てくる単語は全て英語であるが、日本語辞書も入っており基本的な操作に困ることはなさそうである。
・毎日の往復の通学時には、できるだけ前日にウォークマンに録音していたNPRのニュース番組を繰り返し聴くことにした。その為に、新しい新型のウォークマンかアイポッドのどちらかを、後で学校の生協で購入しようと想った。

10月5日(火)UCLAのキャンパス
・学校の授業は朝の9時に始まり午前中の授業は12時まで、そして午後は1時から3時までで終わってしまう。そこで、自分は何時も授業が終わった後は1時間位教室に残って学校に備えられているPCを使って、一人で英語のテキストをヒアリングすることにした。このPCには色々な講座がセットされていて、生徒達はそれを自由に使うことができる。英語を聞きながら、自分の声を吹き込んでそれを聴くことや、読みの結果の理解度のテストをしながら少しずつ進んでいこうと思った。
・もう、既に一週間も前のことであるが、学校が始まって二日目にUCLAの構内の施設を案内してくれるというツアーが有ったので参加したのだった。UCLAには想像していたとおり色々な贅沢とも言えるような施設が沢山ある。立派な図書館が幾つも(確か大小5か所位あった)あるし、大きな講堂では毎週のように有名人が講演する音楽会もある。今週末(既に終了している)にはジャズのオーネット・コールマンが来たという。しかも、通常チケットが$90なのに対して、UCLAの学生であればわずか$15で聞くことが出来る。
・そのツアーで知り合った学生にYRがいた。YRは社会人として実績を残しながら、3ヶ月間の出張が認められてここに来ているという。英語は学生時代にかなりやって来たと言っていたが、実際に相当な実力の持ち主だった。従って、当然のことながらアドバンス・クラスのメンバーなので、自分とは別のクラスなのだが、話が合うこともあって時々会うようになった。
・彼女が時々であるが、授業の後で自分が一人でヒアリングをしているとやってきて相手をしてくれるのである。そこで、コーヒー・ショップの場所を移動したりして、彼女の話を聴くことが自分の楽しみに加わったのである。

10月6日(水)アメリカのコーヒー・ハウス事情
・今日の授業が終わった後で、PCラボで英語のテキストを聞いていたらYRが会いにやって来た。彼女は週に何回かこうしてやって来るのであるが、会っているととても楽しいのでテキストを聞くことは止めて一緒に外に散歩に出かける事にした。
・UCLAがあるウェスト・ウッドはロスアンジェルスでもチョット高級で綺麗な街である。気の利いたカフェやレストランやブティック等が沢山あり、そして、どのカフェも少しは裕福そうに見える若い男女の学生達で溢れている。そのような街を、散歩をしながら歩き、そして歩き疲れるとコーヒー・ビーンでお茶とクッキーを食べながら話を続けた。40年も前の学生時代のキャンパス生活に戻ったような懐かしい気分だった。
・彼女は自分からみると、英語の能力は申し分がないように思われた。しかし、初めてYRに会った時には、彼女は授業の内容について悩んでいた。一つは周りの生徒達が既にネイティブに近い連中ばかりなので、同じように彼らの間に入っていく事が難しいということで、少しだけ自信をなくしていた。もう一つは、UCLAでの授業方針が他の語学学校と随分違っていると言うことにあった。言い換えれば、UCLAでは会話練習の時間は殆ど無く、一人一人の生徒に質問して答えさせるやり方ではなく、積極的に発言させそれに積極的に参加した生徒だけが上達していくという考え方である。従って、生徒同士で勝手に話して英語に慣れることが重要であるというやり方だった。過去の豊富な授業の経験を活かした、系統的なスキル・アップのトレーニング・システムがあるようには見えず、まるで学校は思い思いに会話をする場と機会だけを提供しているだけのように見えるからである。こんな所にやってきて、時間と金のムダであると思い始めているようであった。
・また、YRはアメリカに出張して来て、やるべきテーマも持っていた。彼女の勤め先は大学だと言うこともあり、大学における授業を改善していく方法について、自分でいろいろな事例や資料を調べて、改善方法について提案するという課題を持っていた。そこで自分の英語力のないことは棚に上げて、できるだけYRを励ましてやり、彼女の力になってやろうと思った。色々と話しを聞きながら、やった方が良いと思われる、対応策などを考えたりしたのだった。
・実は後で明らかになることであるが、YRは行動力の持ち主だった。既にツテを頼って、UCLAだけではなく、全米のいろいろな大学の教授達に対して、面談を希望するアポイントを取ろうとして、いろいろ動いていたようだった。自分でツテを広げて、全米の大学の教授達に実際にアポイントを取って、サンフランシスコやジョージアやマサチューセッツ等にヒアリングをする為に出かけて行く計画を立てていた。時々は上司に中間報告書を送っている様だった。それにクラスの他のメンバーとは、まるでネイティブのように話している。
・別の日の事だったが、YRと一緒にサンタ・モニカのレストランで食事中に、彼女は周囲の人達が何を話しているかを聞き取ることが出来ると言っていた。自分は彼らが話している内容など、騒音のようであり全く一言も聞き取れないというのに。

10月7日(木)フェース・ブックが大流行
・実は自分はアメリカでクラスの大半がやっているという、フェース・ブックというものを知らなかったのである。これは学生たちの間では、既に殆んど100%近く浸透していて、自分には彼らがまるで中毒しているのではないかと思える程であった。例え、授業中であろうと彼らは携帯を横において10分おきに交信しているようだった。
・そこで、自分もフェース・ブックを始めて見ようと想った。まずはMeiとKazに友達になってもらった。YUKに話をしたら、友達になりたいと言ってくれて、更にスコットとアダムを紹介してくれた。スコットもアダムも授業の先生で、毎日のように顔をあわせている。そして、高さんから食事の誘いが有ったので、フェース・ブックの話をしたら、彼もリストに入れてくれるという。
・こうして実際に顔を合わせている友人達が、フェース・ブックの友人としてもドンドン増えていくのが何となく嬉しい気分である。何故ならば、彼らは実際に知っている友人達なので、自分が何かを発信すると必ず誰かが反応してくれる。アメリカに一人で暮らしていても、寂しさを感じることがないからである。フェース・ブック上の友人達と言っても、実社会でも顔を合わせて話をしている連中ばかりなので、日頃の応答がまるで世間話の延長のような気がするのだ。何しろ、自分は彼らの先輩などではなく、意識としては自分も彼らと同じ立場の生徒なのだから。
・自分は既にリタイアしている身分であり、年齢から言えば彼らの父親より上であることが多い。普通であれば友人と言える間になることは考えられないことだった。事実、自分の娘にこの話をしたら、彼女は60歳を過ぎた爺さんとは話が合わないだけではなく、話などをしたくないし、それは考えたくもないことだと言っていた。
・しかし、ここはアメリカなので、日本にいる時とは決定的に異なっていることがある。若い学生達も、そして、一度、社会人を経験しながら会社を辞めて留学している学生達も、そして自分もまた、皆、一様に期待と大きな不安や悩みを抱えている。それが自分には分かるからだ。この事は彼らと同じ境遇や立場に立たないと、実感出来なかったことかも知れない。
・更に言えば、自分は一応、社会を垣間見て来たという経験を持っている。従って、彼らが悩んでいることの構造が理解できるのだ。ただし、ここで注意をしようと自分に言い聞かせたことがある。それは自分が娘に対して何時もしているように、解決策を彼らに教えて上げるというような、上から目線で接することは絶対にしないことだった。だから、彼らと付き合う時は、基本的に勘定も割り勘である。そして、自分が楽しいと感じることと、彼らにも変なストレスを与えること無く、同じ学生同士の友人として感じて貰えるように努力して行こうと考えた。

10月8日(金)学校の授業について
・今日の午前中は授業が全く乗らなかった。今、通っているUCLAの語学コースでは、二つある能力クラスの内、自分はアドバンス・クラスではなくその下のクラスの方にいる。そして、別に根拠はなかったのだが、自分はそのクラスの中では平均かまたはそれよりも少し上にいるに違いないと思い込んでいた。しかし、何回かの授業を受けている内に新しい事実を発見した。先生が何を生徒達に指示したとき、殆んど全員が素早く作業にとりかかるのである。しかし、自分は先生が言ったことを完全には理解していなかったので、何をどうすれば良いのか分からないのだった。隣の人に聞くと、直ぐにやるべき事を教えてくれる。皆、チャント先生の話す英語を完璧に聞き取っているのである。
・特に自分にとって困難であったのは、PCディスプレイを使って、誰か他のメンバーと組んで、ヘッド・フォンとマイクを使って質問をやりあう形式の授業である。そして、パートナーを次々に変えていき、質問した内容とその答えを、キーボードから入力していかなければならない。次の授業の時には、添削された印刷用紙が返されるである。このやり方は、クラスの人数が多いために、仕方なく採用されている方法だと思うが、ヘッド・フォンにノイズがあったりして、実に聞き取りにくいのが答えるものだった。また、自分はキーボード入力が遅いだけではなく、入力するべきスペルが良く分からないので、ついいい加減になってしまうのである。しかし、ほとんどのメンバーがそんなことは全く気に留めていなかった。キー入力はあっという間なので、まるで普通に言葉で話し合っている様に見える。
・このやり方に不満を感じている生徒がもう一人いた。それは40台後半の韓国人の歯医者さんの女性だった。そこで、自分はこのような(イージーな)やり方は自分には合っていないし、好きでもないと先生に言った。そうしたら、次回からはコンピュータを使うのではなく、互いにメンバーを見つけて対になって質問しあい、結果を紙に書き出す方法に変更されたのである。自分には大いに助かったのだった。
・またUCLAの授業方針は、授業中に一人ずつ当てて発表させて練習させるようなやり方ではなく、各自が積極的に参加しなければ練習にならないようなやり方である。更には生徒同士が互いに友人として話すことで、英語に慣らせようとするものであったので、どうしても気後れしてしまうような生徒は練習にならないのである。すなわち、授業に積極的に参加し活発に参加できないと、何となく燃焼したりない気分がするのだ。
・自分が此処にきて、何となくフラストレーションが溜まってきた理由がわかった。自分は年令に関係なく、多くの学生同士で友人関係を作り、いろいろな事について英語で議論する機会を持つために此処へ来たのだった。それが思いの外、実行出来ないために、思ったような充実感を味わえない。午後からは、積極的に議論に参加して行こうと、改めてそう想ったのだった。
・今日は、ランチを友人達とガヤガヤと食べるのではなくて、一人でチャンとしたレストランでインド・カレーを食べた。もちろんウェスト・ウッドの校舎の近くにある店なのだが、さすがにここは少しだけ値段が高い所なので、客の多くがビジネスマンのようだった。店も綺麗だし、チャンと真っ白なテーブル・クロスが掛かっており、チップも必要な店であった。メニューから「ビーフwithグリーン」を頼んだ。出てきたディッシュは山のように盛られたライスとカレーで、カレーは兎に角辛く、ライスは細長いパラパラのフライド・ライスだった。味はマアマアだったし値段もチップを入れて$12位だった。

10月9日(土)映画館でショックを受けた後のささやかなホーム・パーティ
・アメリカにいる間に英語の勉強として、一度は映画を見たいと思っていた。今日は土曜日で学校が休みなので、思い切って映画を見に出かけた。別に映画は英語であるならば何でも良かったし、何処で何をやっているのかは全く調べていなかった。しかし、ウェスト・ウッドには3件の映画館が有ったので、その中の一つに入ったのだった。料金は学生割引とシニア割引が同じだったので学割にした。通常で$15の所が$10であった。
・所が映画は英語の勉強には全く役に立たないことが分かった。アメリカの映画館であるから、当然、字幕がつかない。そうすると、耳で聞いているだけでは、一言も聞きとれない。画面を見ることで話の筋は理解できるのであるが、言葉が全く分からず、映画はレベルの差が違いすぎて、語学勉強には全く役に立たないことを実感した。
・映画をみた後で、一人で大学の図書館に出かけた。その後で、デパートで買い物をして、夜、家に帰ると、既に一緒にホーム・ステイをしている他の二人が、自分達で食事の準備をして待っていてくれた。今日はホーム・ステイをしている3人で、ささやかなパーティをやると言う。MEIが中国料理を作ってくれて、KAZがワインを買ってきていた。自分は何も知らなかったのだが、聞くと今日はあの細かいことに口を挟みたがる、煩いホスト・ファミリーは出かけて夜遅くまで帰って来ないらしかった。
・料理はアメリカに来てから、最も美味しいと感じた位、口にあって美味かった。Kazが買ってきた白のイタリア・ワインも強すぎず美味かった。食事を食べながら、はじめはホスト・ファミリーのつくる料理の不味さや手抜き料理等の悪口を散々言い合った後、口が軽くなって色々なことを話し合った。
・食事を終えた後、簡単な片付けを手伝った後で、二人が自分の部屋にやってきて、今度はウイスキーを飲みながら、夜遅くまで話を続けた。このような時間は、一日のストレスを解消するためには、とても良い時間だと感じた。料理を作ってくれたMeiに対して、何かお返しをしたいとも想った。

10月10日(日)トーランスという街で会った中国人
・午前中にホームステイ・ファミリーの洗濯機を借りて、一週間ぶりの洗濯をした。洗濯機と言っても日本で普通に見られるサイズよりは、数段に大きくてそして日本では見る事のないようなかなり古い物だった。(これはコインランドリーでもそうだった。)洗濯機で洗った後には、日本では太陽の恵みを受けて洗濯物を乾かすのが一般的である。しかしここでは日本と違って、電気エネルギーをフンダンに使って全自動の機械で乾かすのが普通である。乾燥機が止まった頃を見計らって、洗濯機が置いてあるガレージに行ってみると、そこにはカラカラに乾いて皺くちゃになった洗濯物があった。
・Meiは同じ一部屋を占有しているだけなのにもかかわらず、自分には想像もできないほどの、沢山の山のような衣装を持っている。そしてここに住んでいても、更に毎週の様に安くて一見豪華な衣類を買ってくる。多くは、インターネットで買っているようだった。しかし、彼女は決して洗濯機を使わないのだ。カラカラに乾いて皺くちゃになった洗濯物は我慢出来ないという。彼女だけはホスト・ファミリーの裏庭で、窓枠と植木の間に紐を通して、下着や白地に派手な金のラメのついた服などをぶら下げている。スタイルが良いせいか、派手な服が彼女には本当によく似合っている。
・自分が洗濯機にかけた洗濯物を畳んでいると、Kazが今日、もしも暇だったら 一緒に出掛けないかと声を掛けてきた。聞いてみると、彼が付き合っている日本人で、ハリウッドにある高級マンションに住んでいる女性が居るという。彼女が今日IKEYAで家具を買いたいらしいから、一緒に付き合ってほしいとのことだった。Kazが彼女と付き合っているといっても、実は所謂「彼女」ではなく、彼女が何処かへ出かけるための足として必要とされている様だった。今回は購入するものが家具ということで、要するに運び屋を手伝って欲しい事のようらしい。自分はこちらに来てから知り合いも少なく、休日は暇なことが多いので、残念ながら断る理由もなく 暇つぶしに出かけることにしたのだった。
・予定ではIKEYAで家具を買って、夜は更に別の中国人の女性の留学生を含めて、食事をしようというものだった。それは尚更良いと思った。昼食としてリンゴとバナナを齧ってから、Kazの車で出かけた。
・ハリウッドのマンション街に着いてから、電話で連絡をして外で待っていると、一人の小柄な女性がマンションから出てきた。彼女がKさんであった。年の頃は40歳位のように見えたが、ロスアンジェルスでは2つの医学系の学校に通っていると言う。それはとても大変なことだと自分では言っていた。確かに英語の授業を一度に沢山受講しているということは、日本とは違って想像を絶する苦労があるだろうことが容易に予想できる。日本とはレベルが違うというのではない。アメリカの大学では、単位を取るために週に本を何冊も読まなくてはならない。また、相応のやるべき事を、時間を掛けて真面目にチャンとこなしていかなければ進級できないからだ。不合格の場合は、コンピュータが情け容赦なく知らせてくるらしい。ましてや日本人は英語のハンディがあるので、最初の数年間は誰でも大変な苦労をすると誰もが言う。
・しかし、彼女はさすがにアメリカで、長年一人で暮らしていることもあって、一人で生きて行くための図太さを身につけているようだった。自分にとって不都合なことが有った場合は、勝利を勝ち取るまでは絶対に引かないと言っていた。「アメリカ人に対しては、何か有った時に、多くの日本人がするように、逃げてはダメよ。チャンと粘り強く交渉することが大事ね」と言っていた。強そうな女性だった。
・IKEYAは建屋の構成から商品の配置に至るまで、全く日本にあるものと全てが同じようであった。建物の中をぐるぐる廻って歩いて行くと、日本で見るものと同じ様なものが同じように配置されている。彼女は安いが使い勝手の良い、引出しタイプの洋ダンスを欲しがっていた。7000円くらいの価格で、どれも同じように良さそうな物が幾つか直ぐに見つかったのだが、実はそれから一つに絞り込むまでが大変であった。
・IKEYA では出来上がった家具を売っている訳ではなく、倉庫まで行って自分でキットのようなものを運んで来て、それからレジで支払いをする。家具は家に持って帰ってから自分で組み立てるので、どうしても男の手が必要なのであった。
・IKEYAで買い物をした後は、トーランスの街にある日本のスーパー「ミツワ」へ行くという。行ってみるとそこは、全くの日本の大型のスーパーであり、何もかもが見慣れた日本のスーパー・ストアであった。店の中には、パン屋や握り鮨のコーナーまであった。何れも日本にあるものと見たところ同様である。ただし、値段だけは日本よりは幾らか高い様だった。
・トーランスと言う街は、実は日本人がとても沢山住んでいる所である。それは大きな自動車会社が幾つかあることが理由だった。何しろメイン・ストリート走っていると、「トヨタ・ストリート」という名前の通りまである。夕食を予約してあった日本食レストランでも、客は日本人ばかりであった。あちこちから大きな声で話をする、元気な日本語が聞こえてくる。今まで自分はアメリカに来てから、日本人には殆んど合わなかったのだが、ここはまるで日本である。話す言葉も食べることができる日本食も、全く日本そのものだった。
・ちなみに自分は、料理としては「五目野菜炒め焼きそば」とビールを頼んだ。どちらも日本の中華料理店で食べるのと全く同じ美味しさであった。実はロスアンジェルスの中華料理店で、このような美味しい中華料理を食べることはなかなか難しいのである。どこへ行っても、アメリカ人が好むエスニック調に変えられており、味がとても辛くそして量だけがやたらと多いのだった。
・丁度、夕食を一緒に取ろうと約束した時間(夕方7時)からほんの少し遅れて、中国人女性の王さんが現れた。彼女は学生と言っても、実は既にトーランスにある病院でナースとして週に何回か決まった時間に仕事を持っていた。ここに来る前は日本の茨木大学と同大学院で学んでいたということで日本語が上手だった。
・彼女と日本語で話していて直ぐに、彼女がとても考え方のしっかりした、そして行動力のある素晴らしい女性であることが分かった。アメリカで学んでいる理由は、アメリカの大学では看護学の学位やドクターを取得する道が開かれているからであるという。そして、資格を取得した後の現場では、医者と対等の立場に立つ可能性のある専門職として認められているらしい。中国や日本では、看護婦(夫)の学位やドクターが資格として認められておらず、従って、看護婦はあくまでも医者の補助であって、専門職とは認められていないのが現状だという。そういえば、看護婦のドクターと言うのは日本で聞いたことがない。
・彼女は昼間、実務に携わりながら大学で単位を取ろうと頑張っているという。そして彼女の抱えている悩みは、学位やマスター、及びドクターを取得しても、その後、アメリカでずっと暮らしていかなければ、資格が生かせないことだった。もう一つの選択として、日本や中国に帰国する方法が考えられる。しかし、その場合には、せっかく学んだ資格が生かせないと言うことで、看護婦として働く道はあまり得策ではないと考えている。
・王さんと話をしていて、色々なことに気付かされた。中でも自分が感心したことは、自分の夢や目標に向かっていこうとする、そのひたむきな考え方と行動力である。更に彼女の場合には、困難に立ち向かっているというイメージが全くなく、とっても楽しく生活しているという強さが感じられることだった。従って、自分は自分の長い経験をもとに、何か少しは役に立つアドバイスの様なものを話したいと想ったが、軽々しく勇気づけてあげる事はできないと圧倒された。そこで、ひたすら彼女の話を聞くことで、数時間があっという間に過ぎ去ってしまったのだった。

・その日、家に送ったメールで、自分が女性のマンションに行った話を書いた。しかし、それが元になった誤解から、家では大変な事件が起きていたのだった。自分は帰国するまで何が起こったのか理解出来ないだけではなく、一度、生じた喜劇のような誤解を解くことが出来ず大変な苦労をすることになったのだった。

9/27(mon)--10/3(Sun)

9月27日(月)UCLA語学学校に行く
・今日から4Wという短期間だけであるが、カリフォルニア大学ロスアンジェルス校が行っている、イクステンション・プログラムに参加することになった。イクステンション・プログラムとは、社会人や学生が多くは一ヶ月単位で自由に参加・出席ができる、外部に開かれた講義プログラムである。ここを履修しても大学で学んだという資格や単位は得られないが、大学がどんな講義をどのようにやっているかを調べることや、その雰囲気を体験することが出来るのでとても良い企画だと思う。
・講義の内容は多岐にわたり、所謂、ビジネス・スクール・プログラムから、ランゲージ・プログラムまで豊富に揃っており、誰でも自由に参加出来る。自分はランゲージ・コースに参加した。ランゲージ・コースには、大学入学を目指す語学力をつけることを目的とした、アカディミー・コースから通常の語学コースまで、レベルを含めていろいろなプログラムが揃っている。どのコースも一日フル・タイムの授業があるので、あらかじめアメリカに入国する前に、学生ビザを取っておく必要がある。
・私は通常の語学コースを取ったのだが、今日はそのプログラムの初日なのである。自分がホーム・ステイで滞在している家は、ロスアンジェルス・エア・ポート(以下LAX)の近くにあり、ここからUCLAのキャンパスまでは、バス停まで徒歩で約10分、バスで約30分と片道Tot40分位の距離であった。学校は朝の9時から始まるのであるが、学校の近くのカフェでパンとコーヒーの簡単な朝食を食べようと思い、1時間以上の余裕を見て7時に家を出た。道路は事前に話に聞いていた程は混んでいなかったが、これは朝が早かったせいかも知れない。先週の土曜日に同じ道を、地図を見て迷いながらも、車で通った時にはかなりの混雑だった。
・9時少し前に集合場所に行くと、既に大勢のそれらしき人達が受付の周りに集まっていた。自分には周りに知らない顔ばかりが並んでいるのだが、多くの参加者は既に皆が互いに知り合い同士のように話をしている。皆が英語で話をしながら自由に振舞っているのを見て、とても羨ましく感じるとともに、自分が何か取り残されていくような気がしてしまった。しかも、皆、まるでネイティブのように自由に英語で和気あいあいと会話をしているので、自分は中々、中に入っていけない気がしてきた。日本人らしい若い女性も何人かいたが、それぞれ自信たっぷりに、となりの外国人達と大きな声でしかも楽しげに話しているのを見ると、とても近づいていく気にはならなかった。自分のように誰も知り合いがいなくて、隅のほうにボーっと立っている人も何人かはいたが、ワザワザ話しかける気にもなれなかった。それに今まで全く気にしていなかったのだが、考えて見れば他の多くの学生達と自分を比べると、まるで親子のように年や外見が違うのである。その上、自分は前もって話すことを頭の中で復習してからでないと、言葉が口から出てこないのである。何とも口惜しい瞬間だ。日本人なら普通かもしれないが、ここLAにはそんな人は他にどこにも居ないのではないと感じた。
・9時丁度に挨拶とともに始まったのは、オリエンティーションとクラス分けのテストのみだった。テストはマーク式で大量の問題に対して短時間で答える形式のものと、実際に面談をするインタビュー型式のものだった。高い授業料を払ったにも関わらず、わずか2時間で今日の分が終わってしまった。後で聞いたら、今日の分は週の最後にまる一日を追加して補うとのことだった。自分が英語の説明を聞き逃しただけだったらしい。
・今日、学校で話をしたのは、タイから来ているリリーという女性だった。2時間ずっと隣に座っていたので、いろいろな話をした。小さな体つきでかわいい顔をしていたので、大学を目指してこちらに滞在している、裕福な家庭の留学生かと思ったらそうではなかった。既に仕事を持っているのだが、自分をもっと高めようと決心して3ヶ月の休職をして、取り敢えず英語を物にしたいとタイからやって来たのだった。
・昼頃、学校を出た時には、今まで大勢いた同じクラスの人達は、街に吸い込まれるように知らない内に皆どこかへいってしまい、自分の近くには誰もいなかった。仕方が無いので、学校のサーヴィス・オフィスで市内バスの路線図を貰って、ハリウッド見物かダウン・タウンに行こうと思った。しかし、長い間、地図で確認したハリウッド行きのバス停でバスを待っていても中々来ない。場所が違うのか系統が違うのか、さっぱり訳が分からない。別に特にハリウッドに行かなければならないこともないと、自分に言い訳をしている内に、次にR720と書かれたダウン・タウン行きのバスが来たので、これに乗ることにした。約40分掛かって、UCLAからダウン・タウンに着いたが、その料金はたったの$1であった。バス料金が安いのは、市の低所得者対策の一つのような気がした。
・ダウン・タウンでは はじめに、中央図書館に行ってみた。しかし、あいにくと前回経験した日曜日だけではなく、月曜日も連続して休館日なのだという。建物の中にあったレストランはやっていたが、トイレを貸すことは出来ないと追い返された。少しムッとなったが、誰かに不平を言おうとしても対処する言葉が出てこない。この場合には、考えて見れば相手の方に部がありそうだし、自分も暑さと疲れで反論する元気が出てこない。よほど疲れた顔をしていたのだろう、どうも上手く自由に対応できない。日本では経験したことのない自閉症患者になったような気がして、急に全てにすっかり自信がなくなってしまった。
・気を取り直して歩いている内、前回、入館できなかった近くのMOCA(カリフォルニア州立現代美術館)に行くことにした。62歳以上はシニア割引で$10だったが、今は使える身分となった学生割引にしても同額だった。館内は冷房が効いてとても涼しかったし、折角、$10払ったので、心と体の休養を取りながらゆっくり見物した。

9月28日(火)紛失したドライバーズ・ライセンスを探して
・今日は学校へ行く途中のバスの中で、偶然にもまたリリーに会った。彼女は自分が滞在している家よりも更にUCLAから離れた所にある、彼女の親戚の家に泊っているという。残念なことに自分の発音が悪いせいか、自分の英語の一部が彼女には理解出来ない様だった。また、自分も彼女の英語の一部がどうしても聞き取れなかった。しかし、互いにアメリカにはあまり慣れていなかったこともあり、私には頼もしい友人であった。
・終点の一つ手前でバスを降りて少し歩いていくと、学校の直ぐ側に大きなスーパー・マーケットがあって、店の前にテーブルと椅子が幾つか並べてあった。授業が始まるまでにまだ時間があったので、そこで自分はクロワッサンとコーヒー、彼女はコーヒーを買い、飲みながら話をした。パンとコーヒーの値段は$2.58だった。
・そして突然、授業が始まる前に大変なことに気が付いてしまった。財布に入れてある筈のドライバーズ・ライセンスが見当たらないのだ。先週、レンタカーを返す直前に、パトカーに捕まった時には持っていたので、どう考えてもその時に慌ててしまい、車の中に落としてしまったに違いない。このライセンスがないと、語学学校が終わった後に、レンタカーでの旅行を続けることが出来ない。滞在型の旅行ならともかく、車がないと全く移動することが難しくなる。授業中に、もしもカードが見つからなかった場合にやるべき事を考えていた。急いで再発行の手続きをするしか無いが、まずは借りたレンタカーの中を自分の目で捜索したいと思った。
・授業が終わった後に、直ぐにレンタカー・オフィスに電話をした。車の中に有る筈だから探してくれとお願いしたのだが、しばらくしてからの答えは、探したが見つからなかったというものであった。そこで、まずは自分で探そうと思い、授業が終わると直ぐに飛び出して、昨日と同じ方法でオフィスのあるダウン・タウンへ行った。レンタカー・オフィスから、駐車場に歩いてそこに辿り着くと、幸運なことに懐かしい車が止まっていた。早速、運転席を調べると、果たして椅子の背もたれの下の所に、カードが何気なく挟まって居るのを見つけた。ヤレヤレ、あるべき所にある場合には、当たり前だが呆気無いほど簡単に解決してしまう。

9月29日(水)語学学校の授業について
・昨日、能力別に分けられたクラスの発表があった。自分は周囲のネイティブ・ライクな連中の中で、万が一にでも上級クラスになってしまったらどうしようかと、のんきに考えていた。しかし、当たり前だが心配することなど無く、チャンと実力が評価された結果は、幸いにも最下の初・中級クラスだった。語学コースではあるが、その中でも種類(コース)は幾つかに分かれている。自分は一応、ビジネス&マーケティング・コースを第一志望にしておいた。
・LAの市内に、恐らく沢山あるだろう一般の語学学校のコースと比べて、UCLAの語学コースの質は、決して高いとは言えないようだ。ここで知り合った何人かの友人に聞いてみると、通常の会話学校では多くても生徒の数は10人以下だったが、UCLAでは20人近くいて、しかも授業料は一番高かった。生徒の人数が多いということは、すなわち教え方はとても丁寧という訳にはいかない。大体、例え先生が一人一人発言を促したとしても、1時間の授業のなかで発言する機会はほんの僅かである。
・従って、ここでの授業方針は、生徒が積極的に友人同士でお話をしましょうというものである。つまり、英語の構文や単語力、そして正しい発生音を繰り返し練習するようなトレーニングのプログラムは殆ど無かった。授業が4W単位で構成されていることもあるが、一冊のきちんとしたテキストを使用するのではなく、先生方が自分で用意してきた教材を中心にすることが多い。先生が説明し質問をして、それに生徒が積極的に参加して発言していくという型式が多かった。その為か、学校側も生徒側も、互いに友人を作ることに熱心であるという印象を受けた。確かに、UCLAの名前で世界中から集まってきた生徒たちは、レベルが高いと思われる人が比較的多いようだった。このやり方では、私のような内向的な日本人には、発言する機会が少なくなってしまう。しかし、私が受けた印象では、多くの参加者は結構、ここが気に入っているようであり、リラックスしてとても楽しそうに自由に振舞っていたし、互いに友人関係もチャンと作っているようであった。
・アメリカで大学への進学を目指す人のための、アカデミック・コースと違い、自分が取ったコースに集まって来る学生は大きく分けると二通りのようだ。一つは自国での大学を一年間休学して、語学研修と遊びを兼ねてやって来た裕福な若者達。当然のことながら、彼らの中には来年度には留学を考えているというもの者も、少なからずいた。もう一つは、仕事を休職して自分の金で3-6ヶ月位、語学だけを学びに来ている社会人である。
・後者の場合は知りあってみると、大学教授がいたり、歯医者さんがいたり、サバイバル休暇を利用してやってきた有名企業の副社長がいたりした。友人としていろいろな話をする機会が得られるという意味では、結構、良い環境と言えるかも知れない。先生は、ネイティブの話す言葉の、50%を理解する事を目標にして下さいと言っていた。私には、皆、既に結構な語学力を持っているように見えた。日本で良く見掛けるような、発言の途中でどう言おうかと考え込んで、黙ってしまう様な人はここには居なかったから。

9月30日(木)クラス・メートについて
・自分が所属していた初級クラスで、今日までに話をしたことのあるクラス・メートをメモしておこうと思う。プライバシーの観点からファースト・ネームをカタカナで書くと、
バキッ(ドバイ)、ナヤン(ドバイ)、モハメッド(ドバイ)、ジェニー(台湾)、スハ(コリア)、ヨンターク(コリア)、キーサンカン(コリア)、ミナ(コリア)、ジェー(コリア)、YUK(日本)、YK(日本)、ジュリー(日本)と、アジア系が多い。この他にアドバンス・クラスの友人で知り合ったのは、YR(日本)、エリカ(イタリア)、キム(コリア)、リリー(タイ)等である。上級クラスにはヨーロッパ系の学生が多く在籍しており、ガヤガヤと喋りまくっていてとても喧しかった。しかし、初・中級クラスは圧倒的にアジア系の学生が多く、上級と比べると随分と静かだった。
・今日の授業では、先生のシンシアが用意してきたテキストを使った。それは、有名なロック・ソングの ”Love Potion Number 9”の歌詞であった。これを元にして、生徒達が二人一組のパートナー同士になって、いろいろな質問を交代で行い、それに答えるという授業である。

10月1日(金)LAのバス事情(1)
・LAの中には多くの市(シティ)がある。そして、それぞれの市が自分の所を中心にして、各方面に繋がるバス路線を持って運営している。更にメトロバスがLAの全域に渡って、網の目のように路線を張り巡らせている。もちろん、需要の高いところには、私営のバスも通っているようである。従ってバス路線図を調べておけば、LA市内の殆どの場所に行くことができる。
・バスの料金は、それぞれの市の路線ごとに共通のようである。メトロバスは全線で$1.5、自分がUCRAに通うために使用していた、カリバーシティ・バスは全線$1であり、兎に角、低料金である。しかも、カリバーシティでは、62歳以上になるとシニア割引があり全線で35C(セント)で利用できる。従って、私はバスの回数券や定期券を購入すること無く、毎回、小銭を使って利用していた。こんな恩恵にドップリと浸かってしまって良いものだろうかと思うこともあったが、買い物等で溜まってしまう小銭を、バス料金で使う事ができて、何かとても嬉しかった。
・同じ市営のバスで路線を乗り換える場合には、バスの運転手に声を掛けるとトランスファー切符を切ってくれる。これは前に乗った時に支払ったバス料金で、次のバスにも乗れるというものであり、うまく利用すると交通費がとても安くなる。
・乗客は圧倒的に黒人系やメキシコ系が多い。UCRA近くでは、いろいろな国からやって来た留学生らしき若者も多い。それからバスの乗客には自転車を利用している人が結構いる。その為に、どのバスでも前部のバンパーの所に、自転車を括りつけるブラケットが3台分位付いている。そこに自転車を載せてから、バスに乗り込んでくるのである。手続きとしては、外から運転手に合図をすればそれで良い。
・全てのバスには車椅子に乗った人が利用出来る様になっている。路上から専用のエレベータでバスに乗り込み、専用の場所に車椅子を固定できるようになっている。その間、随分時間がかかるが、乗客は皆、辛抱強く静かに待っている。しかも、車椅子の利用者は見ていると、料金はフリーのようである。
・バスの運転手は殆どが黒人であり、女性の運転手も結構大勢いる。バス料金が安い理由は、やはり低所得者に対する市の政策であった。LAでは車が発達しており、街や道路の設計が車の利用を前提に作られている。従って、バスを利用しての移動は、いくらバスが頻繁に通っていると言っても相当に不便である。バス路線図を見ると、網の目のように走っているバスも、実は自分の行きたいバスを待っている場合に感じたことは、かなりの時間待たされることである。沢山のバスが走っている路線でも15分以上、少ない所は、1時間待ちは当たり前のようにある。従って、LAでは街を歩いている人やバスを利用している人は、車を所有出来ない人達であると言われている。もちろん、学生街などでは、裕福な留学生も多く利用しているし、ビジネス街ではキチンとした身なりの乗客も多い。

10月2日(土)アメリカの中古車事情
・朝、7時半頃に散歩に出かけた。途中、大きなスーパー・マーケットで小さなパンとデカフェを$2で買う。アメリカの大きなスーパーでは、食料でも何でも大量に、しかも日本と比べるととても安い価格で売っている。例えばミルクなど、日本では1リットルの角型のパック売りで¥200位のものだが、アメリカでは1ガロン(4リットル)のプラスティックボトル入りが普通で価格は$3位である。しかしながら、朝食用に美味しいコダワリのパンを、スーパー・マーケットで買うことは不可能と言って良い。コーヒーは、店の中にスター・バックスとかコーヒー・ビーン等の専門の店が入っている事が多いので、そこで一番安いカップ入りの本日のコーヒーを買う。
・店の外にあるベンチに座ってパンを食べながらコーヒーを飲んでいると、直ぐ側に座っていたオバサンが一人で何かブツブツ言っているが聞こえた。アメリカでは、一人で大きな声でブツブツ言いながら歩いている黒人が沢山いる。これは町で良く見掛ける普通の風景だ。今日、意外だと思ったのは、このオバサンが喋っている言葉が良く聞き取れることだった。何故なら、それは日本語だった。何故かとても複雑な思いがした。
・自分は、はじめ一人でブツブツ言いながら歩いている人を見て、少し頭がオカシイのだろう位にしか感じていなかった。しかし、アメリカに一人で来てみると、その理由が分かるような気がするのである。恐らく金もなく仕事もない状態で、ホームレス暮らしのようなことをしていると、一日中誰とも話すことがないだろうと思う。一日中、自分が声を出さないでいると、精神的に参るのだ。そして、何か喋っている人物が年老いた日系人である場合には、それが自分のことのように感じられてしまうのだ。
・このWilley Portの街にも、路上で夜を明かす人達が少なからずいるようだった。黒人やメキシコ系が多いように思う。ショッピング・カートにビニール袋を一杯ぶら下げて歩いている女性もいる。その姿は日本で見るのと大きな違いはなかった。しかも、強烈なニオイを発散している所も同じである。正直、一度、ニオイが体に付いてしまうと、普通の生活に戻ることは易しくないだろう。アメリカでも抱えている課題は日本とさして変わらない気がする。
・昼前になって、KazとMeiと私の3人で、Meiが購入を検討しているという中古車を見に行った。Kazのアコードで中古車ディーラーを何軒か廻った。Meiが予めインターネットで品定めをしていた車の良し悪しが分からないので、それを判断するために私達にその車を見て欲しいということだった。中古車を含めて、車のディーラーはロスアンジェルスにはあちこちにあるようだったが、サンタ・モニカ通りにも何軒もの店が集まっている所があった。国産車だけではなく、日本車やドイツ車だけを扱う専門店も幾つかあった。彼女は銀色のVWのビートルが、すっかりとお気に入りのようだった。
・トヨタ・ヴィッツ 2007年製でみたところ殆んど新車に近いものが12000ドル、もう少し古い年式で6000ドル位からあり、日本と比べると30%位は安いようだ。 VWビートルの方は、もう少し高くて2007年製だと17000ドル位、少し年式が落ちると12000ドル位からある。ビートルのエンジンは2.5リッターで作りはがっしりしているが、燃費は悪そうである。ディーラーの話では、トヨタやホンダの人気は高く、他の日本車はもう少し安いらしい。そう言えば、自分の語学クラスの先生の一人が、アルバイトで車のセールスもやっていて、良い車を探してやるよと授業の時に言っていたことがあった。彼が言うには、中古車を買うなら絶対にアメリカ車を避けること。日本車かドイツ車を選択しろと、皆にアドバイスしていた。
・昼食はこの3人の他に、Kaorと高さんの二人の日本人が加わり、久しぶりに日本料理店に行った。Meiは日本語ができるので、皆、殆んど日本語で話しをする。気が楽といえば楽だが、英語の練習時間は確実に減ってしまう。自分は天ぷらとご飯のセットを頼む。$10+Tipだった。ご飯も天ぷらも冷めていたが、ロスアンジェルスということで、味はまあまあだろうと思った。日本料理店以外で出てくるこちらのご飯は、パサパサ・ポロポロでとても美味いというものではない。それらは、お世辞にもまあまあと言うことさえもできないから。
・夜、George Winston のPiano solo CDをKAZに借りて、部屋でその音楽を聞きながら、ウイスキーを飲み、取り留めもない話をする。すっかり日本語に馴染んでしまった。

10月3日(日)雰囲気の良いパネラ・カフェ
・朝、8時頃起きだしていつものように散歩に出かけた。実はスーパー・マーケットの近くに、パネラ・カフェというアメリカでは結構大きなカフェ・チェーンがあるのだ。ここでは、とても美味しい色々な種類のパンが買えるのと、買った物を店で食べることが出来る。値段はチョット高いが、他にスープやサラダなど色々な種類のものを売っている。しかも、電源があって、PCを使って長時間のインターネットができるので、文章を書いたりするために、最近、ここに良く行くようになった。自分は店の外のテーブル席がお気に入りだった。日本と違って、ロスでは日向は暑いが日陰でありさえすれば、とても爽やかな風が気持ちよかった。
・自分はパネラでは何時も一番安いベーグルとジャムとコーヒーを注文する。カリッと焼いてもらったベーグルが、比較的美味しいということもあるが、実は毎週、日曜日に自分がパネラに通うのには、理由が二つあった。一つは店の店員と仲が良くなったことで、彼が自分に気を使っていろいろと話しかけてくれることだった。もう一つは、毎週、日曜日の朝になると、ここに現れる日本人の留学生の女性だった。アメリカに来て既に7年目で、ここは高いので週に一度しか来ることができないと言っていたが、彼女は車に乗って優雅にいつも一人でやってくる。30歳代の後半だと言っていたが、一度、社会人として働いた後、考える処があってこちらに留学しているという。中々、個性的な人で話が面白いこともあって、一緒に話をすることが密かな楽しみの一つだった。
・最近の若者は海外に出たがらないと言われているが、積極的な人はやはり沢山いるようだ。しかし、先月、たった一ヶ月間であるが、自分はカリフォルニア州のあちこちを車で旅行した。その時の印象では、学校の周辺地域は別にして、他の何処に行っても日本人にはほとんど会わないことが気になっていた。日系の現地人も少ないし、旅行者も少ない。ビジネスマンも少ない。日本料理屋はクローズしたところが幾つかあった。日本人の留学生には何人かに会ったが、その多くは女性であるのが気になる処である。
・私の住んでいる街には大きなスーパー・マーケットやファーマシー等が集まっているショッピング街があちこちにあるが、それらの大型スーパー・マーケットの近くには、他にもカフェや書店やその他いろいろな店が集まっている。ここで殆んど全ての物が買えるので、便利でありしかも安いのだが、問題は他のショッピング街に行っても、殆んど同じものや規格品しか売っていない事である。あれこれ探す楽しみは少ない。
・思い出したが今日は日曜日だった。ロスアンジェルが特殊なのかどうかは分からないが、この街には小さなカフェがとても沢山ある。ご多分にもれず、カフェで扱っている料理はどこも同じようなものだったが、客の多くは料理の内容を期待してやってくるというより、ただ話をするために頻繁にやって来る。特に日曜日の朝は、家族の皆でカフェに集まって食事をすることが、習慣と言うよりも楽しみの様であった。
・何処のカフェにも沢山の人が溢れている。私のように一人で、新聞を読みながらコーヒーを飲んでいる老人もいるが、多くはカップルか子供連れのファミリーで、皆、同じような朝食を食べている。見ていると卵料理+ソーセージにふかふかのホットケーキのようなものを食っている。昼食はともかく日曜日の朝食を、ファミリーがカフェで食べるという習慣は日本では一般的ではないが、こちらでは良く見掛ける風景である。しかも近くに住んでいるに違いないが、キチンとした服装をしている人が多い。予想ではあるが、この後でキット教会にでも行くのだろうと思う。

2011年7月7日木曜日

9月26日(日):旅の終わりとホーム・ステイ先のホスト・ファミリーの家に行く

・ホーム・ステイ先に戻ったのは、既に夕方であった。ホスト・ファミリーは70歳位の元気な黒人の夫婦だった。イメージとしては、ビジネスでやっている様だった。XXXという国から、若い時に移民で来たという。ここは、アメリカでも中流の下という感じで、どの家も200坪位の芝生の庭がある住宅地なので、キット成功した人なんだろうと思う。ホーム・ステイは奥さんが切り盛りしており、彼氏は家具などを製作する木工工場を経営しているという。後で案内すると言っていた。4週間で、部屋代が$600、食事代が$200、インターネット代が$15で、最初に支払うブロバイダーへのサービス料が$200だった。その前に事前に登録料として$200が必要だった。彼氏が、今度来るときは直接電話をくれれば、一日当たり$21で泊めてやると言っていた。



・既に二人の学生が泊まっていた。一人は25歳の中国人の女性で、身長が170cm位でとてもスタイルの良いオシャレな美人であった。名前はM.Lと言い、中国で短大を卒業した後に、ベイジンの日本企業で働いていたという。自分でマンションに投資して儲けた金で、アメリカ留学を自費で賄っているというしっかりものだった。一ヶ月前にアメリカに来たばかりと言っていたが、残念なことに彼女は英語だけではなく日本語も上手だった。もう一人は男性で日本人だった。東北大学を卒業後に、企業に勤めること無くそのままアメリカに来て、既に二つの大学で8年も勉強しているという。名前はK.Tと言った。どちらも少し喋っただけだが、とても頭の良い人達であるということがすぐに分かった。それだけではなく、とても人生に対して真摯で前向きな気持ちを持っている気音が伝わってくる。特に彼女の方が、自分の親は最高ですと話すのを聞いた時にはなぜか泣けてしまった。聞くとその親の方が自分よりもずっと若い。日本では、例えば自分の娘がこんなことを話すだろうか?



・夜7時頃に、三人で顔を合わせた後で、ホーム・ステイ先で一緒にホスト・マザーの作ってくれた夕食を食べた。食事は、ホスト・ファミリーと我々は別々に食べる様になっていた。我々が食べ終わった後で、同じキッチンで彼らが食事をするようにしているらしかった。恐らく、彼らはイスラム教徒なので、食事は手で食べるということで、以前ここに泊まったイギリス人と生活習慣の違いからトラブルを起こした為だという。



・学生なんだし、もしも酒を飲むならば部屋ではなくて、キッチンで飲んでくれと言われていたが、夜、部屋で酒を飲むのは自分の絶対の条件であるとして認めて貰った。兎に角、奥さんは気の強い人だった。我々は夕食を食べた後に、酒を飲みながら12時過ぎまで、いろいろと話しをした。半分は英語で、半分は日本語だった。



・彼らは、今度、この家に60歳過ぎの爺さんがやって来ると聞いて、とても嫌だったという。それはそうだろう、若い留学生なら誰だって60歳を超えた人とはあまり友達にはなりたくないと思うだろう。しかし、結果として認めてもらったのかどうか分からないが、明日の日曜日には、同じロスアンジェルスに住んでいる別の中国人の女学生のアパートでやるパーティに、一緒に参加することを勧められた。ホーム・ステイ関係のルーム・メイトや彼らの大学の友人達が何人か集まって来るらしい。彼らにとっては、年齢の離れた自分は、多分、異色の存在と思うが、自分も行ってみることにした。





・明日から学校の予定なので、今まで借りていたレンタカーを、今日は帰しに行かなければならない。それにしても今日はとてもビックリしてしまった。初めての経験をした。そしてどっと疲れてしまった。午前中、快調にサポールブダ通りを通って、ダウンタウンにあるユニオン駅まで行った。レンタカー・オフィスが駅の構内にあるからである。しかし、オフィスが契約しているカー・プールへの入り口が見つからないので、電話でもしようとしてどこか道の脇に車を止めようとした。しかし、どこも駐停車禁止のペンキが塗ってあった。少し位は大丈夫に違いないと思って、曲がり角の近くの安全な場所に車を止めて、携帯を取り出していたら、窓を叩く人がいた。何だろうと思って窓を開けると、バス代がないから$1くれという。忙しいのでポケットから$1札を出していたら、向こうからパトカーがやってくるのが見えた。そして、いきなり、ドでかい音でサイレンを鳴らされてしまった。自分かなと思っていたら、直ぐにUターンをして戻ってきて、自分の車の前で止まったのである。捕まったのは自分だった。





・拳銃を取り出すような動作をすると撃たれてしまうことがあると聞いていたので、両手を上げたら、いきなり大きな声で両手と顔をステアリングにつけろと言われた。警官は二人いたが、二人とも本気で身構えている。そして免許証を見せろという。補助席に置いていたザックから出そうとしたら、両手はステアリングに載せろという。思わず、「そんなことは出来るわけがないだろう」と日本語で叫んでしまった。違反切符を切ろうとするので、自分は旅行者で今からレンタカーを返しに行くところだが、道が分からないから調べようとして止まっただけだと説明した。なんのかんのと説明していたら、何と「Can you speak English?」と聞いてきた?? 仕方がないから、「Only a little.」と答えたが。



・結局、「Be careful!」と言いながら許してくれた。それだけではなく、「自分は道が分からないのだから教えてくれと。」と言うと、「Follow me.」と言ってパトカーで先導してくれた。実はとても優しいお巡りさんだった。





・今日、レンタカーを返してからバス乗り場まで歩いてみて分かったこと。それはロスアンジェルスの9月は、とてつもなく暑いということだった。日差しの強さが半端ではない。本当にここは、かって砂漠だったということが実感できる。見たところでは、現地人は比較的平気な顔をしているので余計驚いてしまう。自分は頭に日が当たらないようにして、雑誌で覆いながら歩いているのだが、そんなことをしている人はどこにもいない。



・はじめて此処に来たときには、太っている人が大勢いるのでビックリしたのだが、理由が分かるような気がする。要するに全く歩かないのだ。ロスアンジェルスという街は、車で移動することを前提にして設計されていると言って良い。というより有り余るスペースの余裕に任せて、ドンドン横に街を拡げていった結果こうなったのだろう。道路も巾が広いので、1ブロック先に移動するだけでも大変だ。歩いている人は、貧乏人だけだと言われているらしい。



・40分も待ち続けてやっとバスに乗った。しかも、自分は一つのバス路線だけで家に帰れるが、乗り換えるとなると何分待つことになるのかも分からない。しかし、このバスは全線乗っても$1なのである。しかも、優遇パスが沢山発行されていて多くの人達が無料で利用出来るようになっている。車のない人達のための、社会福祉事業のような位置づけだと思った。



・バスに乗り込んでくる乗客は、殆どが黒人である。たまに白人のホームレスのような荷物を抱えた人が乗ってくることもあるが、そんな時は特有の匂いが何とも強烈にする。降りるべき場所を見失わないように、バスの通る道をよく観察しようとしたが、何回も角を曲がるうちにすっかり分からなくなってしまった。乗り込んでから40分位して、やっと行き先表示が出てきたのとアナウンスがあった。





・夕方、家に帰ると、学生達が既に皆が家の前で待っていた。というより家の前で立ち話をしていた。何人か初めての顔が見える。全員が日本人のような顔をしていたが、一応、英語で挨拶をする。やはり日本人だった。これが話しに聞く留学先の日本人コミュニティのようなものかと思った。



・一人はTさんで20代の前半、もう一人はKさんで20歳、どちらも前途有望な若者だった。しばらく話をしていると、M.Lが玄関から出てきたので、そのままK.T氏とTさんの車に乗って出発した。メンバーはもう一人のM.Lを入れて5名だった。





・日頃、全く日本語を話す機会がないという生活を送っていると、時にとても寂しくなったり、落ち込んでしまう事がある。たまに日本語を話すと、実に心が落ち着く感じがする。昨日がそうだった。こちらに来てから、はじめて日本語で話しをしたのだった。しかし、留学生がこれにハマってしまうと、何年滞在していても英語があまり上達しないとも聞いていた。しかし、無理をして日本人を遠ざけるのもどうかと思う。要はできるだけ英語を話す機会を持ち、外国の友人を沢山つくると同時に、日本人の友人も沢山得るということが正解だろうと思う。





・目指す中国人女性の家は、XXX通りから1ブロックあまり奥に入ったところにあった。彼女はXXといい、まだ18歳の若さであるがサンタ・モニカ大学に通っているという。きっと親が金持ちで中国ではとっても裕福な暮らしをしているのではないかと思う。部屋は8畳位のスペースで、その他にキッチン・バス・トイレがあって、もう一つある部屋の住人とシェアしているという。



XXXが一生懸命に作ってくれた、マーボ豆腐や鶏肉の炒め煮、それと美味しいご飯とジュースで乾杯した。差し障りの無い話から、情報交換、それから若者特有の話題、学校のこと等、いろいろな話が弾んだ。自分は言いたいことを、英語でうまく表現できないもどかしさを経験した。そんな時に、直ぐに日本語が通じてしまう気楽さがきっと上達の妨げになるのだろうと思う。





・ここに来て自分は、アメリカに学びに来ている若者達が、実は学校やその後の仕事を含めて、言葉の問題だけではなく色々な障害にぶつかり、悩みながら生活を送っているという当たり前のことが分かった。その用な話に加わって、彼らから見れば少しは多い自分の経験を活かしながら、彼らをできるだけ励ましてやることができそうだと思った。何しろ今や明日からは、自分も上から目線ではなく彼らと同じ立場の学生なのだ。少なくとも、ここでは英語に関しては彼らの方が数段上だし、向上意欲も体力も自分より上だし、実績以外に彼らに誇れる物がないのだから。ただし、コメントを付けたり、アドバイスをしたりして、説教調になることだけは絶対に避けようと思った。





9月25日(土):ゲッティ・センター

・ロスアンジェルスの西北の郊外、UCLAの近くにあるゲッティ・センターに行った。この辺りから、周囲は山というか丘になっていて、道が登ったり下ったり、しかも真っ直ぐな道が殆ど無く、カーブが多く見通しも効かない。すぐ近くまで来ており、しかも山の上の方にモダンな建築が見えているのに、入り口が見つからず周囲をぐるぐると回ってしまった。

・この辺りは、ロスアンジェルスでも高級な部類の住宅地だった。一軒辺りの敷地が大きくて、しかも山の起伏を利用して広い庭のある家が続いている。ガレージにはポルシェやBMWTOYOTAL)等が並んでいる。歩いている人など全く見かけることが無いので道を聞くことも出来ない。あちこちの家で、それぞれ数人の黒人の庭師が働いているのを見掛ける。ある家から中年の女性が出てきたので道を尋ねると、綺麗な英語で本当に丁寧に教えてくれた。


・ゲッティ・センターは本当に凄い所だと思った。建築物や庭に贅沢にカネがかかっているのが分かる。アメリカで個人の金持ちが、金をふんだんに使って何か後世に残そうとするとこんな感じになるのだろう。建家はとてもモダンである。入場料は無料だった。ただし、駐車料金を$15払うので、一家で一台の車で来ると割安である。通常は二人連れなので一人$7.5である。駐車場からは、専用のモノ・レールで山の上に登っていく。途中、眼下に見えるUCRAや高速道路、ロスアンジェルスのダウンタウンの眺めが素晴らしい。


・この美術館は、個人が集めた美術品を陳列するために作られたものである。大きな建物が4つに分かれていて、それぞれのテーマ毎に絵や集められた品が置いてある。はじめに入った所は、キリスト教にまつわる書や絵のコレクションで、それぞれが大事そうにしかも膨大な量が綺麗に並べてある。そして、それらの一つ一つに説明書きが添えてある。幾つかの有料のツアー・コースがあるようだった。


・実はキリスト教的な関係の作品は、地味だし宗教的な価値はともかく美術的な感動はあまり感じられなかった。ただ、スケールの大きさに圧倒される。ひと通り急ぎ足で見て歩いただけで疲れてしまった。早速、カフェでツナ・サンドとジュースを買ってひと休みする。


・外は日差しが強くしかも暑いが、建物の中は冷房が効きすぎて寒い。しかしその分、カフェの戸外の日陰のテーブルは、自然な風がとても涼しく爽やかで心地良かった。隣のテーブルに陣取った中国人の女性が、大声で喋る中国語がいやに耳障りで煩かったが。大体、彼ら中国人や、何処でも見掛ける韓国人はグループで来ていることが多く、声がやたらに大きくて しかもお喋りである。エネルギーの量には感心してしまう。そして、ここでも日本人を全く見掛けることがなかった。


・広い庭をカップルやファミリーが歩いているが、皆、お喋りに夢中で楽しそうだ。良く話すことがあると思ってしまう。東洋系の若い男に白人の若い女。黒人の女と白人の男の家族。ここには色々な国籍や人種を見ることが出来る。ただし、やっぱり殆どは同じ民族の組み合わせが多い。そして相対的に、ここでは黒人はあまり見かけない。年寄りの二組のカップルで来ている人が多い。しかも、前を歩く二人連れは女でお喋りに夢中で、その後ろを男達が大抵は黙ってついて歩いている。どう見ても男は単なる添え物なので、女同士で来た方が楽しいのではないかと思ってしまう。しかし、女同士というカップルは全くと言って良いほど見ることが出来ない。


・大きな白黒の写真で面白いのを見つけた。止まった電車から大勢の人がホーム降りてきた所を撮った写真である。ホームは人で溢れている。近くにいる人達は、動いているのでピントがボケテいる。近くにたった一人ピントの合っている人が立っている。遠くの人並みは、ピントのズレが小さく映っている。もちろん、列車や建物はクッキリと写っている。動と静の組み合わせが、妙に不思議な感情を呼び起こす。

9月24日(金):Near LA

・マリブに差し掛かったので、このままR1を降りて更に海に近い方に行ってみる。この辺りの家々は、先程の山の上の家よりはずっとこぢんまりとしているが、海の側なのに十分な広さの庭と小奇麗な家が並んでいる。日本で言えば湘南海岸というトコロか。大小のモーター・ボートが家の横に並んでいる家も多い。ここら辺のビーチは、全てプライベート・ビーチになっている様だった。ビーチは見えるのに、ビーチに出る道が見つからなかった。家からまるで車にでも乗るような感じで、船に乗って海に出ることができる。家の外のビーチで海水浴もできるのである。



・しばらくすると、ステート・ビーチ入り口という看板があった。気が付いてみると、このような看板は、他にも幾つか見つかった。


・それにしても、アメリカという国は、金持ちの多いところだと思う。家も庭も綺麗に手入れがされているし、手入れをしているのは住人ではなく使用人だし。日本も収入で比較すると随分豊かになったが、ベースが圧倒的に違う感じがする。


・当然のことながら、ロスアンジェルスの町で見かけたように、一方では多くの貧しい人達がいる。その収入の差が何としても縮められないで、格差がとても大きいことが実感で分かる。それにしても、圧倒的な富の大きさが分かる。一体、日本と比較した場合の、この経済力のベースの違いは何処から来るのだろうか。

・再びR1に戻って更に南下する。全く久しぶりに、ハイウェイが渋滞で、車が止まってしまった。信号はないがマリブの中心地の近くらしかった。この辺りは、やはり海を感じさせる所だと思ったのは、道の両側を歩いている人が急に増えたことと、彼らの中に水着姿が何人もいることだ。

・しばらくR1を走っていると再び大きなビーチが見えてきた。サンタモニカ・ベイ・ビーチだった。駐車場に車を停める。広い砂浜、心地良い風、ここでは年寄りも若者も、違いが分からない。散歩している者、ローラー・スケート、サイクリング、卓球台まである。平日の午後だというのに、なにかやりながら楽しんでいる。たった一人だったが、近くになにもしないでただ座ったままの黒人がいた。多分、一日中ここに座っているのだろう、日焼けして真っ黒だった。

・今日は何処に宿泊しようか迷った結果、R1を海沿いに更に南下してLAとサンチャゴの中間辺りまで来てしまった。R1の両側に安いだけが売りのモーテルがたくさん並んでいた所に出たので、数軒をチェックして中の一つに決めた。このモーテルでは、クレジットカードを受け付けてくれなかった。現金で払って欲しいということだったので、直ぐ側にあったコンビニで金を下ろして、チェック・インした。時間が少し早い時間だったので、久しぶりにモーテルのコイン・ランドリーを利用した。


・この街で夕方散歩をした。見掛ける人の多くは、背の低髪の黒い、しかも太ったスペイン語を話す人々である。サンフランシスコの下町で見掛ける、インド系や黒人系より親しみが感じられる。一歩、R1から奥に入ると彼らの住む住宅地が広がっている。平屋建てが多いが、庭も結構広くてきれいな感じである。道路脇に停まっている車を見ても、比較的綺麗で新しい車が多い。




・モーテルは、場所によって内容と価格が大きく違う。もちろん、大都市では狭くて汚くても高く、田舎では安くて広くて綺麗である。地方都市では大都市の1/2位の価格になる。また、週末はどこでも20%位価格が上がる。田舎で$100出すと、キッチンやリビングがついた広い部屋が選択できるが、大都市では$100では暗く汚い所が多い。また、大都会でも、中心地から離れたところでは、30%位安くて、かつ綺麗な所が選択できる。


・しかし、モーテルの探し方にはすっかり慣れてしまった。直接的に最も役に立ったのは、あちこちのサービス・エリア等に置いてある、無料のモーテル・ガイド・ブック(冊子)である。A5サイズの大きさで50ページ位のものであるが、その場所が所属する州での1000件以上のモーテルが紹介されている。住所や価格、連絡先はもちろんだが、地域ごとに分けて詳しい地図まで載っている。更に割引のクーポン券まで付いている。この情報から大体の相場が分かるので、これらの中から数件を絞り込んで、一つ一つ電話をして価格と空き情報を確認しておく。そして、何件かを実際に自分の目で見てから交渉するのが良いようだった。例えばシニア割引というのもある。


・自分は旅行者と言っても一人で移動しているので、安いことは大きな条件であるが、綺麗ではない所は敬遠したい。価格的には、一泊 $45-$70 位の所で予算を立てていた。絶対の条件はこの他に、無料のインターネットができることと、テーブルか机があること。冷蔵庫があること等であった。できれば書きものやPCで使うために、テーブル専用の電気スタンドも欲しかった。アメリカのインテリアは、間接照明が多く手元が暗いからである。


・交渉では別に躊躇することなく、ここのモーテルは気に入ったし価格もリーズナブルだが、念のため別の所も見たいと言えば、相手も嫌だと言わない。そして、やはり前の方が良いと思ったら、車を戻せばフロントの係の顔に笑顔が浮かぶのである。この笑顔が重要である。多くの安いモーテルでは、インド系やメキシコ系の人が、一人でフロントの番をしている。そして、彼らは絶対に笑顔を見せないのが普通であるからである。


・どんなに簡単なことでも、経験してみないとはじめは上手くいかないで戸惑うことがある。それが出来るようになったからと言って、別にスキルが上がる訳でもないが、一応、何でも出来た方が生活は便利になる。これは旅行者にとっては、良いことに違いない。


・朝飯はR1沿いにあるドーナッツ屋で、ベーグルwithハム&玉子にコーヒーにしたが、$4で結構美味かった。この後で、歩きながら持参したリンゴをかじる。それにしてもR1は車の通りが多い所だ。夜通し、ひっきりなしに車が通る。それも殆どがひとり乗りの乗用車である。皆、何処から来て何処へ行くのだろう。


・実は、アメリカに来て初めて洗車をした。それもコイン洗車場で。車を乗り入れても、機械が何時まで経っても作動せず、後ろに並んだ車にいろいろ教えて貰って、やっとやり方が分かったというものである。自分の車を止めた位置が、少しセンターからズレテいただけであった。当たり前だが、位置を修正したらチャント作動した。


・アメリカでは、日本のようにガソリン・スタンドに洗車場がある所は少ない。$3位のコインを入れて自分でやるところと、$7位の料金で、手洗いでやってもらう所があるが、一般的には後者の方が多い。それもワックス入りを選択するなどグレードを上げていくと$20位にUPするのが普通である。アメリカは完全なクラス社会なので、自分でやってしまったりして、黒人系やメキシコ系の仕事を奪ってしまうのは良くないというイメージであ



る。従って、日曜日の昼下がりに日本の住宅地で良く見掛けるような、自分で車を洗っている人には ついに一度もお目に掛かることが出来なかった。


・今日の計画は、来週から厄介になるホーム・ステイ先の確認、同様にUCLAのキャンパスの見学、有名な美術館であるゲッティ・センターの見学等である。


・昼飯をバーガー・キングで食う。トイレがいつ言ってもFULLになっているので、聞いたらキーを開けるための専用のコインをくれた。


・ロスアンジェルス市内の一般道路の走り方:運転そのものは、東京やその周辺の街を走っている人であれば、全く問題はない。多分、イタリアを除く世界中のどの都市であっても通用する筈である。(イタリアはどこも道が狭く、しかも全てのドライバーが高速で走りたがる。普通に走っていると、狭い道で必ず追い抜かれる。しかも若い女性である。)


・アメリカの道路と日本それとの最大の違いは道路標識にある。道路自体は、東西・南北に所謂、碁盤の目のようになっている。メイン道路は広くて何車線もあるが、一本裏通りに入ると、そこは多くが一方通行になっている。そして必ず、どんな小さな道路にも、全ての道路には名前が付いていて、交差点の所にその名前を書いた看板がつけてある。これによって、自分が今、何処にいるかは正確にわかるようになっている。しかし、行き先標示がないので、知らない道では、どの方向に行ったら良いかが、全く検討もつけられないのである。事前に地図を良く見たつもりでも、必ずどこかで道に迷ってしまうことになる。そして、車を道の脇にとめて、地図を見ながら走ることになる。ただし、道路の殆んど全ての場所が、停車・駐車禁止になっているので、車を停車させる場合には絶対にルールを守る必要がある。日本の数倍のパトロール・カーが走りまわっており、一瞬でも見つかったら$50-$70位の罰金を払うことになるらしい。しかし、レストランやストアには必ず大きめの無料駐車スペースがあるので、車を停める場合はそこに入れる。実際に、多くの車が街中を高速で走っているので、駐車禁止区域に車を停めることは危険である。


・従って、初めてアメリカの都市を走りまわるには、カーナビ(アメリカではGPSと言う。)があると便利であると思う。


・結局、UCLAに行くのに何回も道に迷ってしまい、午後になってしまったので、ゲッティ・センターは明日行くことした。そのままホーム・ステイ先の家に行って、今日からそこに泊まることにした。取りあえず電話をしてその旨を伝える。

9月23日(木)美しいオーハイと云う街(日本の旧軽井沢)



・昨日、泊まったオーハイという街は素晴らしい所である。ガイド・ブックを見ると、避暑地として、ロスアンジェルスからも多くの人が訪れるらしい。日本で言うと、軽井沢か那須高原の別荘地のような雰囲気である。街並みや家並みがとっても綺麗である。今はまだ9月だが、周りの山は既に紅葉が始まっていて素晴らしい眺めである。ただし、街の中はメイン・ストリートでも人の数は少なく、家々の数もそれ程多くはない。しかし、大きなスーパー・マーケットから郵便局まで、大抵の物が揃っている。もちろん洒落たカフェやレストラン、ブティック等の高級店が散見される。


・オーハイで自分が泊まったモーテルは素晴らしい所だった。料金は少し高めだったが、中にはいってみるとキッチンがついた、大きな部屋で一泊しか泊まらない客には少々勿体無いが、二人で一週間位過ごすには十分な広さである。




・来週からは語学学校が始まるので、その前に予定していたホーム・ステイ先を、早めに確認したかった。今日になってメールが入って来てその詳細が分かった。場所はLAX(ロスアンジェルス飛行場)の近くであった。この家には、既に30代の日本人男性と20代の中国人に女性が居るらしい。UCLAまではバス一本で乗り換えなしに行けるとのことだったが、学校までの距離は20km位有りそうだった。でも、たった一人のドライブ旅行と違って、若い美人の話し相手が居るということは、何となく嬉しい感じだった。予定を早めて、早くロスアンジェルスに行きたい気がしてきた。


・朝の散歩をしてキッチンで朝食をとった後、早めに9時に出発する。まず向かった行き先は郵便局で、ここで切手を購入($8.2@20枚)、この切手を3枚貼りつけて日本にハガキを出した。


・そして、この3週間の旅行では最後の温泉地探訪である、W.Hot.Springsに期待を掛けて行ってみることにした。そして、大いに期待したのだったが、行ってみると何故かCLOSEの札が掛かっていた。



・仕方が無いので、このまま車で山道を登って行き紅葉見物をすることにした。何時までも綺麗に舗装された道を走り続けていてもしようがないと思っていたら、峠に差し掛かる手前に林道があったのでそちらの方に入っていく。林道と言っても、ここまで上がってくると、この辺りは草原が多く高い木は少ない。しかし、斜面は既に紅葉が始まっている。草は枯れているが、なかなかそのコントラストが綺麗だと思った。近くにはキャンプ場が有ったり、こんな所なのに牧場があったりする。


・全く車が通らないし人の気配もしない。日向は日光が暑いので、日陰に車を止めて少し小高い所まで歩いて登ってみた。誰もいないので、一度腹の底から声を出してみようと思って、思い切り叫んでみた。何も返って来なかった。




・山道を黙々と一人でリアカーを引いて歩いている人を見かけた。アメリカに来て、この様な人を今までに何人も見た。



・ベンチュラからR101に入りロスアンジェルスに向かうことにした。相変わらず、6車線位の広いハイウェイを走るが、段々とその単調さに旅行気分が薄れて来る感じだった。まだ、3週間は経っていなかったが、走行距離だけは3,500km近く行っているはずだった。少なくともハイウェイはやめて、できるだけ海の近くの普通の道路を走ろうと思い、T.OakからR23に出て海を目指した。



・この辺りはLAの近くであるにも関わらず、本当に山というか広大な丘がずっと続いている。上り下りの激しい山道である。ただし、今までとは大きく違っていることは、道の両側に多くに結構な数の家が建って、しかもそれが何時までも続いていることである。もちろん、家が密集している訳ではなく、一軒一軒が広大な庭を持った大邸宅が並んでいるのである。金持ちの別荘なのか本宅なのか分からないが、とても綺麗に手入れされた庭が続く。それも芝生に囲まれた庭ではなく、あくまでも自然を活かした趣が感じられる。


・何回か庭の手入れをしている所を見かけた。もちろん、家の住人などではなくて、一目見てそれと分かる職人風の格好をした、メキシコ人か黒人が多かった。他の家では、職人は見えなくても、彼らが乗ってきたと思われるピック・アップ・トラックが、家の横の道路にぴったりと並んで止められているので、何人の人が働いているかが分かる。周りの風景のイメージを、日本の風景で例えると湯河原のような感じがする。


・直ぐに太平洋岸に沿って走っているR1に出た。全く珍しくサンタ・モニカ方面という標識が見えたので、ここを左折してロスアンジェルスを目指す。右側がもちろんパシフィック・オーシャンである。

9月22日(水)海あり山あり畑ありの田舎を行く

・朝、7時頃に起きだして近くを散歩した。この辺りは綺麗な住宅地が続いていて、家の前は芝生や生垣が続いている。どこの家でもスプリンクラーが設置してあって、歩いているといきなり水が出てくることがある。大体、周囲が濡れているところは要注意である。道端の開いているスペースに植えられた草や花にまで、自動的に水が掛けられるパイプが付いていた。周囲を見回すと、同じような光景がずっと続いている。


・しばらく行くと、普通の民家のような家を建築中である空き地があった。アメリカの中流の家は、どんな感じで家を建てるのかが気になったので、しばらく立ち止まって工事現場を見ていた。朝の8時チョット前だというのに、既に数人の労働者が全開で働いていた。工事はまだベタ基礎の段階であったが、日本のツーバイ・フォーの場合と大差ないように見えた。


・近くにいたオバサンが話しかけてきた。例によって、一般的な話をした後で、オバサンの話が止まらなくなってしまった。いろいろと話題を見つけてくれて、面白い話をしてくれた。


・この家を立てているのは、新婚さんらしい。家を建てているのは買う予定のある客で、工事を自分でも手伝うと費用が安くなるシステムがあるらしい。土地が100坪位で家は40坪位の二階建て。価格は土地と家で2000万円位だという。周りを見ると、二階建てはむしろ珍しく、平屋の家が多かった。分かれる時に、「地球は狭いからキットまたどこかでお会いしましょう」と言う決まり文句が出て握手を求めてきた。何となく嬉しい気分だった。




・朝、9時半に出発、高速道路のR101には乗らないで、A.Grandeまでは田舎道であるR227を行く。町を抜けるとそこは再び、相変わらずのカントリー・ロードが続いている。しばらく走ると本当に小さな田舎の村に出た。メイン・ストリートの両側に店やらガソリン・スタンドやら民家が並ぶ。多くは平屋であるが、イメージが統一されていてとても綺麗家並みである。日本のように電信柱があったり、鉄くずが積みあげてあったりする雑然さが少ないので奇妙な安心感がある。

・一度、間違ってR101に乗ってしまったが、サンタ・マリアで降りて今度はR135に入る。殆んど車の通らない道なのに、片側2車線もある広い道路である。速度は120km/h出ているのにまるで停まっているような気がする。日差しが暑いのだが、とても冷たい風が入って来て、気分が最高のドライブだった。CDから流れるキース・ジャレットのピアノ曲が心地良い。走っている車は少ないのに、車より数段数が多い自転車族を時折、そして何人も追い抜く。彼らは何時も単独で走っている。凄い体力だと思う。大きな荷物を両側につけて、かなりのスピードで走っているようだ。追い抜いてしばらくしてから、途中の原野で車を止めて用を足していたら、ぐんぐん近づいて来た。


・道の両側にぶどう畑が続く所に出た。何と数十メートル置きに、綺麗に咲いているバラが植えてある。いつかテレビでこんな風景を見たことがあった。その時は確か、虫除けか交配のどちらかが目的であった気がする。誰も観る人がいないと思うが、手入れが良く行き届いている。しかし、働いている人を全く見かけないのだ。


・大量の水がスプリンクラーで撒かれて霧の様に見える。世界で何が起きたって、ここでは関係の無い、のどかな風景である。この一本道を行く車は、皆100km/h以上で飛ばしているのでよそ見はできないが。120km/hの速度がとてものんびりと感じられる。地図に印をつけてみたが、さっきからほんの数センチしか移動していないのだ。地図の縮尺と実際の広さがいまだに一致しない。地図を見て移動計画を立てると、特に田舎道では感覚がずれてしまい、ガソリン・メーターと時間ばかりがドンドンはかどっていく。風景もあまり変化しないのだ。


・走っていたら道路標識が急に35マイル/時と出てきて、あっという間にきついカーブに突入してしまった。この車では今まで掛けたことのない急ブレーキを踏むと、タイヤの鳴く音がするとともに車体がフニャとしてヨロメイテしまった。危うくオーバー・ランする所だった。この車は韓国製であるが、エンジンは実に良く回る。加速感も悪くないし、故障の不安感もない。ただし、ステアリングが軽すぎて、ロスアンジェルスの街中をキビキビ走るのには向いているが、高速道路を走り続けるには適さないようだ。そして何よりサスペンションがしっかりしていない事が分かってしまった。細かい所まで使い易さに気を配っている事が分かるが。高速で走り続けるので、急にタイヤが心配になってチェックをする。特に問題は無いようだが、名前を知らない韓国製のタイヤだった。



・昼飯は昨日と同じハンバーガー。マックのようなドライブ・チェーンではなくて、普通のカフェ・レストランで注文した。こちらでは何処で食べても、肉がばかデカクてしかもパサツイテいる。ボリュームは十分である。その上、付け合せのポテトと、野菜サラダ、ピクルスが山のようについてくる。玉ねぎやレタスもたくさん付いてくる。チキン・スープとコーヒーを頼んで$8.1+Tip$1.0だった。


・温泉を探してGaviotaという町にやってきた。ガイド・ブックには、この公園の中に確かにあると書いてあるのに、そのような案内はどこにもない。公園の有料駐車場に$8払って入ったのだが、ただのビーチで遊ぶための駐車場のようだ。近くにいたマイクという男性に聞いてみた。とても話好きの男性で、自分も温泉が大好きで良く行くと言っていた。いろいろと情報を教えてくれたが、肝心の温泉はここにはないと断言した。この先のXXXという所に良い温泉があると言って地図を書いてくれた。また、彼が今までに行ったことがある温泉の中では、デス・バレーの近くにあるコパという所が最高だと言って、コパの温泉の案内用の名刺をくれた。信用できるかどうか分からないが、とってもいい奴だったので握手をして別れた。



・マイクに教えられた通り、R101をサンタ・バーバラまで行き、そこからR3154に入って急な山道を上の方に向かってドンドン登っていった。素晴らしい観光用の山岳道路だった。カーブが続くが90km/hのスピードで走り続けるが、目的地が出て来ない。少し不安になったので、近くにあった大きな公園の管理人に聞いてみたが、温泉の存在を知らなかった。


・色々聞いて回った結果、Cold Spring Tovernという一軒宿があるらしいということが分かる。早速、行ってみたがここは昔、日本でいう鉱泉が湧いていたが、今は名前だけで、レストランを主体とした宿だという。山の中にあって、山小屋風の、そして中はとてもシックなアーリー・アメリカン・スタイルの小屋だった。


・宿の女性主人に聞くと、この近くに確かに有るらしいが、普通の車ではとても行ける所ではないという。しかも、場所が良く分からないとのことだったので、私のリスト・メモにまだ残っている場所の方を優先することにした。



・まだ、明るい内に今日の宿泊予定であるオーハイに向かった。オーハイまでは、素晴らしい景色が続く山道のドライブだった。今までのドライブに加えて、新たに沢山の湖の眺めが加わる。ただし、後ろから付いてくる車が自分の車にピッタリ付いてくる。何時もならば、そのままやり過ごすのだが、今回は自分も急いでいたので、そのまま2台が繋がって走り続ける。繰り返し現れるカーブをクリアしている内に、段々速度が上がってきた。これはチョットヤバイかなという気がしたのと、大人げない感じもしたので抜かせることにした。しかし、そのような場所も見当たらない。そうこうしている内に、オーハイ近くの村についてしまった。この村にある交差点の信号で終わらしてしまった。自分は交差点の側にあるレストランのパーキング・エリアで、最後の地図の確認を行った。


・今回のドライブで一番困ったことは、ルートの探索である。地図を見ながら走るのであるが、肝心の地図に書いてある文字が小さすぎて良く見えないのである。そこで、大きな街ならどこの街にもあるステープルで、ライト付きの小さな拡大鏡を購入した。どこかで車を停めるたびに、拡大鏡で地図を調べることが習慣になってしまった。

9月21日(火)ワイナリーの村、パソ・ロブレスを抜けて



・坂を登って下ってまた登っていく。右に曲がって左に曲がって、また坂を登って下って、どこまでも続く道。道の両側には、大きな木が等間隔でずっと植えられている。周囲は山というよりなだらかな丘になっていて、所々がはげた枯れた草地と、背の低い藪のような林が点在している。そうかと思うと、道に沿った広い平地から奥にひかえている山の斜面まで続く、しかも手入れが行き届いている様に見える大きなぶどう畑が一面を覆っている所があったりする。また、次には何も無い草地に出る。そしてまた、今度は道の両側に広がるぶどう畑。


・この繰り返しの風景が、如何にもこれがカリフォルニアだと言っているような気がする。こんな景色を体験するのは初めてなのだがこれが、自分が頭に描いていたカリフォルニアだと思う。所々に家へと続く入り口があるが、そこにはXXワイナリーと書いて有る札を見掛ける。入り口から家まで続く道は、その家の敷地らしい。赤や緑の色をした綺麗な布で飾ってあって、何となく入ってみたい気がする陽気さがある。大きな家が見え隠れするが、道路から少し離れたところにある。当然、隣の家まではかなりの空間がある。感覚的だが1km位はありそうである。このような景色は、日本では九州でも北海道でも見ることが出来ない。こんなばかでかい土地でも、チャント私有地を示すための鉄条網の囲いが見える。


・たまに車とすれ違うが、彼らは観光客ではなく土地のものだろう、ピック・アップ・トラックが多い。また、タンク・ローリーを二つ連結した馬鹿長いトラックとは二度もすれ違った。中にはワインが詰まっているのだろう。観光客らしい乗用車には殆ど会わない。人も歩いていないのどかな道を、高速で走り抜けるのは気分が良いが、急いでいるように見えるのは自分だけ。



Paso Roblesを出てから、山の中をずっと続くルート46を走る。小さな村であるAdelaidaHarmonyCayucosを通ってM.Beyに出た。広いビーチには店などないようだったので、少し戻ってCayucosICでハイウェイを降りた。海に向かって少し走ると、ここにも小さなビーチと桟橋が見える。桟橋の横には、珍しく公衆トイレがあった。チャンと手拭き用の紙まであって、全く汚れていなかった。


・直ぐ近くにカフェがあったので、昼飯にと入ってみた。サラダ付きのミニ・バーガー(普通のバーガーはでかすぎるので)が$4、サラダはトマトと紫玉ねぎのスライスとサニー・レタスが山盛りのように入っていた。それとホワイトソースにあさりがどっさりと入ったクラムチャウダーを頼む。($3.5)チップを入れて$9.2でした。クラムチャウダーは、普通はボール$5に入っているが、小さなカップの方にするこれだけで腹が一杯になってしまった。


・ここからはできるだけ海岸に沿った道路を走って、Los OsosS.L.ObispoAvira Beachに向かう。Avira Beachの近くに有るはずのヌーディスト・ビーチとAviraHotSpringを探すつもりである。ヌーディスト・ビーチはともかく、温泉探しは、今回の旅行の目的の一つである。


・結果としてヌーディスト・ビーチは見つからなかった。分かり難いところにあると聞いていたが、車で通るだけでは見つからず。INで調べると、今年からカリフォルニア全州で、そのようなビーチが禁止になったらしい。




・温泉は直ぐに見つかった。ICの直ぐ横の広大な敷地の中にあった。早速、中を案内して見せてもらう。温泉というよりも、ただの四角い大きなコンクリート製のプールであった。中には確かに39度位のお湯が入っており、何人かの男女が水着を着て浸かっていた。聞くと、本物の温泉で、確かに成分表が事務所の壁に貼ってあった。


・ただし、日本で良く見かける効能書きは見当たらない。聞くとそのようなものは、法律で書いてはいけないことになっているという。アメリカでは学会がない領域では、公に書くことは禁じられているらしい。


・その他には休憩スペースと、飲食のできるスペース、それと人気があると言っていたスパ、マッサージ・ルームがある。価格は$8/dayで何時間いても良いと言う。ただし、プールは屋根がなく午後の強い日差しが照りつけているので暑くてしょうがない。探し求めていた温泉ではないので、ここは素通りして、次の温泉を探すことにする。



・温泉場の隣は大きな芝生と、大きな木が木陰を作っている涼しい場所があった。その木陰のテーブルとベンチには4人の日本人らしいお年寄りが集まって、英語で駄べっている。大きな魔法瓶とカセット・コンロが置いてあった。チョット年が行っているように見えたので、仲間に入れてもらうことは遠慮することにした。


・その隣が大きなファーマーズ・マーケットになっている。丁度、ハロウィンの前だったので、大きなカボチャが山のように積まれていた。自分はリンゴ、モモ、バナナ、トマト、ジャムなどを山のように買った。料金はTot $9だった。


・モーテル・ガイドをめくりながら、大学があるという綺麗な町らしいサンルイス・オビスポに行くことにする。町の中をあれこれ迷って、大学から少し離れた所にあったモーテルに落ち着いた。



・少し車で町を走ったので、幾つかのレストランや大きなスーパー・マーケットが有る場所が分かった。モーテルはそのどちらにも歩いていける距離にあり、静かで値段も安かった。アメリカの田舎では、モーテルの料金が都会に比べると断然安い。







9月20日(月)誰にも会わない山の中を走る

・朝、10時に出発した。今日の予定は、まず近くにあるHarst城を見学、それからゴーダまで昨日、走ってきた道を再び逆に北上してそこでガソリンを入れる。そして、ゴーダの更に先のLucia近くにあるナショナル・パークで少しハイキングを楽しみ、その後で海を離れて山越えして、Jolong辺りまで山の中をドライブしてから、何処かその近くの村に一泊しようと考えた。


Harst城は丘の上にそびえ立つ姿が、下の海沿いの道路から良く見える。ハイウェイを降りて、田舎道を10分、城に向かって走ると大きなゲートがあって、これまた1000台は駐車できると思われる巨大な駐車場がある。できるだけ日陰を探して車を停める。大きなビジターセンターが入り口になっている。既に大勢の観光客で一杯だった。そこで6種類あるツアーのチケット(どれも$24)を購入する仕組みになっている。城はここに有るのではなく、ツアー毎に大型バスに乗って出かけるのである。


Harst城は実は皇族の住む城ではなく、アメリカの金持ちの作った悪趣味の象徴の様な別荘である。広大な建物と手の凝った庭が有名で、どのガイド・ブックにも乗っている。使ってある材料は、すべて本物で模造品ではないとのことで、それなりの風格が有るらしい。ヨーロッパの城よりも金と時間が掛かっているとのことであった。アメリカ人はこのようなドリームを受け入れるばかりか、そのようなスケールの大きいことが好きな民族である。


しかしながら、次に出発するツアーは午後だと言うので、結局、ツアーに参加することは止めてしまった。


・代わりに昨日は見ることができなかった、ゴーダへ行く途中にあるアザラシの浜に行く。ここも既に多くの人が来ていた。しかし、野生のアザラシの数は、人の数よりも多いくらいだった。ただ寝転がったまま、少しも動かなかったが。海から吹き付ける水を含んだ強い風が冷たく、ジャケットを着込んでも寒いくらいだった。他の観光客の多くは半袖のTシャツ姿が多かったが、車から降りて記念撮影をして、また直ぐに行ってしまった。


・自分は少し離れた所を歩いてみようと、草原を少し行く。そこは後ろを振り向かなければ、正に大自然の中にたった一人きりだった。海を見れば、あちこちで二頭ずつのアザラシが奇声を発しながら追いかけっこをしている。此の様な風景を観ている人は他にだれもいなかったが、考えて見ればアメリカ人の積極的な保護が有って、このような景観が維持できているのだろうと思う。皆、きちんとルールを守っているところは、偉いと思った。ゴミが何処にも落ちていないし。


・一方では、トイレに行けば、こんな僻地でもチャンと水が出てきて、ペーパータオルが置いてある。途方も無いエネルギーの無駄遣いをしている国である。アメリカ人の考える省エネとは、まず自分が使いたいだけ使う量を確保してから、それ以上はムダにすることは止めようと、言っていると実感する。最近はペーパーではなくエア式乾燥機も多くなってきたが。


・さて、ゴーダに来た時に大変な事に気がついた。ガス・ステーションが有ることはあったが、有人の事務所が有る訳でもなく、機械で読むクレジットカードしか使えない。普通のキャッシャーではもちろんカードは使えるのだが、無人の処ではアメリカでは多くの機械が日本の国際カードを読み取ってくれないのである。ガソリンの残りはかなり少なく、次のガス・ステーションまで持つかどうかも自信がない。さてどうするべきか。ゴーダからS.シメオンまでは片道で100km位の距離がある。(これでも一番近いG.ステーションである。)


・考えられる手は二つ有った。一つはここでガソリンを補給する車が来るのを待って、その人のカードを使わしてもらい代わりに現金を支払う方法。もう一つは、S.シメオンの更に先のカンブリアまで戻って入れる方法である。計算するとそこまではギリギリだがガソリンは持ちそうである。結局、厚かましく頼むことは嫌だったので、来た道を再び戻ることにした。カンブリアにガス・ステーションが有るということは、昨日、泊まったモーテルの受付の人が教えてくれていたのである。それなのに、ゴーダで入れることばかり考えていたので、モーテルを出る時にその町で補充してくる案はすっかり忘れてしまったのだった。


・カンブリアという小さな町でガソリンと昼食を補充すると、すっかり身も心も満たされて疲れてしまった。リンゴを齧りながら、しばらく予定変更を考えたが、この分では当然ながら、ハイキングはカットするか、近くに一泊するかだろう。と言っても、その近くの宿泊場所といえば、温泉付きの禅道場であるエサレンしかないが、昨日来る途中で中を見せてもらいついでに価格を聞いた所では、禅セッション付きで$240だったので少し考えてしまう。ただし、エサレンの温泉はオールヌードで混浴だと言っていた。色々悩んだが、結局、温泉は他に沢山ありそうだったので、次の機会に別の所に行くことにした。


・再度、ゴーダに向かってドライブをする。不思議なことに濃い霧が出てきた。道路が濃い霧で良く見えないのでゆっくりと進む。この霧は海の上だけにかかっていて、道路の所は少し薄くなっている。そして道路の山側の崖に沿った所で、何と霧が急に消えているのである。とても幻想的な、しかも広範囲に渡る霧の世界だった。


・ゴーダを通り過ぎてLuciaに向かう途中にJolongへ行く入り口が見つかった。狭い道である。いよいよここからはあまり車の通らない山岳道路である。激しいきついカーブの上り坂が続く。カーブにはもちろんガードレール等の人工物は何も無いので、いきなり絶壁と、その向こうに海が広がって見える。眺めが最高の道路である。


・その内に海が見えなくなってしまい、完全な山道となる。段々と道が狭くなってくるが、TAJAHARAと違って、舗装してあるので全く不安がない。しかし、道路が砂で覆われているようで、タイヤが盛んに砂を巻き上げる。砂で滑るので30km/h位のスピードで走る。何もここでドリフトの練習をして死ぬことはないと考えていたら、急にカーブの所で前方から車が飛び出してぶつかってきた。自分は上りだから直ぐ止まったが、対向車がぐんぐん近づいてくる。スリップする音が激しく聞こえる。運転していたのは、若い男女のカップルだった。とっさに「バカヤロウ、ラリーヤッてんじゃないよ」と日本語で叫んでしまった。ぶつからずに済んだが、本当に1mも無かった。相手は何も言わず行ってしまったが、きっと次のカーブで震えが止まらない筈だ。本当に事故になる所だった。


・途中でトイレが近くなってしまい、2度もタイムを取る。いずれも山の中で、夕方5時だというのに眩しい太陽を背に受けて。この辺には、家もなければ対向車も見かけない山奥だ。体長が10cm位の小さな無数のリスが、ひっきりなしに道路を走って横切っていく。10m毎にリスが現れる。初めの内は注意をしていたが、それではとても走り続けることが出来ない。


・山の中を下って行くと、今度は平坦な道路になった。Jolonの村らしいのだが、家がまばらに何件かあるだけなので、休まずにそのまま通り過ぎる。道路には自分の他には全く車が走っていない。この道路にはたまにカーブがあるのだが、そこを曲がるとまっすぐに一直線にどこまでも道路が続いている。そこを時速130kmで走り抜けていく。もう夕方の6時を過ぎているので何となく急いでしまうのだ。


・そしてRXXXの近くまで来るとICのそばに、Paso Roblesという町が見えた。今夜はそこに泊まることにする。

・夕食はまだ7時だというのに明るいので、ブラブラと散歩しながら町の中心地に向かう。中心地と言っても、店が4軒ばかりあるだけだが、その中からピザ・ハウスに入ってディナーを食べた。もちろん歩いてきたので、ハイネッケン・ビールを二杯飲む。広い店は何処から客が来るのか、殆どいっぱいだった。のどかな雰囲気などではなくて、周囲の壁に据え付けられたテレビが、フットボールの試合をやっており、煩いノイズを出していた。ビデオかも知れない。

9月19日(日) ウェスト・コーストのドライブ




・今日はいよいよ海沿いのコース、ビッグ・サーに向けて出発だ。もう何回も通ったモンタレーへの道を行く。ロング・ドライブの前に、モンタレーのフィッシャーマンズ・ワーフをしばらく見物散歩することにした。日本の海では当たり前だが、アメリカでは珍しい磯の香がする。公園の駐車場は$1.5/hだったが、ゲートも何も無いようだった。しかし、皆、チャント機械に金を入れていく。自分も当然そうする。



・磯の香の正体はワカメのような植物らしい。桟橋から見ると全ての橋柱に、巨大なワカメのような物が絡みついてゆらゆらと泳いでいた。直ぐ近くの公園では、ジャズ・フェスティバルの中の一つのイベントらしきものをやっているようだったが、全く盛り上がっていなかった。



・車に戻って再び、3日前に来たことがあるモンタレー海岸に行く。今日は日曜日なので、先回より車が多い。しかし、駐車スペースがたくさん有るので、好きな所に車を停めることが出来る。海岸線に沿って植物が植えられていて、ずっとずっと公園のように続いている。しかも手入れが行き届いていて、ゴミやその他、景色に目障りになるようなものが何も見当たらない。その間に遊歩道のような道が続いている。海からの風が強いので寒く、散歩している人はあまり見かけないが、ランニングしている人やサイクリングしている人も多い。



・ランニングをしている人は、少なくともロスアンジェルスでは殆どいなかったが、ここでは腹の出たおっさんが走っている。確かに自然に健康を考えたくなる景色だ。このような景色がずっと続いている。17マイル道路という有料の観光コースだ。確か$12位だったと思う。




17マイル道路を抜けてからもドンドン南下するが、この道路は確かサンチャゴまで続いている有名なパシフィックコースである。海岸線に沿ってアップダウンを繰り返しながら、少しずつ坂を登っていく。道路はガラガラであるが途中にあるビスタ・ポイントには、必ず数台の車が止まっている。反対の山の方もきれいなのだが、皆、同じように立ったまま海の方を見ている。何を考えているのか分からないが、ここでは全員が禅僧の様に見える。メガネを掛けてカメラをぶら下げているのが多いが、ここでも中国人や日本人は全く見かけない。ただし、多分レンタカーだろう日本車はやたらと多い。ホンダ、トヨタ、レクサス、ニッサン、スバルが多い。自分の様に韓国製の小型車も結構走っている。








・自分のような一人旅では話し相手がいないこともあり、ただひたすらに走るだけである。適当なカーブが続くので、運転がとても楽しい。やることと云えば、所所にあるポイントで立ち止まって、看板に書かれたガイドを読むくらいである。後はトイレを探すために、売店のような店があると必ず立ち寄る。男の一人旅なら、いざという時には何とかなるが、トイレが近い人には注意が必要だ。









・素晴らしい海岸線のドライブ、それも全く渋滞はなく自分の意のままに運転できる。晴れ渡った空の下、開け放した窓から乾燥した空気が入って来てとても良い気分だ。それにしても気が付いてみるとオートバイの姿が見当たらない。自転車で旅行している人は良く見かけるのに。自転車は多いね、日本より多く見掛ける。多くのアメリカ人は、腹が出ておりあまり歩きたがらない。しかし、スポーツをする一部の連中は本当に凄い。自転車でこの距離を延々と、自分だけの力で移動するなんて、その強靭な体力と精神力に圧倒される。



・ビッグ・サーは成程、景色が素晴らしかったが、もう、何時間も同じ様な処を走り続けているので慣れっこになってしまった。でもやはり有名な大きな橋の処で、居合わせたお兄さんに写真を取って貰う。



・もっと凄い人を見かけた。小さなリアカーに犬を載せて、歩いているのである。それも車に引っ掛けられないように、道路の方に長―い旗をつけてゆっくりと歩いている。一体、何処から何処へ行くのか、何故、そうするのか聞いてみたい気がする。



・この日は夕方にS.シメオンに着く。あまり快適に走っていると直ぐにロスアンジェルスまで行ってしまいそうなので、どこか適当な所を見つけてハイキングでもしようと思うが、歩くにしても今走っている道路以外はないので、明日もっと良く地図を見て計画を考えようと思う。


・途中、ゴーダという所を通りかかる。地図で見ると小さな村の様な印が付いているが、道路脇に家が数軒有るだけだ。山側にとても美しい景色が眺められるレストラン・カフェがあり、その横にガソリン・スタンドが有った。休んでいこうか、ガソリンを入れて行こうか考えているうちに、何となく通りすぎてしまった。しかし、ガソリン・メーターは既に残りが1/3の所を指していた。しかし、あまり気にしないで次のガス・ステーションで入れれば良いと考えてそのまま進んでしまった。

・結局、何処まで行ってもガス・ステーションは無かったが、S.シメオンという町に来た時には既に夕方になっていたので、そこに有ったモーテル(スーパー6)に泊まることにした。スーパー6は、全国に展開されたフランチャイズ型式のモーテルで、簡素であるが部屋が広く自分に必要な物は全て揃っている利用しやすいモーテルである。レストランもモーテルの中に併設されていた。中々雰囲気の良い所だった。

9月18日(土)サンフランシスコの街の風景

・今日も朝早く起きだして、サンフランシスコの町を散歩する。ロンバード通りを東に歩いてロシアン・ヒルから海に向かって坂を駆け下りる。途中にバラがとても綺麗な庭が有って、しかも公開されている所があった。そこでひと休みしながら、しばらく読書をした。


・フィッシャーマンズ・ワーフまで足を延ばしてから、公園を突っ切り、そして再び坂を登る。この周辺はンフランシスコを代表する観光地の一つだが、時間が早いせいか人が少ない。本当に寂しくなるほど人が少なかった。


・帰り道には例のイタリア人が経営するストアで軽い朝食をとった。今日は何時ものロースとしたバター付きパンとコーヒーと、他にミルク、小さなピザ、トマト、リンゴ、バナナをそれぞれ一個ずつ店で買って、外のテーブル席で食べた。今日も美味かった。


・午前中の遅い時間になってから、再びサリナスに向けて出発した。サンフランシスコからサリナスに向かうのは二度目なので、今回はずっと高速道を走ることを選んだ。それにしてもアメリカの大地を移動している時はいつも思うのだが、町と町の間にはそれこそ何も無いスペースが延々と続く。日本の童謡に「今は山中、今は浜、今は鉄橋・・・」という歌があるが、日本ではそれ程めまぐるしく車窓の風景が変化するしかしここでは、同じような風景が延々と続くのである。荒野なら荒野ばかり、ぶどう畑ならぶどう畑ばかり。自分は時速130kmで移動しているのに、ずっと風景が代わり映えしない。この広さがもたらす麻酔効果が、とても心地よい時間に感じられる。


・一昨日に過ごしたばかりの町に再びやってきた。まずは先回泊まったところより、もっと安いところを探そうと思った。何しろ金を節約する所が泊まるところだけだし、一人旅では大きな部屋、テーブルや椅子の品質が多少高くてもあまり安らぎへの効果が感じられないからだ。とりあえず、先回とは違って今度は市内で幾つかのモーテルに当たってみた。最初に声をかけたところは、郊外価格が$75で部屋が古くて今一つ暗い感じだった。駐車場に、他の車が見当たらなかった。フロントのおばさんもインド系で言葉が分かり難い。


・更に旧市街の方に行ってみると、商店街や気の利いたレストランが幾つかあった。その近くで、まず建物が綺麗で大きなモーテルを覗いてみると、何と価格が$50だという。部屋を見せてもらったが、さっきの所より数段綺麗だった。これなら朝食も部屋で食べても良さそうだったので、直ぐに決めてしまった。チョット探しただけでも、誰にでも分る程の違いがあるのはどういう訳だろうか。これでは儲からないダメな所は、ますますダメになっていく事が容易に理解できる。少なくとも金のない旅行者は、必ず自分の目で確認して、少しでも良いところを探すべきだと思った。


・ディナーは町の旧市街へ行ってみた。はじめは酒が飲める様に歩いて行こうと思っていたが、夜は危険な感じもしたのでやはり車で行くことにした。広い道の両側に商店やレストランが並び、その前の道路が駐車スペースになっている。その一角に車を止めてしばらく歩いてみた。とても明るい良さそうなイタリア・レストランが有ったので中に入る。田舎町のレストランのせいかイタリア・レストランというのに、中は昔懐かしいアーリー・アメリカン調の飾り付けで、プレスリーの写真が何枚か壁にかかっていた。


・迷わずビールとオードブルを頼む。ウェイターが気を効かせて色々と話しかけてくる。こんな時にこちらから目線を合わせて、「私は日本人でアメリカを知るために車で旅行している」と話仕掛けると、大抵の人は次々と質問をしたり、また、向こうからも色々と話しかけて来る。アメリカ人は、能動的に何かをしようとしている人間に対して好感を持つ国民なのではないかと思ってしまう。兎に角、何かをやろうとしていると言えば、必ず沢山のコメントが返って来るのである。


9時になって片付けを始めたので、帰ろうとしてテーブルの上に車のキーを出した。それを見て、アメリカは酒酔い運転はやめた方が良いとまた話しかけてきた。確かに何をやっても自由な国だが、一旦捕まると大変な事になる。自分は学生ビザできているので、二度とアメリカに来ることができなくなってしまう。しかし、モーテルは車で3分の所にあり、ポリスカーも夜は街中では見かけたことがないので、自分ははじめから車で帰るつもりだった。


・所が3分で着く筈だったのだが、頭に描いていた道順が一方通行で通れない事から、別の角を曲がっている内に道に迷ってしまった。夜だし、地図を持っていないし、道を聞く人も見当たらないし、同じ所を回っていると不審がられるだろうし困ってしまった。今、自分がどこに居るのか、方角はどっちが北なのか、町の様子はどんな風になっているのか、考えてみたら何も分からなかった。しばらくして、知っている道に出たので助かった。