2019年9月27日金曜日

9月6日(月):初日のロスアンジェルス・ウォーキング



・昨日の夕方(18:45)成田を発った筈だったが、無事に何のトラブルもなくLAXに付いた時は同じ日の昼過ぎ(12:55)だった。片道13時間の飛行中、飛行機の中では、睡眠導入剤を飲んだことも有り、とても良く眠れた。今までに東行飛行で何回も経験した時差ぼけの苦しさは、今回は全く味わうこともない快適な空の移動だった。



・隣の席に座った英語の上手な若い一人旅の日本人女性と、あまり話ができなかったのが少し残念だった。今回の旅行では、全てに対して今までの自分より積極的に行こうと考えていたが。相手の方が当たり前だが、自分にあまり関心がない様だったので。



・入国審査の時に必要と言われていたI-94カードだったが、何処で用紙をもらって良いのかが分からず、少しまごついた。案内が何処にも見当たらなかったので。聞くと入国審査ゲートの手前横にインフォメーション・デスクがあり、そこで記入するのが正解だった。審査を待つ行列が長かったので、少し焦って見落としてしまったようだ。結局、一緒に搭乗した人達でI-94を記入している人は、他には誰も見当たらなかった。多分、事前に用意していたのかも知れない。飛行機の中で貰うことができたのだろうか。私はその位、良く寝ていたと言えるかも知れない。







・予約していたモーテルは郊外にあるので、空港から直接レンタカーで行きたかったが、空港オフィスでは希望の自動車保険がセット出来無いことが分かった。そこで空港から直通シャトルバスでダウンタウンにあるユニオン駅(ハブ駅)まで行き($7)、そこから2k位の道のりはタクシーでモーテルへ移動することにした($9)。 また、今日は祝日(レイバーデー)という事もあり、ユニオン駅のレンタカーの営業所は午後二時には窓口を閉めてしまうらしい。そこで、今日はレンタカーを借りる事は諦めて、予定とは違ってしまったが仕方なくタクシーを使用した。



・ユニオン駅ではタクシーのドライバーが、「モーテルの場所を知らないので住所を教えろ」と言うので、出だしから困ってしまった。モーテルの予約はインターネットでしたのだが、住所まではメモしていなかったから。タクシーのドライバーが、その土地のモーテルの場所を知らないなんて有りか? しかしながらそれでも、事前にグーグルの地図で場所を調べていたので、頭の中で覚えていた道順を教えながら、スムーズにモーテルに到着した。




9月6日(月):初日のLAウォーキング






・昨日の夕方(18:45)成田を発った筈だったが、無事に何のトラブルもなくLAXに付いた時は同じ日の昼過ぎ(12:55)だった。片道13時間の飛行中、飛行機の中では、睡眠導入剤を飲んだことも有り、とても良く眠れた。今までに東行飛行で何回も経験した時差ぼけの苦しさは、今回は全く味わうこともない快適な空の移動だった。



・隣の席に座った英語の上手な若い一人旅の日本人女性と、あまり話ができなかったのが少し残念だった。今回の旅行では、全てに対して今までの自分より積極的に行こうと考えていたが。相手の方が当たり前だが、自分にあまり関心がない様だったので。



・入国審査の時に必要と言われていたI-94カードだったが、何処で用紙をもらって良いのかが分からず、少しまごついた。案内が何処にも見当たらなかったので。聞くと入国審査ゲートの手前横にインフォメーション・デスクがあり、そこで記入するのが正解だった。審査を待つ行列が長かったので、少し焦って見落としてしまったようだ。結局、一緒に搭乗した人達でI-94を記入している人は、他には誰も見当たらなかった。多分、事前に用意していたのかも知れない。飛行機の中で貰うことができたのだろうか。私はその位、良く寝ていたと言えるかも知れない。



・予約していたモーテルは郊外にあるので、空港から直接レンタカーで行きたかったが、空港オフィスでは希望の自動車保険がセット出来無いことが分かった。そこで空港から直通シャトルバスでダウンタウンにあるユニオン駅(ハブ駅)まで行き($7)、そこから2k位の道のりはタクシーでモーテルへ移動することにした($9)。 また、今日は祝日(レイバーデー)という事もあり、ユニオン駅のレンタカーの営業所は午後二時には窓口を閉めてしまうらしい。そこで、今日はレンタカーを借りる事は諦めて、予定とは違ってしまったが仕方なくタクシーを使用した。



・ユニオン駅ではタクシーのドライバーが、「モーテルの場所を知らないので住所を教えろ」と言うので、出だしから困ってしまった。モーテルの予約はインターネットでしたのだが、住所まではメモしていなかったから。タクシーのドライバーが、その土地のモーテルの場所を知らないなんて有りか? しかしながらそれでも、事前にグーグルの地図で場所を調べていたので、頭の中で覚えていた道順を教えながら、スムーズにモーテルに到着した。



9月10日(金):ヨセミテのジョン・ミューア・トレイルを歩く

                    ・朝、早く起きるつもりが起きたら既に7時を過ぎていた。朝食は昨日スーパーで買った、リンゴとバナナとサンドイッチにコーヒーである。兎に角外食ばかりなので、野菜がどうしても不足する。レストランに行っても、不思議と野菜料理が見当たらない。しかし、スーパーへ行くと、野菜を大量に売っているので、家庭ではチャンと食べていると思う。ただし、何処のスーパーストアに行っても、不思議なことに同じような野菜、食料しか売っていないのだが。






・野菜が不足がちなのだが、更に悪いことに旅行に出ると自分は便秘気味になる。そこで今回は日本からビフィズス菌(ビオフェルミン)の錠剤を持ってきた。このお陰で今回は全く問題がなかった。ウォシュレットがないことが、少しさ寂しく感じられるが。










・今日はエルポータルから再びヨセミテ公園に入り、有名なヨセミテ滝の上までハイキングした。御前10時頃から登り始めピークポイントに着いたのは午後二時過ぎであった。壮大な滝と云っても、実は雪解け水なので夏を過ぎると枯れてしまい、水の気配は全くなく唯の岩山であった。それにしても頂上付近が平らな台地になっているため、下から見上げると頂上から水が落ちてくる感じになり不思議な感じもするし、その分落差が大きいわけである。




・途中の景色は全く雄大な岩山で、やはり日本の山にはないスケールの大きさに圧倒される。しかも、公園内には人が溢れかえっているが、登山道に入った瞬間から人をあまり見かけなくなる。静かな山歩きが楽しめる。人に出会うと唯挨拶をして通り過ぎるのが何となく勿体無い。そこでチョットだけ人懐こく、情報交換などしてから分かれる感じである。カリフォルニアで出会う人達は、観光客も含めて皆、とてもフランクだ。道で出会ったときに、全くの他人でも皆あいさつをする。そして、チョット話をしたいと思って声をかけると、気軽にしかもとても親切に応対してくれるのが嬉しい。しかし、このヨセミテの山では、あまり黒人やメキシコ系のアメリカ人は見かけなかった。私は彼らの英語がよく聞き取れないので、自分のほうから進んで話しかけようという気があまり起きなかったが。











































LA、D.バレー、G.キャニオン、セドナ、ジョシュア公園

11月12日(金) LAでの休日とMi ・朝食は以前、毎土日に食べに行っていた、Panera Caféにまた行ってみようと思った。自分はこのカフェの屋外の席が好きで良く通った。LAは気候が良いので、日陰で有りさえすれば外の席は風が涼しくてとても心地良いのだ。何時も注文するものは、ローストしたベーグルとクリーム、それにコーヒーだけだったが。他にもスープ等、金を払えば美味しそうなものも幾つかあった。ここが人気のある秘密はパンの種類とその美味しさにあると思う。兎に角、アメリカではなかなか美味しいパンは手に入れにくいのだ。最近、東京で良く見掛ける高級な手造パンには到底叶わないが、ここLAではそんな高級なパンを希望する人はマレである。事食に関する限り日本人はアメリカ人より遥かに贅沢だと思う。 ・食後、カフェの近くに大きな書店があるので、その中を少しぶらついた。この本屋の不思議な所は、新しい本と古本の両方を売っていることである。もちろん古い本はかなり安い値段がつけられている。買おうと思っていたガイド・ブックは、どうせ拾い読みするだけで、日本に帰るときには重いので捨ててしまう積りだったので自分にとっては好都合だった。 ・この後で直ぐにモーテルに取って帰り荷物をまとめた。LAで泊ったモーテルは快適だった。LAXに近いので海外からの旅行者が多いのだろう、今まで泊ったモーテルより作りや設備が少し良くできている。室内の広さと云い、ベッドや机等の調度品の作りも一人旅行の自分には充分だった。コインランドリー等の設備も沢山あるので、待ち時間に困る事もなかった。難を云えばその分、価格が高いことだった。LAにいる1Wの間ずっとここにいるとしたら、自分としてはかなりの出費いが嵩むと思い、もっと安くて便利な例えばサンタ・モニカに近い処を探そうと思ったのだった。どうも一人旅では部屋が綺麗でそれなりに設備がそろっていれば、それ以上は全く必要が無いと考えてしまう。全てはコスト次第なので、できればここの半分くらいのか価格の所に移動したいと思った。 ・今日は午後にMeiが学校から帰ったら二人で会う約束をしていたので、何とか午前中に探そうと思った。高速道のサービス・エリアで貰った無料のモーテル・ガイドブックやインターネット、そしてカーナビについている情報等を当たって見たが、市内の便の良い処で希望の価格の処はなかった。LAにはかなりの数のモーテルが有りそうであるが、恐らく手に入る情報はそのほんの一部だろうと思う。そこで、昼飯を食べにサンタ・モニカ周辺に出かけた時に、自分の足で探す事にした。 ・セプルブド・ブルバードをS.モニカ方面に向かって車を走らせていると、今までは余り気が付かなかったのだが、広い道路の両側にかなり大きなモーテルが7、8軒ある。その中で立派そうなモーテルを素通りして、一見して安そうな所を数か所、目星をつける。料金と部屋を確認して、まあまあ満足できる所を探す積りだった。Pico Blvdまで来た時に右手に日本で云うラブホテルの様な名前の建物を見つけた。手始めにここを覗いてみようと思い中に入る。価格を聞くと平日は税込みで50$、土日は56$だと云う。部屋を見せてもらうと、十分良い感じだったので即座にここに決めて4日分をカードで支払った。 ・さて、荷物をおろしてから、まだ午前の早い時間だったので、S.モニカの街に買い物に行く事にした。S.モニカの街には私営の駐車場が沢山あるが、他の場所と比較すると料金が高い。しかし、数か所にでかい市営の駐車ビルがあって、ここだと2時間までは無料で追加料金も高くはない。こ の駐車場は、いずれも海沿いの道路に面しており、メイン・ストリートまで僅かワンブロックの距離の便利な一等地にあった。 ・メイン・ストリートは、カフェや様々なレストラン、ブティック等が立ち並んでいる。そして、休日には音楽演奏はもちろん、踊りや曲芸等の沢山のストリート・パフォーマンスが行われ、道行く人達でひしめき合いLAでも稀に見る活気に溢れ場所であった。自分は通を一通り歩いて街の様子を観察してから、メイン・ストリートの一角を占めている大きな本屋に入った。何となく英文が苦もなく読めそうな気がしていたので、パラパラとめくって優しそうな本を探した。しばらく探して歩き、「アルケミスト」という本を$10.91で購入した。 ・午後3時の約束の時間にMiを迎えに行く。玄関でドアのベルを鳴らすと果たして、いつもの明るい笑顔が現れた。相変わらずキュートで可愛い女だ。少し痩せてはいるが、スタイルが良く美人系である。それでいてセクシーでもある。しかし、何といっても何時も明るい笑顔でいるのが最高である。何処に出没しても目立つ存在で、彼女の周囲が明るくなる。しかも実際に話題の中心にいつもいる事ができる魅力を持っている。今日は白いピッチリした細身のローウェストのパンツに、腹とヘソを出した短いシャツ姿で現れた。中々キュートでほのかな色気のある女っぽい感じだった。 ・少し世間話をしてから、彼女に車の運転を教えることになった。彼女はドライビング・スクールに30時間くらい通っていて、既に高速道路も経験しているということだったので、車の通りが少ない住宅地の中を、ぐるぐる8の字に走り回ることにした。 ・まだ、速度に慣れていない様で、コース取りに少し不安が有って、予想していたよりも運転は危なっかしかったが、あっという間に2時間が過ぎてしまった。楽しい時間だった。自分はもっと続けたかったが、彼女は緊張して運転した為に喉が乾いてしまったらしい。スター・バックスに入って休憩をすることにした。ここでは主に彼女の大学での勉強の進み具合や勉学上の悩み、学校を出た後、どうしたら良いかなどについて相談に乗った。彼女の中国での友人達の話も有った。彼等は皆、裕福な人が多くて、BMWに乗っているのが多いと言っていた。 ・彼女自身、中国では短期大学を卒業しただけなので、是非ともアメリカで大学卒業の資格を取りたいと言っていた。偉いのはその学費等を全部自分で出している事だった。と云うのは、中国で短大を卒業後、日経の企業(ニトリ)に就職しながら貯めた金でマンションに投資して、それがとても高値で売れたらしい。アメリカでの4年間の生活費と学費が十分に出せる位のもうけが有ったと言っていた。現在のアメリカにいる中国人の友人は皆、金持ちらしい。殆どがBMWに乗っていると言っていた。この10年間の中国の変化は本当に凄まじいものがあったらしい。今ではマンションを持っていても、大分値を下げないと売れないらしい。 ・こんな話をしている内に、時間がドンドン過ぎていく。実は今日は6:30からもう一人、日本人であるKazが加わって、三人で日本食レストランに行く予定になっていた。KazからMiに電話が有って、彼がスター・バックスにやって来るまで待つ事になった。 ・3人が集まった所で相談をした結果、自分の車一台で出かける事になった。場所はトーランスにある「珠手箱」と言う日本料理店に行くことにした。少し高い店だったが、Meiも賛成してくれた。トーランスはトヨタ等の日本企業が多く集まっている所で日本人が多く、従って、日本にいる時と全く同じ経験ができる店がいくつかあるのだった。珠手箱には以前、行ったことがあるので、カーナビから店のアドレスを呼び出してセットする。後はカーナビの指示に従って走っていけば良い筈だった。 ・所が走りだした時には既に真っ暗だったし、その上、激しい雨が降ってきた。LAの高速道路は網の目のように道路が走っているのは良いのだが、それだけにICが数多く有ってしかも夕方過ぎということで車のラッシュ状態だった。車が中々前に進まなかったりするので、車線変更を繰り返した。所が雨で後ろの確認がし難かったこともあり、自分はまだLAの高速道路に充分に慣れていないことを思い知らされた。二回ばかり無理な割り込みをしてしまったが、それは本当に危ない所だった。相手の運転手が怒り狂って、そしてそれを示すために自分の車を追い無理に越していく、そして自分の前にいきなり割り込んできたのだった。相当、腹を立てたのだろう、ごめんな! 昼間、Miに教官気取りで、運転の指導をしたのが恥ずかしい位だった。彼女も少し不安を感じたらしい気配がした。 ・確かに今回は自分の方が悪かったと思ったし、事故にならなかったことを感謝した位だった。しかし、日本と比べるとアメリカ人の運転マナーは素晴らしい位に良い。無理な割り込みなど殆どされた経験がない。また、こうして車の中から観察した限りでは、交通ルールも良く守る様な気がする。しかし、その話を聞いたKAZは決してそんなことはないと言う。アメリカでは、車線変更をする時もウィンカーを出さない車が多いと言う話をしていた。兎に角、車線変更の時は、日本にいる時以上に慎重にやろうと思った。 ・その途端、カーナビが目の前のICで降りろと言う。このカーナビは動作が遅く、ディレーが大きいので車が通り過ぎてから指示を出すことがある。普通はLAの高速道は、ICで降りる車線は相当手前から専用車線が決まっているのだが、そうではない所もあるのだ。いきなり支持された場合、咄嗟にステアリングを切る事は禁物だった。にも、関わらず、時速100kmでいきなりコースを変えてしまい、アワやと言う思いをしてしまった。今回のアメリカ旅行では、都合4回も危険な目にあったのだが、その内の2回をここで経験してしまった。 ・珠手箱の料理は良かったし、ディナーは盛り上がった。とても楽しい時間を過ごす事が出来た。料理はインゲンのガーリック炒め、すき焼き風鍋、クリーム・コロッケだった。Miはすき焼きの肉を全く食べなかったが、また、自分には濃すぎると思った味付けなのに、味が薄いと言って醤油と七味を掛けて食べていた。珠手箱の料金は3人で$92だった。(割り勘だったが) ・夜遅く二人を送ってから自分のモーテルに帰った。冬時間になっているので、1時間も時計の進み具合が早い気がする。まだ夜の11時前だという気がするのに、もう実は12時と言うのは本当なのか! 途中でウイスキーを$8.77で買って帰った。 トーランスの珠手箱(日本料理屋) 11月13日(土) YRと休日 ・今日は久し振りに会いたいと思っていたYRに会う日だった。汚い車で出かけるのは嫌だったので、久しぶりに洗車をしようと思って、インターネットで近くに安い洗車場を探した。近くのPIKO Drに$6で洗車出来る処を見つけ出掛けた。驚いた事に洗車場の敷地の中で、別の競争相手の洗車業者が6人のアルバイトらしき人物(全員黒人だったが)を使って、プラカード姿で行ったり来たり歩かせていたことだった。露骨過ぎないかと思ったが、中の一人の男にカメラを向けると右手を挙げてガッツ・ポーズを取ってくれた。気楽で明るくていいよな。 ・昼前に約束の時間12時の15分前にUCLAの駐車場に入った。しかしながら、駐車場の機械の扱い方が全く理解できなかった。後から来た人に聞いても良く分からなかった。結局、分かった事は、初めに駐車する時間を自分で決めてセットしてから、その分の料金をカードで支払うと云うことだった。機械の表示通りにやれば、特に問題はなかったのだ。 ・日本だったら、前金で支払うと云う話は聞いたことが無かったので、少しまごついたのだった。料金は一日コースで、$10で1時間では$3だった。それでも中には踏み倒していくのがいるのだろう。繰り返して言うが、アメリカ人は一般的に言って、日本人よりも公共のルールをはるかに良く守るといって良い。誰が見ていなくても、決められたルール(ここでは料金)はキチンと払うようである。何故ならば、支払わなかった事が見つかると、後で大きな問題になるからだろう。しかしながら、クラス社会なのでホームレスの様な人達も沢山いるのである。彼らの数は日本よりははるかに多い。 洗車場で競争相手のプラカードを掲げる明るいお兄さん そして、特にその様な人達であると断言は出来ないが、数ドルの為に機械を壊したり、平気で人を襲って金を巻き上げる様な人達も沢山いるということだと思う。だからこの様に機械でさえ前金を要求してくるのだ。日本と比較すると、いざという時の対応がチャント考えられているのだ。それに比べると、日本は比較的安心であるがゆえ、いざという時の準備が機械の造りも、人の心構えも あまりできているとは言い難い。 UCLAキャンパス通り UCLAキャンパスの中 ・校内のアッカーマン(生協)の前でYRと待ち合わせしていたのだが、約束に少し遅れてしまった。駐車場の機械のせいだった。彼女が数日後にLAを離れてニューヨークへ行くということなので、思い出の詰まったUCLAの構内の写真を撮りたいという。そこで図書館やら食堂やらアチコチを二人で歩きながら、彼女が色々な風景の写真を撮っていた。 ・気がつくと1時をかなり過ぎていて腹も減ってきた。本当はチャンとした所で食べたかったのだが、時間もないのでカフェテリアに行く。ここでのメイン・ディッシュはハンバーガーとコカ・コーラである。それも日本のようなスモール・サイズではなく、どれもがかなり大きい。アメリカのハンバーグはマックでも他の店でもそうであるが、売っているものは日本とは随分違っている。日本のものは薄いアッサリした味のハンバーグが挟んであるが、アメリカのハンバーガーは肉厚のジューシーな本物のハンバーグが挟まれているのだ。だから、食いつこうとしても厚みが5cm以上あるので、行儀よく食べることが難しい。もちろん、一個食べれば昼食としては、食べ過ぎなくらいである。YRは半分くらい残していた。 ・昼食を食べていたら、2時間を廻っていたのだが、駐車場を出る時は1時間分の料金で済んでしまい、機械から追加料金を請求されることもなかった。この辺の設定の仕方が日本と違って鷹揚で面白い所だと思う。その代わり、意識的に料金を踏み倒そうとすると、例え数ドルでも逮捕されてしまいそうである。(そんな時でも、暴れたりすることなしに加算された罰金を支払えば、即座に無罪放免になるのだと思うが。) UCLAキャンパスの学生食堂 ・YRは2ヶ月もLAに住んでいるのに、まだ何処も行ったことがないという。そこで、まずロデオ・ドライブに行く。日本で言うと、銀座か、六本木のような所だ。街の中心部にあるCity of Beverly Hillsという駐車場に車を止めて1.75$/Hour を払う。銀座では考えられない安さだ。それから街中を行ったり来たり散歩する。広い道路に並んでいるヨーロッパを模した建物には、高級なショップやレストランが立ち並んでいる。しかし、土曜日だというのに、驚く程、人通りが少なくとても閑散としていて寂しい限りである。YRは買い物にはあまり関心がないというので、JJで有名になったHotelに行き、二人でトイレを借りた。洗面所には勿体無い豪華さだった。ホテルを出てから、ホテルをバックに記念の写真を二人で撮ってもらった。他に見る所も見当たらないので、ここはお仕舞いにする。 LAのロデオ・ドライブ ステイプルの玄関前で写真を撮るYRを撮る ・次はやはりYRの希望でダウン・タウンにあるSteplに行くことになった。そこで計画としては、ダウン・タウンでSteplに行ってから、有名な街中のサンセット・ドライブを通って、ハリウッドを抜け、映画で有名になった曲がりくねったサンセット・ドライブを通ってシー・サイドへ出てから、今度は海沿いにサンタ・モニカまでドライブして、そこで夕飯を食う事に決めた。 ・所がGPSの使い方に慣れていなかった事も有って道路が良く分からない。GPSに目的地を入れると、時間か距離の最短コースを標示してくる。自分のように遠回りをして走る為の道順を示してくれないのだ。アメリカのGPSは、日本では普通にある様な地図が出てこない。ただ、右へ行けとか左へ行けと指示してくだけである。従って、行き先の通の名前かアドレスを知らない所では、行き先の場所をセット出来ない。そこで、手動でいちいち地図を見ながら少しずつ目的地の少し先の場所をセットしていくのだが、サンセット・ドライブは環状道路なので、やりにくいことこの上ない。 ・Steplの駐車場はフリーだったが、イベントもなくただお土産屋があるだけ。ここにも人も殆ど居なかった。 ・例外的に人が溢れていたのは、ウェスト・ハリウッドで道路も大渋滞だった。しかし、YRは先週ここにミュージカルを見に来たらしい。それ以外は観光客だけの人混みは、あまり見たくないということだったので車を止めずにそのまま通過する。 ・そんなこんなで道を何回も間違えてしまい、挙げ句の果てまだ6時だというのに辺りは真っ暗になってしまい、細かな文字で書いて有る地図を読むことができなくなった。しかもYRがトイレに行きたいと言うので、近くにGSの有る所をGPSで探し出した。自分がガソリンを入れている間に、YRが一人でオフィスのトイレを借りに行ったが直ぐに戻ってきた。トイレに鍵が掛かっているという。そうなのだ。忘れていたが、アメリカではトイレを使う場合は、必ず係の人から鍵を借りて行く必要があるのだ。しかも、スペースが充分あるためなのか、必ず男女別にトイレがある。そこで二人で中に入って用を済ます。 ・S.モニカを目指して出発した。ところが途中で道を間違えてしまい、S.ドライブではなくユニバーサル・スタディオの方角に進んでしまった。時間も大分過ぎていたこともあり、ドライブを断念して高速道路に入ることにした。 ・高速道路は相変わらずICがめまぐるしく出現する上、辺りは真っ暗だったので道が良く分からない。間違った方角に行ってしまったので、次のICで降りて乗り直しまた同じ所に戻ってきた。所が同じICで再び間違ってしまい、同じ方向へ行きそうになってしまった。あいにく、後ろから高速車が追い抜きを掛けてきた所だったのだが、やり過ごしている内に通りすぎてしまいそうになった。そこで急ハンドルで元に戻ったのだった。そこでYRが一言。「ケンさんは結構無理な事をするのね!」 これが今回の旅行中で経験した3回目の危険であった。やはり、アメリカの道路は、まだ十分に慣れていない。事故を起こさないで本当に良かったと思う。一方で、真っ暗な高速道を走るためには、GPSは必須である。それも日本のような高級な地図付きのものではなく、シンプルな指 YR 示(右行け or 左行け)のみのアメリカ製が必須であると思った。 ・サンタ・モニカでは市営の駐車場が一杯だった。何とかホテルの駐車場に入れることができたのだが、料金は高く$10だった。街の中を二人で行ったり来たりしながら、レストランを探した。丁度、アジアン系のブッダという店が良さそうだったので、そこに決めて中に入る。順番待ちの行列ができていた。中は結構広いスペースだったが、人でごった返していた。テーブルとテーブルの隙間が狭く、人がやっと通れるくらいぎっしり並べてある。そしてどの席も一杯だった。 ・LAやS.シスコ、そしてパルアルト等で、今一番人気の先端はこうしたアジアン系のレストランである。と言っても中華料理ではない。日本=和食系でもない。ただし、ヤキソバはこの様な店では何処でも、最近人気が高い様である。見た処ではどちらかと言うと、バリ風とベトナム風の雰囲気で、結果としてアメリカのニュー創作料理であり、味はメキシコ系が加わった感じである。兎に角、辛い、ショッパイ、そしてやはり本場のアジアン系料理と比べると、格段に脂っこいのが難点である。 ・我々はサラダ、ヤキソバ風、サーモン・ステーキを1皿づつと、アルコールを頼んだ。(もちろん、はじめの一杯だけ。)しかし、1皿を二人で食べても食べきれず、結局、全ての皿で食べ残してしまった。料金は二人で$37.15だった。(割り勘だった) ・夜、YRを家まで送っていく。自分のハーフ・ムーン・モーテルに帰った時は、既に12時近かった。今日は自分の若い時を思い出させるような、とても楽しい一日だと思った。 11月14日(日) Rose Café & Party@Taka’s House ・今日は今となっては既に懐かしいクラス・メート達がランチに招待してくれた。メンバーとは、YO、MINA、YUKI、YU-KIと自分の5名で、場所はRose StreetにあるRose Caféという所だった。 ・Venis stを西にまっすぐに進んでいくとS.Monicaビーチの横を通っているR1に出るのだが、その海岸通を北に右折して少し走るとRose Streetに出る。その角の所に大きな駐車場があって、一角にRose Caféがあった。 ・店の中は普通のカフェと変わらないが、周囲が背の高い生垣で囲われた大きな庭があり、そこにテーブルと椅子が沢山並べられている。テーブルも椅子もプラスティック製でどういうこともないのだが、実際に座ってみるととても居心地が良い。明るい日差しの中で、日陰を通って伝わってくる風がひんやりしてとても気持が良い。こんなに気分が良いところがあるのに、屋根や壁に囲まれた室内に入りたいという人のいる気が知れない。ここはS.Monicaに住んでいるというYukiの行きつけの店チウだけのことはあると思った。 ・料理はサラダを中心にした大皿料理を一皿と、その他に各人が好みの物を一品ずつ頼んだ。お勧めはベジタブル入のオムレツ。話をしながら、皆で写真をたくさん撮った。 ・店を出てからS.Monicaの中心街に行く。2時間無料の駐車場が何箇所かあることを知ったのはこの時だった。 ・今夜は高さんの部屋で10人位人が集まってパーティをやるので、それに参加することになっていた。集まるのが夜なので、多分、食べるものが有ると思う。7時頃になって家を出たのだが、午後の遅い昼食を食べた後なので全く腹が減らない。そこでampmで寿司弁当とオニギリを買って持っていくことにした。 サンタ・モニカのローズ・カフェでランチ ・ampmの駐車場でカーナビをセットしたが、考えてみたらクロスする通を知っているだけで、家の番地(番号)が分からなかった。しかし、近くに行ってみると、道路にMeiが立っていて、隣に金髪の大柄な女性がいた。彼女を紹介してもらったが、ロシア人で名前をOLGと云った。彼女達は、乗せてきてもらった車が道路脇に幅寄せするのを見ていたのだった。車の中には知った顔があった。 ・宴会はコリアの男性が2人、コリアの女性が1人、台湾女性1人、高、Mi、Kaz、Kor、自分の9人で始まった。集まった連中は、全く不自由なしに自由に英語を喋る。中でもコリアの男性二人は年齢が27歳と32歳でナイス・ガイであったが、とても良く喋る男だった。2人で全員の殆ど半分位の会話を占めていた。今は大学に通っているらしいが、つい最近までUCLAの語学コースにいたと云うことだった。 ・Face Bookを見て後から分かったことであるが、UCLAの語学コースにいる自分の友人であるMnとは以前、同じクラスだったということで仲が良いらしい。「友達の友達は友達である」とは、良く云ったものだ。Face Bookをやっていると、こうやって段々とリアルに人と人が繋がっていくのが形として見えてくる。 ・料理は女性陣が大分前から来ていて作ってくれたというヤキソバだった。自分は帰りに車を運転しなければならず、アルコールは飲めなかった。アメリカでの夜の最大の欠点がここにあると思った。しかし、ここに集まって来る連中の目的は、もちろん食べることではない。互いに友人を紹介し合いながら、コミュニティの輪を意識的に広げて行こうことと、いろいろな情報を知りたがっているようだった。 ・自分は旅行で短期間アメリカに来ているだけであったが、それでも彼らの気持が痛いほど感じられた。何故なら、ほんの数カ月ここに暮らしているだけでも、寂しくてしょうがないのだ。ましてや授業が英語で行われるのはもちろん、英語の議論に参加し、沢山の宿題を出されてそれを期限までに参考書として読まなければならない。更に学期に二本のエッセイも書かなければならないのだ。更には卒業後の資格が自国に帰ってから評価されるという保証もない。就職もうまく出来るかどうか分からない。ヨーロッパから来た連中はともかく、アジア系の連中には精神的にかなり強いストレスが溜まるという。特に大学でのキャリアが、自国で通用するかどうかわからないので、卒業後にアメリカで就職してしまうと余計に帰国する機会を見極めることが悩みのタネになるらしい。アメリカでこのままずっと暮らしていくという選択肢が有力候補になってくるという理由もよくわかる。 ・しかし、それにしても彼らを見ていると、中国人や韓国人のバイタリティの強さには本当に感心してしまう。語学スクールには日本人、特に女性を沢山見掛けることができるが、大学生となると日本人の数が彼らと逆転してしまうのだ。これは日本人がグローバルに戦っていくことに関しては、かなりの苦戦が予想される出来事であるに違いないと思う。何しろその位、日本人と彼らアジア系の学生では、発言力の大きさに差があるのである。これからの日本は、外国に学ぶというよりも外国に対して主張しリーダーシップを取っていく必要があると思うと、尚更寂しさが募ってくる。 高さんの部屋に集まった若者達 11月15日(月) Mn&YK2に招待され語学学校を訪問、後Miに会う ・午前中はMnとYk2に誘われて、Benのクラスに飛び入りで参加した。と言っても授業は映画鑑賞だけで、鑑賞後の議論は次回にやるという。従って、殆ど黙ったまま映画を見ているだけであった。それにクラスの半分以上は自分が知らない学生達だった。逆に言うと半分位は知った顔だったが。このクラスは上級だということで、自分が先月、所属していた初級コースよりはレベルが何となく高そうである。Benとは最後に数分間、話ができただけであった。 ・午前中の授業が終わると、MnとYk2が昼食に招待してくれた。ウェスト・ウッドでは人気が上昇中のアジアン系の洒落たカフェで、殆ど日本で食べるのと同じレベルの寿司を食べる事ができる。店内の雰囲気もアジア系で、とても落ち着く内装だった。この場所で、3人で同じ寿司を食べながら、話が弾んだのだった。 ・しかし、ウッカリしてしまい彼らには午後の授業があり、ゆっくりとしていることは出来なかった事を忘れていたのだった。気が付いてみたら既に、午後1時を大分過ぎていたので、早々に再び何処かで会うことを約束して、二人に別れを告げた。 ・そして考えてみたら、自分も今日は午後2時にMiと、彼女が通う大学で待ち合わせをしていたのだった。と言っても、実は彼女が大学を代わる手続きの最終日が今日の午後4時だということで、自分が足の役を頼まれていたのだった。高速道を使えば、30分位で学校に着けそうだった。カーナビをセットする事が、面倒だったのでそのまま頭の中にある地図を頼りに出発した。 ・しかしながら、途中で降りるICを間違えてしまい道に迷ってしまった。そしてついに、自分が今、何処に居るのかさえ分からなくなってしまった。そこで、当然、カーナビを取り出して、大学のある通りを地図で調べて、クロス・ストリートをインプットする。後はカーナビの指示の通り行けば良い筈だった。 ・大学に着いてみたら時計は午後の2時を少し廻った所だった。ここは殆ど学生が見当たらないガラーンとした所であった。そういえば何処で待ち合わせするかを決めていなかったことを思い出した。携帯で電話をしても、電波が通らない所にいるらしい。事務所のような所を探して、若い女性の事務員に彼女の所属を調べて教えてもらい、ついでに電話も掛けて貰った。 ・MiとS.Monica大学に着いたのは3時頃だった。この学校はさっきの所とは大分、雰囲気が違っており、キャンパスに学生が大勢溢れかえっていた。何人もの学生に道を聞きながら、やっと編入の手続きを行う建物を見つけることができた。 ・夕方はMiとチョット感じの良いカフェに行く。二人で一人分のチョコレート・クレープを分けながら食べいろいろな話をした。二人の間には大きな年齢の差があったが、クラス・メートまたはルーム・メートの関係ということもあり、勘定は割り勘にする。二人で$11.47だった。 ・今夜は再び、Half Moon Motelに泊り、料金は$53.76を支払う。明日は待望のデス・バレーに向けて朝早くに出発する予定だった。 Mi @ カフェ 11月16日(火) デス・バレーに出発 ・朝、いつもよりも少し早くLAの常宿にしていたサーフ・モーテルを出た。サポタブル通りとピコ・ストリートの角にあるGSでいつものようにガソリンを$20分入れ、ついでに備え付けてあったスポンジで窓も綺麗に拭いた。そして、もうおなじみになってしまったRoute 1に乗る。ただし、今回はいつもと違って、途中からRoute 405入りそして更にRoute 14を使って北東の方向に舵をとった。この道Route 14は初めて通る高速道であったが、LAの周囲を通っている他の道路と大きな違いはなかった。ただ、他の道路より走っている車の数が随分少ないように感じられる割には、不釣合なくらい道路の車線の数が多い。広い道路が果てしなく荒れ果てた荒野の上を通っている。この様な眺めを見て改めて思うことは、南カリフォルニアは砂漠地帯で有るということである。LAは砂漠の上に人工的に作られた街だという実感がある。Route 14は途中からMojaveという町まで真っ直ぐ北上しているが、その町から先は全くの荒野に向かって伸びている様だった。 ・Mojaveという町は全くの田舎町であまり活気があるようには見えなかった。マクドナルドはなかったが、何処にでもあるようなファスト・フードの店が有ったので、トイレ休憩を兼ねて中に入った。コカ・コーラを飲みながら地図を確認すると、やはりこの先は周囲には何もない荒野の様だった。道路は舗装されていてとても良い感じであったが、もちろん片側一車線であった。しかしながら、こんな道でも、通過していく車が結構沢山走っていることに逆に驚きを感じてしまう。 ・そんな道を暫く行くと全くの荒野の中に、何の目印もなかったのだが右手に分かれる分岐点があった。恐らくそこがRoute178に入る近道だと思って迷わず右折した。この田舎道は本当に原野の中を通っていた。周囲に人の気配は全くなく、もちろん家などの人工的なものは全く見当たらなかった。車の陰は後ろにも前にも全く見当たらない。見渡す限りの広大なスペースを、自分が独り占めしているということは、全く心細い感じである。しばらくはガソリン・スタンドもないだろうし、第一、このままずっとこんな様子が続いたら、今日の夕食やベッドだって有るかどうか分からないではないか。そんな事を考えていると、段々、不安になってくる。 ・道路の状態もとても良いとは言い難いもので、ガタガタしているだけではなく、上下に小さくうねっているようだった。所々、砂が積もっている所もあった。もちろん、ガードレール等の境界を示すものはないが、下手をして道路脇に車を止めようものなら、以前、オレゴンの山道で経験したように、タイヤが砂地に潜ってしまうのではないかと云う不安も頭をかすめた。荒野の所々には、真っ白い砂地様な物が見えてとても綺麗な感じだった。 デス・バレー近くの道1 ・しばらく、英語の学習のCDを聞きながら走っていると、なにやら人家のようなものが見える所に出た。地図を見るとSaltdaleという町らしい。メイン・ストリートに出ると、家がそれでも7、8軒並んでいた。しかしながら、どの家にも人の気配が全くなく、荒れ果てた町の様に見えた。家は全て木造で、半分壊れかかったような粗末なモノばかりだった。こんな所まで来て人に会ったら、懐かしいと言うよりは逆に怖いのではないかと想像してしまう。 ・所がほぼ町の中央に、西部劇に出てくるようなバーらしき店があって、中から人の声が聞こえてきた。店の前にはオートバイが2台並べて置いてあった。まだ昼飯を食べていなかったので、もしかしたら何か食べるものがあるかも知れないから、様子を見ようと思って中に入った。するとカウンターの中に、想像していたより若くて元気な女性(40歳位)がいたので思わず挨拶を交わした。店の中にはカウンターの他に、小さなテーブルが幾つか有った。しかし、そのテーブルは昔、日本のゲーム・センターでよく見かけたものと同じで、ゲーム機がついているものだったので、少しイメージが壊されたような気がした。そんなテーブルの一つに、革ジャンと川のズボンで身を包んだガッシリとした中年の男性が、二人向い合って何かを食べているようだった。外から聞こえていたのは、この二人の話し声だった。 ・自分はハンバーガーとコカ・コーラを注文した。ハンバーガーの焼き具合と、それに付け合せは何が良いかと聞くので、何があるかと聞くと、ポテトと何とかがあると云ったので、ミディアム焼きとポテトを頼んだ。すると出てきたのは、ポテトチップスの小さな小袋であった。しかしながら、ハンバーガーはマクドナルドで出てくる様な不味いものではなく、本格的な厚いハンバーグであった。上下に乗っかっているパンは、ハンバーグより随分薄いもで、コレこそ付け合せのような感じだった。ハンバーガーはとても美味かった。ポテトチップスは普通のポテトチップスだった。これで、全部で$15だった。 ・二人のオッサンと何かを話したかったが、仲の良さそうな二人連れはまもなく外に出てしまい、結局、この家の中には人が二人しかいないのではないかという気になってしまう。彼女とは色々話をしたが、個人的なことは聞くことが出来ず、当り障りのない話で終始した。所々に見える真っ白い砂地は、実は塩の固まったものであることが分かった。 ・更に進んでいくとRoute395に出た。そこを少し行くと分岐点があり、そこにはハッキリとRoute178の標識があった。実はここがデス・バレーへの本格的な入り口だったのだ。Route178はデス・バレーの中を走っている幾つか有る観光者の多い道路である。完璧に舗装された素晴らしい道路で、通る車の数こそ少ないが全く不安を感じさせる様な道ではなかった。ただ、両側に見える景色だけが、山と荒野と砂地の様な何もない原野であった。 デス・バレーへの道2 ・空には雲もなく晴れ渡った空に、11月だというのに熱い太陽がギラついていた。日を浴びるととても熱く感じるのだが、空気が冷たく冷えているのでとても爽やかな感じである。空気はとてつもなく乾燥しているようだった。少しくらい歩きまわっても、全く汗をかかずとても水さえ持っていれば、とても快適な散歩が楽しめる感じがした。 ・しばらく走るとダート・コースに入る道があった。地図を見ると、少し遠回りになるが点線であるが、地図にも載っている道のようだったので、行って見ることにした。ダート・コースなので自分が走った後に、凄まじいホコリが立つ。道路は思ったよりデコボコで、車を他に見掛けるような予想は全く出来なかった。しかも曲がりくねっているので、まもなく方向感覚が全く分からなくなってしまった。 ・景色は遠くから見ると砂漠であるが、砂漠のまっただ中にいると大きな巨石が転がっていたり、丘があったり谷があったりして変化にとんでいる。もしもここで戦いがあったらば、隠れて待ち伏せすることは容易である。チョット岩陰に身を潜めれば、周囲からはなにも見えない。もしかしたら次の大きな岩の陰で、裸の男女が抱き合って寝ているかもしれないなどと想像してしまう。 ・夕暮れが近づいてきたので、あまりゆっくりせずにひたすら同じような景色を見ながら走り続けた。自分でも何が楽しいのか良く分からないが、日本では経験することが出来ない程、ワイルドであるが一人きりの寂しいドライブであることは確かだった。 ・こんな調子ではしりつづけているとRoute190に出た。舗装された立派な道路である。R190を走っていると、Xanterraと書かれた大きな牧場の宿舎のような、外観が木造建てのモーテルがあった。まだ、時間が早いのだろうか駐車スペースにあまり車が止まっていない。数台の大型のキャンピング・カーが止まっている場所があったので、近づいていくと車の中からがっしりした男性が丁度出てくるところだった。 ・話を聞くと、彼はカナダ人で仕事を退職した後、奥さんと二人でこうしてもう4ヶ月近くドライブ旅行をしているという。途中から奥さんも加わって、話が弾んだ。多分、長い旅行を続けていると、お互いに人恋しくなるのではないかと思う。 ・このモーテルがある場所は、ストーブパイプ・ウェールズ・ランチという。この近くで物が買える貴重な場所らしいが、買えるものは缶詰にボトルの水等のみで、本当に小さな売店と言った感じである。 デス・バレーへの道3 ・このモーテルのフロントに置いてあった案内によると、この付近での気温は今の季節が凌ぎやすくとても爽やかであるが、通常は相当な熱さらしい。昨日の最高気温は75度Fで最低気温は42度Fということだった。それがこの近くの標高がマイナスとなるファーナス・クリークでは、同じく最高気温が89度Fで最低気温は56度Fということだった。僅かな距離の違いで温度が7度Cも違うのだった。もちろんコレは標高差によるもので、ファーナス・クリークは標高がマイナスなのである。温度がドンドン上がる所が面白いと思った。 ・ファーナス・クリークでは、今年の7月15日に今年の最高温度を記録したらしい。気温が52度Cまで上昇したらしい。一方、今年の最低気温は1月15日に記録したマイナス2度Cということだった。11月の現在でも、シェラネバダに向かう道路は既に雪で閉鎖されているとのことだった。 ・デス・バレーにおける見所の一つはサンセットとサンライズの空の色ということだった。アメリカ人はキリスト教徒が多いので、日本人のように日の出は見ないのかと思いきや、太陽を拝むのではなくその何とも言えない美しさに酔いしれるらしい。日本では空が赤く染まれば染まる程、喜ばれるがここではソフトな7色のグラディーションの変化を楽しむのが正しい鑑賞法とのことだった。 ・フロントで聞くと、この近くにはモーテルは他にない様だった。小奇麗な、所謂、アメリカを旅行する普通の人が宿泊する施設であろうと思うが、料金は$90で自分としては少し高い感じがした。しかし、部屋の中に入ってみると、実にシンプルでキチンとしていたし、毛布もベッドも十分に清潔な感じだったので納得出来る価格だと思った。 ・食事は体育館の様に広いスペースの中に、がっしりしたアンティークなテーブルが20個位並べてある食堂で食べる。食べ物は、ここと売店で売っているものの他は何処に行っても手に入れることができない、陸の孤島である。食事そのものは、特に印象に残るようなものではなかったが。 デス・バレーには人工物は見渡す限り本当に何もなかった 11月17日(水) デスバレー・ドライブ ・Route190は観光道路であった。周囲の景色は雄大な砂漠出であったが、道路自体はよく手入れがされていて、とても快適に走る事ができる。ただし、日本の観光地のように、何人かの人が買い物をしているような売店があったり、物売りの旗やドギツイ看板があったりするようなことは全くない。目に入るのは、何が変化することもなく横たわっている雄大な景色、何処までも続くコンクリートの道路、時折、遠くの方を走っているのが見える車の陰、それだけである。空にはもう何日も雲を見ていない。真っ青な空。他には静けさ以外は何もない。 ・しばらく行くと観光ポイントを示す看板があり、既に何台もの車が駐車場に泊っている所があった。早速、車を止めて降りてみると、目の前に一面が真っ白い砂に覆われた映画のシーンに出てくるような光景が広がっていた。見渡す限りと言う訳ではなく、限定された地域においては正に典型的な砂漠のイメージそのものであった。しばらく砂の上を歩いて見た。部分的に見れば、海岸で見掛ける砂浜に似ている。しかし、はるかに広範囲に広がっているので、風紋が小高い丘の上に幾つも続いていて素晴らしい風景である。 ・この道路の周辺には幾つかの歴史的な遺物や観光地としての見所があり、そこには必ず大きなディスプレイに詳細な説明文が書かれている。もちろん売店や休憩する場所はないのだが、大きな駐車場とトイレだけはチャント整備されている。大学生らしい大勢の一団が、バスでやって来て、先輩らしい学生に説明を受けていることもあった。歴史の浅いアメリカではこの様な遺跡は貴重な存在なのだと思うが、きちんと残されている。ただし、当然のように、荒野のまっただ中なので、管理者の姿は全く見えない。それでも誰も荒らす者や落書きをするような人がいるという感じは全くしなかった。 砂に覆われた砂漠状の所は少ない がたまに見つけることができる 歴史的な観光スポットの一つ ・途中から再びRoute178に入った。Route190との分岐点の名前は、ファーナス・クリークといい、デス・バレーでは最大の町出ある。と言ってもいえは数件有るだけであるが、チャンとビジター・センターや売店がある。 ・ここからは南下していくルートになっている。今、自分がいる地点は、標高がゼロメートル地帯なのであるが、車のアクセルを全く踏まないのに、車の速度がドンドン加速していく事がわかる。道路は殆ど水平に見えるのに、そして、この先には何もこれといったものがない真っ直ぐな道路なのに、何かの力によってズルズルと地底に吸い込まれて行くような、全く不思議な体験だった。実は、標高が更にドンドン下がっているのである。 ・標高が最低の場所ではマイナス90メートル以上有るらしい。ここはBadwater Basinというポイントである。下から崖の上を見上げるとほぼ中腹位の所に「Sea level」と書かれたサインがあった。その場所は観光名所になっていて、付近は白い塩の様な湖が広がっている。近くによってみると、やはり塩の塊で表面は固くツルツルになっていた。大勢の人達がその上を歩きまわって、互いに写真を取り合っている。自分も記念に写真を撮ってもらったのだが、他に何もすることがない観光地なのでそそくさと出発した。 バッド・ウォーター・リゾート 90m頭上にSea Levelの表示がある バッド・ウォーターの塩田状の塩の道 ・ここから僅か数キロ南下すると、今度はドンドン土地がせり上がっていき、標高3367mの山が目の前に広がる。しかしこの山の下の所を通り過ぎてしまうと、やがてRoute127に出てしまった。車を走らせている間は、この家が一軒も見当たらない荒野が永遠に何処までも続くのではないかと思うくらい延々と続くのであるが、それも終わってしまえばあっという間の事だったような気もして来る。そう感じたのはRoute127に出るといきなりShoshoneという小さな村があって、そこには通常の人々の暮らしが有るのを見たからである。 ・丁度、お腹もすいてきたので、一軒のカフェに入った。中はかなり広くカウンターとテーブル席が幾つか並んでいたが、客は誰も居なかった。ここで、いつもの様にハンバーガーとコーラを注文する。ハンバーガーの焼き方はミディアムにして貰う。自分にはチョットエアコンが効きすぎて寒かったので、入り口のドアの両側の外に3つ有った大きなテーブルに移動した。外は、気温は高いのだろうが、湿度が低いので日陰にいるととても気分が良い。少なくともエアコンの効き過ぎた暗い部屋の仲にいるよりは、ずっと気持が良い。後から二組の客が来たが、彼らも外に出ているテーブルに出てきた。 ・従って、自分は自然に彼らと話をすることになった。話といっても、たわいない話題しか無いのだが、一日中一人きりで運転していると、この様な時間がとても貴重なもののように思えてしまう。実際に話しができることが、なぜかとても嬉しく感じられる。 ・そう言えば、先回のカリフォルニア旅行で温泉を探し歩いている時に知り合った若者が、自分が今までに行った温泉の中ではTecopaが一番だったと話していたことを思い出した。そのTecopaは地図で見るとここからわずか12,3kmの距離にあった。そこで彼らに温泉の話をしてみたが、温泉のことは知っていたがあまり関心は無い様だった。しかし、場所は丁寧に教えてくれた。 ・カフェでトイレを済ましてから出かけることにした。このトイレというのは、店の外の建物の横に有るのだが、木製の冊と同じ材質で作られたもので、荒々しく、古ぼけていて、安っぽくて、素朴なものだった。そのドアを開けると、中に家畜小屋の様に大きなトイレ室があった。しかもドアはカギが壊れていて、チャンと閉まらないのだった。一体、ここで働いている娘さん達はどうしているのだろうか? 家の中に別の自分達専用のトイレがあるのか? バッド・ウォーターをバックに記念写真 ・Tecopaという町について見ると、ここは西部劇に出てくるような寂れた所だった。家がポツンポツンと何軒か見えるのだが、それでも土の家の前にも数台の車が泊っているので、チャンと人が住んでいるのだろう。車は全て古ぼけた奴ばかりだった。お目当ての温泉場は直ぐに見つかった。しかし、どうにも自分がイメージしていたものとは合わないので、何となく入っていく勇気が出ない。というよりも、期待感やワクワク感が湧いてこないのだ。そこで、周囲の写真を撮っただけで、中に入ることは止めておくことにした。 ・今日の宿泊はRoute15の終点、すなわちRoute15にぶつかったBakerという町で見つけることにした。何故ならば、明日はいよいよラスベガスに行くので、距離的にはその辺りが丁度良買ったからである。 Tecopa温泉のある場所だが周囲は全くの荒野1 Tecopa温泉のある場所だが周囲は全くの荒野2 ・Bakerもあまり元気な街ではなかった。この街の南側一体は “Mojave National Preserve” と言って、国立の保存地域なのであるが、別に特にどうということのない砂漠のような原野が続いているだけで、要するになにもない所だった。Route15に沿って、タコベルとか何処にでもあるフランチャイズの名前だけは有名なレストランが数軒有るだけである。それもありふれているだけと言うよりは、店の中がただ広いだけで客の人影が少ないために、とても寂しい感じがするのだ。物を売っている店も、日本の田舎にある様な萬屋のような店しか見当たらない。中に入ってみると、ポテトチップスの袋のようなものしか売っていない。 ・モーテルは数軒有ったのだが人影が見当たらない寂しいところばかりなので、中でも一番きれいな建物を選んでそこに決めた。他の所と比較する気にもならなかったが、値段は税込で$58だった。 ・シャワーを浴びた後、夕食はタコベルのテイク・アウト、萬屋でポテトチップスとビールを購入してモーテルで食べることにした。モーテルは1階建ての棟が長く続いている建物であるが、どうみても今夜の宿泊客は自分だけのようである。従って、窓を開け放して寝ていても、何も盗まれる心配はないように思われた。 ・ビールをいい加減飲んでから気がついたのだが、このモーテルではWifiが出来る場所が限定されていて、受付の横のスペースだけであった。そこで、寂しいこともあって、ずっとその場所で、一人で日本の友人達も含めて、思い出す限りの人達にメールを送ったのだった。アメリカに来てこの様な気持ちには何度か襲われたことがあったが、今回の旅行で気がついた事は、一番重要なことは人との繋がりだということが本当に強く実感することができた。例え、年齢が離れている自分の娘のような友人がとても大切だということが分かったのだ。それが理解できただけでも、今回の旅行は自分にとって大きな価値があるということが出来ると思う。 ・翌朝、いつもの様に朝の散歩に出かけようとしてふと自分の玄関前に止めた車を見ると、なんという事か助手席の窓が開いているではないか。急いで中を調べると、確か運転席の横にあるボックスに入れておいた筈のディジタル・カメラが見当たらない事に気がついた。誰もいない様に見えたが、やはりチャンとカモはチェックされているのだと悟った。今回の旅行では、2度もディジタル・カメラを盗まれたのである。しかも、車の中に置いておいてという、同じ失敗を繰り返したである。何処の誰に盗られたのかは分からないが、アメリカではチャンと注意をしていなければ、非常に高い確率で狙われるのだという事を、今度こそ肝に銘じて再認識させられてしまった。 11月18日(木) ラスベガスへ ・いよいよ、カーナビをラスベガスの中心地にセットして、名前だけは有名なその街に向けてBakerを出発した。Bakerからラスベガスへの道は、車線が沢山あってしかも良く手入れされた道でとても走り易かった。しかし、もどこまで走っても見えるのは砂漠地帯と言っても間違いはない荒野だった。道の両側に見える景色として、荒涼とした荒れ果てた大地が続いている。しかもカーブがほとんど無くだだっ広い道が延々と続いている。そこをただヒタスラ走り続ける。 ・そうこうする内に、前方に突如として大きなビルが現れた。恐らく見間違えること無く、キットあれがラスベガスという町だろうと思った。確かにそれはラスベガスという名前の街だった。しかし、近づいて見ると、予想に反してそれらのビル群を通り越しても、大きなビル群が延々と続くのである。自分が想像していたのは、カジノ・ホテルが20軒位あって、そこに集まる客と従業員の生活を維持するに必要な施設があって、恐らくは半径が数キロメートルに満たない小さなエリアにビルだけが固まってできている人口の街であった。しかし実際に来てみると、ラスベガスは高速道路のICの数が無数にあるあるとてつもなく大きな大都会であった。 ・コレでは何処のICで降りて良いのか全く検討がつかない。カーナビは街の中心地にセットしたのだが、そこまではまだ64kmも有った。この時は、幾らなんでもそれは信じられに事だったので、適当なICで兎に角一度降りてみようと思った。いい加減に見当をつけてICを降りたのであるが、結果としてそこはカジノで有名な街の中心地帯であった。何故、そう思ったかというと、IC近くのガス・ステーション&コンビニエンス・ストアに置いてあった観光ガイド地図を見ると、自分がいる現在位置を中心にしてこの周辺部分しか載っていなかったからである。その地図によると、観光客用と思われる電車が走っているし、有名なホテルが近くに点在しているようだった。 ・このGSでガソリンを補給し、水とホット・ドッグを買って車内で地図を見ながら食べる。さて今夜は何処に泊まろうかと思って無料のガイド・ブックを探す。ラスベガスでは有名な高級なホテルの宿泊代がとても割安で泊まれるらしい。しかし、自分は泊り慣れた何時ものモーテル・チェーンを幾つか選択して絞込んだ。3つ程、電話を掛けて料金を確認した結果、スーパー6に2泊することに決めた。ここは、料金は67ドルであったが、さすがにラスベガスだけ有って、部屋の設備は独り身には申し分がなかったし、今までの泊まってきたスーパー6よりも少し豪華な感じがした。シャワーを浴びて、コインランドリーで溜まっていた洗濯をしてから、早速、町の探検に出かけた。ここは中心街だけあって、大きなビルが林立しており様々なホテルが軒を並べていて、しかもどこでもカジノを開いているようだった。その内の一軒である大きなホテルのカジノに入ってみた。 ・だだ広いスペースの約半分が幾つかのルーレットのスペースになっていて、残りのスペースには何十台 いやそれ以上の数え切れないくらいの数の色々な種類のスロット・マシンが並んでいた。専用のコイン用の自動販売機で10ドル分のコインを買って、早速、スロット・マシンを試してみた。幾つかが当たり点数が一挙に増えるが、結局、瞬く間にTotの持ち点がゼロになった。そして、もう一度コインを購入して別の機械を試してみる。やはり、同様の経過を辿って、同じ結果になった。 ・どうも機械の調子や必要なテクニックが、イマイチ飲み込めない。と言うよりものめり込んでしまうような、ワクワク感やドキドキ感、楽しさがあまり湧いてこない。そうかと言って、ルーレットでもう少 し大きな賭けをしてみる興味や勇気も出てこない。何故、皆はカジノが好きなのか、以前、一緒に行こうと誘われていた友人が、誰も行く仲間がいなかったら、一人でも行こうかなと言っていた事が、全く信じられなかった。 ・それでも時計を見ると、かなりの時間をここで費やしたことに気がついた。意気揚々とではなく、何となく義務を果たしたような気分で外に出た。外は既に暗くなっていたが、それを弾き返すかと思えるような、ただドギツク明るいだけのネオンサインがアチコチに目に付く。しかし、何となくイメージしていたラスベガスの眩さとは何かが違って見えた。人通りは思ったより少なく、街全体の規模も小さい感じがした。自分でも良く今の気持ちを表現できないのであるが、少なくとも手元にあるディジタル・カメラで街の様子を撮影してやろうと言う気持が湧いて来なかった。 ・おそらくは、街を歩いている人は殆どが観光客で、しかもその多くは金があまりないかカジノそのものに興味が薄い、従って、この街ではあまり重要な客ではない人種なのだろうと思う。上客達は今頃、何処かのカジノで楽しくやっているか、何処かの劇場かあるいは豪華なバーで煩い夜を過ごしているのだろう。 ・町の明るさを求めて、しばらくアチコチを歩きまわって、コレと思える様な所を見つけて中に入って覗いてみた。しかし、結局、有名なホテルで行われているだろう、華やかなショーは見なかったが、ラスベガスらしいカジノの雰囲気は大体、何処も似たような感じでやはり心に描いていたラスベガスの楽しさやワクワク感が湧いて来なかった。コレは仲間と一緒ではなく、一人で訪れた事で気分がリラックスできていないことによるものだろうか。 ・大分、時間が経過した所で腹が減ってきて、まだ自分が夕食を食べていないことに気がついた。しかし、一人ということもあって、同様に一人でテーブルを占領することになる高級レストランに入る気が起きない。そこで、金をあまり持っていない観光客相手の食堂が集まっているフード・コートの様な所を探した。その様な場所は直ぐに見つかったが、料理の内容も味付けもただ空腹を満たすだけで味気ない夕食だった。 ・ホテルに帰ったが、何となく満たされない気持ちだった。そこで、フロント行き、既に二泊分の金を支払っていたのだが、一泊分をキャンセルして明日の朝、早々にここを出発することに決めた。 11月19日(金) グランド・キャニオンに向けてルート66をドライブ ・今日の予定は、できるだけ明るい内にグランド・キャニオンの入り口近くの街に行く事だけであった。そこで地図を開いて調べた所、ラスベガスから南東に100km程、真っ直ぐに伸びている国道93号を南下してキングマンまで行く事にした。キングマンでは、アメリカ大陸を東西に走る大動脈ルート40号にぶつかる筈だった。 ・ルート93は如何にもアリゾナの大地らしい荒れた荒野の中を走る道であった。しかも、昨日通ったカリフォルニアの砂漠の様な荒地とは、幾分趣が違っている様に感じた。何が違うかというと、アリゾナの方は、起伏のある丘が続いているのである。丘といっても日本のように緑に包まれた幸せな丘ではなく、行けども行けども木にも草にも覆われていない荒れ果てた土の連なりである。土地は何にも活用されることも無く、ただ無残に放置されている。その様な荒野を、ハイウェイがつら抜いていて、多くの車やトラックが疾走していく。ハイウェイと言っても、日本の高速道路のように整備された冊のある道路ではなく、ここには当然のことながらガードレールもない。当たり前だ、こんなダタ広い土地に延々と続く道路に、いちいちガードレール等建設する意味もないし、作ったところで何の効用もないのだから。 ・道の両側には家らしいものは見当たらないし、もちろん店もなければサービス・エリアのようなものもない。女性がトイレに行くとしたら次に現れるGSが頼りである。後でGoogleの航空写真でこの道路を調べてみたら、本当に砂漠の様な所が延々と続くばかりで、キングマンの街まで道路に近くには家は一軒もないように見えた。 ・キングマン自体はそれなりに大きな、街であったが隣町とは当然、孤立している訳である。アメリカ全土にはこの様な大自然の中に、日本人から見れば全く孤立している様な小さな町が何千とあるに違いない。自分にはこの様な街にはとっても住む気になれないと思いながら、GSで燃料を補給した。 ・あまりゆっくり休憩する気にもなく、直ぐにルート40を東に向けて走りだす。この道路の周辺の土地も構造物が有る訳でもなく、荒野が続いていた。しかしながら、今までのような荒れ果てた起伏のある荒野ではなく、所々、平原が広がっていて木々や草原が見えるので、人が住もうと思ったら住めるような所である。ルート40はとても素晴らしい道であるが、この道を走り続けていても新しい景色は見ることが出来ない。しかし、しばらく行くとヒストリカル・ルート66という看板が出てきた。 ・ガイド・ブックで調べると、昔、この辺りに確かに今はなきルート66が通っていたらしい。地図で調べると今でもこの付近では、カリフォルニアのブルベッド・シティからアリゾナのウィリアムズという街まではルート40とほぼ並行して実際にルート66という道路が走っている。ウィリアムズから先は、地図ではルート66はルート40に吸収されてしまい名前が並行してついていた。 ・今では国道として使用される通り抜け出来る道路ではないが、探せば部分的に当時の道路が残っている所が有るらしい。実際に旧道であるルート66を走ってみると、ヒストリカル・ルート66と謳っている割には、道路が比較的新しい感じである。実際に近くの村の人達が使っている生活道路の様な感じである。そこで、本当に当時の道路の片鱗でも見つけられたら儲けものと期待しながら、 できるだけルート66という名前のついた地方道を走ることにした。 ・しばらく行くと、道路から少し奥まった所に家が10数件並んでいる所があった。行ってみると、どの家も同じデザインで、こんなど田舎なのに結構、モダンなウッディ・ハウスが並んでいた。これは絶対、市の補助金で作られたものに違いないと一人で想像する。家の前にはどの家にも綺麗とは言い難い車が4-5台停まっている。そして必ず犬が数匹飼われているようだった。 ・元のルート66に戻ってからしばらく行くと、P.SPRING町に入る。ここも人気のない町であったが、レストランが1軒あり、周囲には石造りの家と粗末な木造の家が数軒並んでいるだけである。周囲を見渡すと、上部がまっ平らな山が遠くに果てしなく続いている。そして、段々と緑が増えてきて、この辺りではところどころにコンモリとした低木の塊を見ることが出来る。近くで見ると松のようであるが、背の高い木は見当たらなかった。ニオイを嗅ぐと人参のような香りがした。この辺りでは、何処に行っても、この香りが充満していた。 ・ルート66は、町から町までは人気はもちろん生き物でさえ見ることが出来ない、草地と低木が連なる原野が地平線の彼方まで連続して続く単調な道である。従って、はじめはのんびりと走ろうと思っていたが、いつの間にかハイウェイと同じようなスピードである時速90kmで走り続ける事になるのである。タイヤがバーストするのが怖いので、速度を一度は落とすのだが、時速80kmがあまりにも遅く感じられてしまい、無意識の内にアクセルを自然に踏んでしまう。結局、昔の家が残っているという風景の所を見つけることは出来なかった。 ヒストリカル・ルート66の街、ウィリアムズ ・ルート40でグランド・キャニオンの入り口の街と言われているウィリアムズに宿泊することにした。60ドルで充分に満足できる大きな古びたモーテルが何軒もある。取り敢えず通りを何回か廻って値段と内容が良さそうなモーテルに当たりをつけた。どこも冷蔵庫がついていなかったが、Econo Lodgeというモーテルで部屋に冷蔵庫が必要だと言ってみたらつけるという。部屋で待っていると、何処からか小さな、しかし重そうな古ぼけたモノを如何にも重そうに抱えて持ってきてくれた。コレがないとビールが飲めないから、自分には宿泊所を決める際に絶対欠かせない条件の一つなのである。 ・この町は少しルート40から離れただけの、旧道であるルート66の両側にできた町で、昔の雰囲気が味わえる街だ。メイン・ストリートが二本有って、それぞれ一方通行になっている。どちらの通りにも、ヒストリカル・ルート66の看板が至る所に立っている。これがこの町の一つの売りになっている様である。確かに歴史的なアーリー・アメリカンの雰囲気を残している。 ・しかし、ここに来る観光客の目的は言うまでもなくG.キャニオンの観光である。その基地として賑わっていて、他の町と比べると比較的活気のある街だった。何しろ他の地域にある田舎町ときたら、住民が何で生活を支えているのかを予測することも困難な所が多いからだ。その点では、この町は比較的存在理由が分り易い。 ・しかし、観光用の何か特別なものが有るという訳ではなく、街の人々が古い器の中で普通に暮らしている。そこが観光客には良いのだろう。しかし、地元の人達がキラびやかさの全く無い暮らしに充分満足しているように見える所が、ザワザワした日本から来た人間には理解し難いのである。ザット見た処では、大型のスーパー・ストアはあるが、映画館やデパートやゲーム・センターの様なものは見当たらないし、バーも夜9時には全てしまってしまう様な所である。 ・夕方、外は相当に冷えてきたので、ダウンを着込んで歩いてスーパー・ストアに出かけた。そこで食料とビールを仕入れてから、ぶらぶら既に暗くなってしまった通りをぶらつきながら帰った。そして、ディナーはモーテルの向かいにあるステーキ・ハウスで小さなステーキを食べた。ワインとチップ込で15ドル位だった。後は部屋でビールを飲みながら、PCで日記を書いたり写真を整理したり、明日の日程を考えたりしながらゆっくりと静かな一時を過ごす。自分はこの時間がとても好きだった。 11月20日(土) 始めてのグランド・キャニオンとその周辺の原野をドライブする ・ウィリアムズはグランド・キャニオンの入り口の町であるが、ここからN.Parkの入り口まで地図で見ると100km位ある。しかし、実際に走ってみると如何にも遠く感じる。はるか遠くの方に上部がまっ平らな丘のような山の稜線が周囲を取り巻いて見える。手前には平原ばかりが延々と続く。時速100km以上で大平原を突っ走っても、なかなか遠くの山が近づいてこない。しかも、N.パークに入るゲートまでの間、途中に宿泊出来るような所は一箇所有るだけであった。その宿泊設備は大きな食堂と売店があるドライブ・インになっているが、他には宿泊棟があるだけ。他には人工的な建造物や建物が全く見当たらない。 ・素晴らしい舗装道路が延々と続く。しかし、N.パークの中に入ると、舗装されていないが車が走しることが出来るダート・コースが幾つか有るようだった。ただし、晴れているときには砂ホコリが凄く、そして一旦、雨が降ると道が泥んこ状態となり、4輪駆動車以外は走ることが困難になってしまう様だった。そんな誰も通らないようなダート・コースの所で車がスタックしてしまったら、一体、どうしたら良いのだろう。それを考えると、不安と期待とスリルを感じる事ができる。 ・天気が良かったので、地図を見ながら用心深く短いコースを走ってみた。今日は十分な時間がないので、試しに少しだけ走ってみようと思ったのだった。しかし、たった一人で危険な事をやっているという充実感があった。ただし、やっていることは単に車の運転であるから、何かとても大変な思いをして体力を使っている訳ではなく、あくまでもゲームのような、気持ちの上でのスリル感を楽しんでいるだけであるが、コレが中々気分を高揚させるのである。 初めての快晴のグランド・キャニオン観光 ・G.キャニオンは今回が初めてであったが、4日後にまた来ることを考えていたので、今回は下見だけと云う気楽な気持ちだった。今日の夕方には日本でもパワー・スポットという言葉で有名になった、セドナと言う街でYukiと会う約束をしていたので、午後一でG.キャニオンを出発シなければならなかった。 ・今回の中心は、観光コースを車で走りそして見所の所で車を降りて、少しだけ歩いてみると言う一般的な楽な観光である。しかし、とても素晴らしい楽しみ方が二つあることが実感できた。一つは先程、さわりを経験したダート・コースドライブである。これは、是非やってみたいとと思った。そしてもう一つは、G.キャニオン・ハイキングである。つまり、ここから谷底まで下ってから、また戻って来ると言うコースである。いろいろなパンフレットを見ながら、観光案内所で説明を聞いて、そして、谷底への下りの入り口から下を見ていたら、心が段々興奮してきて是非、やってみようと言う気になってしまった。ただし、案内ガイドによると、当然、途中に小屋など全くない大自然の中なので、何かあったら即、遭難の可能性があり、しかも体力と水の補給と充分な食料を持って行くということが重要とのことだった。これはアメリカに来なければ日本では絶対に経験できないことの一つだろうと思う。次回、是非、やってみようと思った。 ・G.キャニオンからセドナまでは、地図を見た限りでは、まずウィリアムズまで戻ってから、旧道ではない高速道の方のルート66をフラッグス・タッフまで一気に行く。そして、そこからやはり高速道であるルート17に入って、途中から山岳道路であるルート89に入って一山超えれば後は道なりに進めば良い。いつもながら、高速道路はただヒタスラ走るだけで、ドライブとしてはあまり面白いものではない。一人きりの運転では尚更である。周囲の車を見ても、特に地元の車は、大概一人乗車が多い。ただ高速で突っ走っているだけのように感じる。 ・ルート89は途中で峠を超える山岳道路で、くねくねとカーブが続き、片側は激しく侵食された深い谷の下を川が流れている。川は急流で、日本で良く見かける山の感じと似ている所があった。しかも、秋深く紅葉がとても綺麗である。この周囲は日本と同様に、赤あり黄色有り枯れた黄土色有り、白い岩山有りで、何とも言いようのない懐かしい美しさがある。峠の上の方には雪が周囲にあったが、道路上は全く問題が無かった。 ・夕方、4時前にセドナに着いた。驚くことにここは今までに訪問してきたアメリカの田舎町とは違っていて、全くの観光の街という風情だった。街の中心部を歩いている多くの人は観光客ばかりで、そして今までどこへ行ってもほとんど会うことのなかった日本人を彼方此方で見かけることができる。日本人のしかも女性に大変な人気があるらしい。そう言えば今回、一緒に観光するYkではない方の同じ名前のクラス・メートのYkの話では、ここはホット・スポットで有名な所だった。廻りの景色がとても異様な形の山で囲まれた、何とも不思議な観光地だった。地元の住民と言えば土産店やレストランやカフェで働いている人ばかりである。 ・自分はモーテル、スーパー8に予約していたのでそこに向かう。中心部からルート89を5km程離れた所にある。ここまで来ると周囲にはガソリン・スタンドや住宅地、それに大型のスーパー・ストア等が片側二車線の広い道の両側に続いていた。 ・Yukiに電話をすると、LAから飛行機で、アリゾナ州都であるフェニックスに来たが、これからリムジン・バスでセドナに向かうとの事だった。このリムジンは運良くスーパー8にも立ち寄るらしい。彼女はLAにいる時にUCLAで知り合ったクラス・メートである。彼女が日本にいる時の同じ大学の友人が、アメリカに旅行に来ているので、二人でセドナを廻ってからサンフランシスコ、シアトル等を旅行する予定だという。セドナでの3日間、3人で一緒にアチコチ廻ることになっていた。たまには、友人と一緒の陽気な旅も期待が持てそうだった。 ・夕方、7時頃部屋でシャワーを浴びていると、携帯がなった。裸のまま急いで電話が置いてあったベッドの上に行ってみると、Ykからで今、スーパー8のフロントに居るという。そこで、急いで服を来てフロントに行くと、果たして見慣れた顔が一つと、もう一つ元気そうな顔が有った。名前はAiと云った。 ・Aiがセドナについては色々と調べて来ていた。そこで、夕食はピカソと言う名のイタリア・レストランに行く事になった。スーパー8やルート89の周囲には人影は全く無いのだが、ピカソの駐車場や店内は人で溢れていた。ここは最近、人気が急上昇している最新のスポットらしい。予約をしていなかったが、運良く入り口の近くだったが一つだけ空いている席があった。 ・車の運転が残っていたが、ビールとワインで乾杯をした。料理はピザとスパゲッティ等しか無かったが、今まで食べた何処のイタリアンよりも本格的で、日本で食べるのと殆ど同じ位の美味しさを味わうことができた。コレは、アメリカでは特出する出来事であるといって良いと思う。3人分でチップを入れて、62.9ドルだった。 ・大体、アメリカ人は本当に料理が上手ではない。料理が趣味だと言っていた、ホームステイ先のホスト・マザーもあまり上手とは言えなかった。S.フランシスコはともかく、LAやその他のアメリカの田舎町で、チャンとしたレストランで食べた筈なのに出て来た料理は驚愕ものだったと云うことが本当に多い。チャンとしたレストランと思わせるものは、シックな内装だけで料理は信じ難いほど不味いのが普通である。 ・アメリカではモーテルの管理人は、多くはインド人や中国人が多く、ホテルと異なり社会的なレベルや収入が特に多い職業ではない様である。服装もかなり汚れた普段着のままと云う事が多い。しかも、対応は事務的で愛そうが無いのが普通である。しかし、この小さなモーテルでは、さすがに観光地だけあってチョット違った印象を受けた。キチンとした身なりの白人が多い。モーテル代が他の地域と大差ないとすると、彼らはもしかしたらオーナーかも知れない。今回、YukiとAiをモーテルで待ち合わせた事に関して、彼女達が予約していたモーテルのフロント番に、今までに何回か伝言を依頼した事もあって、彼とはすっかりおなじみになってしまった。客商売に徹しているのか、とても愛そうが良く話し易い。 ・二人を小奇麗な小さなモーテルまで送った後、ガソリンを30ドル分入れて帰宅した。 11月21日(日) 久しぶりに雨で休息の一日だった ・今日はYukiとAiは雨にも拘わらず、オプショナル・ツアーを申し込み、二人で特別にチャーターした運転手つきの4輪駆動車でグランド・キャニオンに出かけていった。しかしカナリの雨だったので、自分は一人で外出する元気も出ず、本当に久しぶりにモーテルでしばらくの間、ゆっくりと寝ていることにした。 ・10時過ぎまで寝てから、起きてシャワーを浴びて、朝食は安くあげるために近くの大型スーパー・マーケットのセイフ・ウェイで食べることにした。アメリカのスーパー・マーケットには色々なデリ惣菜が用意されている。味は万人に合うようになっているようで、少なくとも自分にはレストランで不味い料理を食べるよりずっと口にあう。(アメリカの中クラスのレストランは、味は期待できない事が多く、価格は味よりも室内のインテリアで決まるようである。) ・まずは今日のスープが3-4種類、ベーグル等のパンは自分でローストできる場所が必ずあり、椅子とテーブルが用意されている。コーヒーも自分でカップに入れて一緒に代金を払う。コーヒーは、大抵は数種類のブランドが用意されている。もっとこだわりたい場合は、隣のスペースで大抵、スター・バックスかコーヒー・ビーンが店を出しているからそれを買えば良い。 ・雨で何処へも出かける気にならないが、たまたま同じモーテルに3日間続けて宿泊している時だったので、気分的にはとてもゆったりと一日を寛ぐことができた。 ・夕方、6時過ぎになってから、夕食と散歩を兼ねてセドナの中心地を探索した。今回のアメリカ旅行では、日本人にあまり出会うことがなかったのだが、ここセドナは例外である。本当にたくさんの日本人を見掛ける。女性だけのグループも何組か見かけた。夕食を食べようと入った韓国レストランでは、隣のテーブルが小さな子供連れの日本人家族がいた。そしてその子共をさっきからあやしている、その隣の爺さんも日本人だった。ただし、話を聞いてみると彼はアメリカに長く住んでいる既にリタイアした日本人で、奥さんはブロンドだった。日本に帰国する予定は無いとのことだった。 ・夕食後に通りをぶらついていると、カフェで寛いでいる二人連れの女性がいた。何とYkとAiだった。そこで一緒にお茶を飲みながら、今日一日の彼女達のとても素晴らしかったと云うグランド・キャニオン旅行の話を聞いた。 ・夜、モーテルに帰ってから明日以降の自分の予定を考えながらSEDONAの代表的なパワー・スポットやトレイル・コースを調べて見た。沢山出て来たが、近くで良さそうな所が幾つかあった。一つは自分が止まっているモーテルの近くに有るChimney Rock とThunder Mt. 更にモーテルのすぐ南側にはAirPort MESAがあり、ここから真東の方角にRed Rockと云う大きな平らな岩場が見えるらしい。AirPort MESAから眺める朝日は幻想的だと思う。ちなみに、MESAとは上位部が平らで、崖が垂直に切り立っているこの地域独特の地形を云うとの事だった。更にSEDONAからルート179を南に17km位行った所にはBell Rockと云う飛びきり美しい岩場があって、その周囲にはとても素晴らしいトレイル・コースが沢山あるとの事だった。是非、ハイキングをしてみようと、子供の様に思ったのだった。 11月22日(月) 3人でパワー・スポットのセドナ観光 ・今日は皆で近くのパワー・スポットに日の出を見に行く事になり、早朝の6時に二人の滞在しているモーテルまで車で迎えに行く事になっていた。所が朝、5時にベッドで考え事をしていたら、Ykから「もう6時になるのにどうしたの?」と云う電話がかかってきた。ビックリして話を聞くと、ここはアリゾナ州でありカリフォルニア州とは時差が1時間有ると云う事をすっかり忘れていたことに気づかされた。そうだったのだ、今まで車での一人旅ゆえ時差については全く気が付かなかったが、アメリカ本土は経度の違いで4分割されている事を初めて実感で理解した。 ・取りあえず着るものを着て外に出た。急いでYkのモーテルに行くと二人は既に準備して外で待っていた。直ぐに目的地であるエアポートMESAに向かう。10分位で着いたので、どうやら日の出には間に合った様だった。と云うのは東の方角はMESAになっているので、日の出時間がその分、遅くなる為だった。 ・既にかなりの人達(と云っても20人位か)が集まっていたが、多くは日本人かあるいは韓国人か中国人の様だった。それも女性が多い。岩の上に座禅を組んでジット座っている女性が何人かいた。朝日の美しさは特に日本で見るのと大きな違いはなかったが、ここで見る形式は空気が乾燥している筈なので、その分赤く見えることを期待した。今日は珍しく天気が快晴とは云えず雲が多いので期待した感動は得られなかったのが残念! しかし、とにかく寒かった。 ・しばらく、周囲をぶらぶらしながらしていると、Aiが、前もってガイド・ブックで調べていたセドナでも朝食が美味いと云う評判のカフェに行きたいと云い出した。勿論、行き先がはっきりしているのであれば、異論はないので皆で出かけて行った。そのカフェはルート89沿いに有って、自分が泊っているスーパー8の直ぐ近くだった。確か名前はURGENT CAFÉだったと思う! 成程、人気がある様で駐車場には既に車が沢山止まっていた。店の中は広く、アジアン・スタイル(インドネシアはバリ風)でまとめられた感じの良い店だった。 ・卵料理が有名らしかったので、それとトーストとコーヒーを頼んだ。出て来たのは普通のオムレツでした。コーヒー・カップが磁器ではなくアメリカでは珍しい陶器製だった。日本では当たり前のことが、ここでは最新のファッションの様だった。 ・朝食後に自分としては初めて訪れる近くのパワー・スポットに向かう。スーパー8の反対側の信号を曲がると、そこはDry Greek Rdでその道を道なりにしばらく進んでいくと、直ぐにChimney Rock公園という看板のある処に出た。公園の駐車場に車を止めて、目の前にそびえ立つ石の山 Thunder Mt.に向かって歩き出した。 ・このあたりはChimney Rock と云う名所の一つで、山にはThunder Mt.という名が付いていた。そう、ディズニー・ランドのイメージはここから来ていると思った。Chimney Rockに限らず、この辺りの岩は赤茶けた茶色で、半ば土と化した層状の横帯の地層がハッキリと分かる独特の地層がある。上部は煙突の様に垂直に切り立った円筒形をしている。そして、てっぺんはまっ平らである。まるで子供が面白半分に造った工作作品の様な異様さ・滑稽さが有る。そんな地形が見渡す限り、あちらこちらに見ることが出来るのだ。 ・Chimney Rockから街に戻って来ると、丁度、12時で昼食の時間だった。やはりAiが行きたいと云うチョット小奇麗なカフェ&レストランを探す。カーナビでセットすると、直ぐそばに有る筈なのに、すぐそばに車を止めて探してもなかなか見つからなかった。しかし、周辺は岩を伐り出して作ったヨーロッパ風の石造りの建物が続いていて、散策するには丁度良い場所だった。レストランでランチを食べた後、やはり外観が古い石造りだが内装は近代的な綺麗な作りになっているカフェに行く。カフェでは2時頃までお茶を飲みながら、ゆっくり寛いだ。 ・二人は今日の夜8時の飛行機でフェニックスからサンフランシスコに移動すると云う。セドナからフェニックスまでは200km位の距離だったが、セドナを出発するリムジン・バスが出るまでまだ2時間以上有ると云う。そこで軽い気持ちで、「送って行こうか」と云うと、とても嬉しそうに、「ありがとう」と云う。そこで、往復400kmの道のりを送って行く事になった。 ・アメリカの道は高速道の様な道ばかりなので往復4時間と計算したのだが、フェニックスは行ってみると予想を大きく超える程の大都会であり、市内の渋滞がとても激しいと云う事をこの時は全く知らなかった。しかしながら、二人を乗せてフェニックスに行くまでの2時間は楽しい時間だった。 ・フェニックスに到着したのは午後4時だったので、飛行機の出発時間まで大分時間に余裕が有って、二人は何処か街の中心地に行きたかった様だった。しかし、高速道から街に降りて見ると、意外に道路が混んでいたのと、行きたい場所までの所要時間が良く分からなかったので、早々と市に中心地へ繰り出す事は諦めた。そこで近くに有ったGSでガソリンを補給し、そこで一休みしてから空港に向かった。 ・帰り道は東京以上に激しい渋滞に巻き込まれた。そして、渋滞を抜けて郊外の高速道を順調に走り始めた頃には、辺りは既に真っ暗になっていた。アメリカの高速道路には、日本の様に街灯などもない処が多い。また道路に柵も何も付いていないので、田舎道を一人きりで走るのはとても寂しい。他に走っている車も少ないので、自分が照らすライト以外は全てが真っ暗闇である。広大な大地の何処にも明りが見えない。見渡す限り、家等一軒もないのだ。時折、小さな村の横を通り過ぎる時には、明りが眩しく見える。しかし、それもあっという間に消えてしまい、再び暗闇の中を走り続ける事になる。カーナビだけが頼りである。これが無かったら、とても不安になるだろうと思った。 ・セドナに着いたのは午後7時過ぎだった。5時間、殆ど休みなく400kmを運転した事になる。自分の滞在しているモーテルを通り越して市の中心地に行く。そして駐車場でしばらく横になって休憩した。目が異様な程疲れたのと、腕が何となく震えて来る感じで本当に疲れを感じた。それから、昨日と同じ韓国レストランに歩いて行った。モーテルまで一本道を戻るだけなので、思い切ってビールを頼んだ。 セドナ・ロックを登る 11月23日(火) 1人でパワー・スポットのセドナ観光 ・素晴らしく天気の良い朝だった。いつもの様に朝の散歩を1時間位してから、シャワーを浴びて、荷物を整理した。それから、スーパー・マーケットの横にあるいつものカフェで朝食をとりながら、今日、これから行こうとしているセドナで最も有名なパワー・スポットである、ベル・スポットの案内を読んだ。再び、モーテルに一度引き返して、荷物をまとめてチェック・アウトしたのだが、その頃には既に10時近くなっていた。 ・ベル・スポットは、セドナから始まって真南にR17に接続するまで走っているR179沿いにある。セドナからおよそ10マイル離れた所にある。山の形がまるで本物のベルの様に、てっぺんがドーム状で真ん中が垂直に切り立っていて、そして下部が末広がりに広がった奇妙な形をしている。 ・道路脇の駐車場に車を止めた時はすでに駐車場に多くの車が止めて有ったが、既に降りてくる人もいて、日本の観光地のような忙しさは全くない。トイレや必要な観光ガイド(説明の書かれた立て看板)はしっかりしていたが、観光地なのに道路標識やかなり危険な場所にも手すりのようなものは見当たらない。自分は水筒(ペット・ボトル)とカメラだけをリュックに入れてドンドン登っていった。 セドナでハイキング1 ・山は独特の土の様な感じの岩でできていて、直ぐに崩れてしまう様な感じはしないが激しい水流の中に入れたら直ぐに侵食されてしまうだろうというような気がした。山の標高はそれ程高くはなく、直ぐに裾の部分を登り切ってしまった。しかし、そこから下や周囲の眺めは素晴らしかった。遥か下の方の平らな岩場には、一人で来ている日本人らしい何組かの女性が、岩の上にシートを敷いてその上に胡座をかいて、背筋を伸ばした状態で目をつぶって何やら瞑想にふけっているのが見える。よく見ると日本人女性だけではなく、リュックを背負った若い金髪の男が瞑想にふけっている姿も見える。 ・自分はできるだけ高いところまで登ろうとしてルートを探した。しかし、下の方から見た時は、何処からでも登れそうな岩山だったが、実際に登って見ると特に登山道が出来ている訳でもなく、多くの人が登ったという足跡も見えない。最近、日本でも流行っている、手だけで登っていくウォール・クライミングのような登山である。遠くから見ると殆ど垂直な岩場であるのだが、手や足を掛ける所が沢山あって、比較的簡単に高度を稼ぐ事ができる。 ・しかしながら、登る岩を間違えると直ぐにその岩の頂上についてしまい、そこからは他の岩場に移ることが出来ない。と言うより垂直に切り立った岩の頂上は、別のもっと高い岩場から見ると直径が数メートルくらいしか無くて、そこに座っている人を見ると本当に怖さを感じる。 ・段々上に登っていくルートが見つけられなくて、それでは下に降りようと思ったら、当たり前だが岩場に背を向けて降りていくことが出来ないということに気がついた。登る時と同じような要領でルートを探しながらゆっくり降りていくのだが、怖い事この上ない。降りるルートを探しながら、行きつ戻りつしている内に、登ってきた時とは正反対の方角に降りてしまった。 セドナでハイキング2 ・駐車場の方向に戻りたいのだが、道が全くない。背の高い潅木が有るわけではないのだが、また、日本の山道のように背の高いヤブが有るわけでもないのだが、腰くらいまでの丈の潅木に覆われた石ころだらけの岩肌の上を歩かなければならない。しかも、太陽の位置から推し量って大体の方角しか分からない。周囲には家や建物は何もなく、とても寂しいトレッキングになってしまった。 ・ふと気がつくとキチンと並べて置かれた一足のハイヒールが見つかった。もしかしたら、ここで自殺をした人を発見してしまうのではないかと気になった。しかし、実際にはそんなことが起こる確立は相当低いだろうと思いながら、ドンドン進んでいく。そして大分、歩いてから左手の方向に駐車場が見え、多くの観光客が見えた時は少しホッとした感じだった。 ・駐車場に戻ってから、スーパーで買ったリンゴとサンドウィッチのランチを食べながら、ガイド・ブックを見ていたら、この近くに良いトレッキング・ルートがあるのが見つかった。 ・この周囲にはコンモリと切り立った岩山である、パワー・スポットが沢山のあるのだが、その岩山には登らずに、横を通過して歩いていけるコースが複数あった。トイレを済ませてから、その一つを選んで歩いて行く事にした。ついでながら、この原野の中にポツンとある駐車場には、当然であるが水洗トイレはない。昔の日本の洋式トイレのように、ただ蓋がついているだけである。しかし、日本の公衆トイレのような嫌なニオイは何処に言ってもお目にかかれなかった。恐らく利用する人の数が圧倒的に少ないせいかもしれない。 ・この様な素晴らしい眺めと天気の中を、自由に歩けるということは何と幸せなことかと思う。しばらく歩き続けていくと、やはりこの様な環境の中を自分の足で歩こうと考えている人が他にもいるこ セドナでハイキング3 とが分かった。2回程、二人連れのハイカー(散歩者)に会うことができた。そして更に進んでいくと、前からマウンテン・バイクに乗った青年が現れた。 ・天気も良くて暖かくて空気も澄んだ所でのハイキングは最高の気分だった。今日は再びウィリアムズに行く予定であるので、意を決し、ハイキングを早めに切り上げて、セドナを発つことにした。まだ日も高かったので、少しもったいない気もしたが3時頃には出かけることにした。5時になると日が沈んで真っ暗になってしまうからだった。 ・帰り道はずっと川に添って上流に登っていく。川は侵食が進んで道路よりかなり下の方を流れている。川の両岸は切り立っていて、岩肌が層状になっているのが見える。セドナに沢山あったパワー・スポットの岩壁の様に見える。皆、何気なく車を走らせたまま通り過ぎて行くのだが、実際、この景色はかなりの迫力である。しばらく行くと川に橋が掛かっているところがあり、その手前から見ると橋が相当高い所に見える。実際に橋の所まで行ってみるとそこはビュー・ポイントの看板が立てられていて大きな駐車場もあった。既に多くの人達が上の展望台に群がっているのが見える。また、川の崖っぷちに沿って散策路が作られていて、大勢の人達が行き交っているのが見える。 ・駐車場には車を置くスペースがなかったので、少し遠くまで車を走らせて、道路脇に駐車した。かなり危険な感じもしたが、短時間で戻ってこようと言う気持ちで対して気にもせずに展望台に出かけた。展望台からの眺めは、素晴らしかったし、とても日本では見ることができない光景だったので、来たかいがあったと思った。しかし、あいにくカメラがなかったのと、携帯のメモリーも忘れて来てしまったので、その内部メモリーも既に一杯だった。仕方なく自分の目に光景を焼き付けようと努力してみた。 ・川の方へ降りていく道は無さそうに見えたが、数人の人達が川のそばにある大きな石の上にいるのが見えた。自分は川に添って歩きたいと思ったが、駐車中の車のこともあり、早々に引き上げることにした。 ・途中、峠に差し掛かる頃には道の両側には雪が積もっていた。しかし、しっかり管理されているためか、あるいは道路上に積もるほど降らなかったのかわからないが、道路上には雪はなく度の車も普通タイヤのままで通行している様だった。そして、3日前に宿泊した懐かしいオールド・タウンであるウィリアムズに着いた時は、もう既に辺りは真っ暗だった。 ・ウィリアムズでは大して探しまわることもせず、安いが多くの車が駐車していたモーテルに決めた。RodeWAYinnという所で料金は税込で38.93ドルだった。多分、平日だったせいもあるだろうが、自分には丁度良い安さで有ったが、室内は充分に小奇麗で必要なものは揃っていた。とても寒い夜だったが、室内はエアコンが効いて23度に保たれていた。 ・さて、夕食を食べに行こうとして外に出たが、目の前の街の中央通りの歩道には、雪が固まっていて滑りやすかったし、本当に寒い夜だった。ダウンを着ていても体の中に、寒気が押し寄せてきた。ただし、雪の上を歩くのは気分が良かったので、つい遠くまで歩いてしまい結局、スーパーのセイフ・ウェイまで来てしまったので、夕食はここで惣菜を買って済ませることにした。それでも、ビール等を入れて全部で20ドルだった。 11月24日(水) 1人で再びグランド・キャニオン観光 ・朝起きだしていつもの様に散歩してから朝食をとる。そしていつものようにトイレに行って用を済ます。実は自分は若い時はひどい便秘症に悩んでいた。特に旅行などで外泊するときには必ずといってよいほど出ない事が多かった。しかしながら、今回の旅行では今まで3ヶ月あまり、一度として滞ったことはなく毎日が快調だった。多分、その秘密は毎日欠かさず、一日に2錠飲んでいるビオフェルミン(ビフィズス菌錠)の効果だと思う。もう今では半ば飲むことが習慣になってしまい、恐らく、1日でも飲まない日が有れば逆に不安になって出なくなってしまう恐れがある位になってしまったと言える。兎に角、血圧降下剤とこのビオフェルミンは、自分にとって欠かすことができなくなってしまった。 ・更に打ち明けてしまえば、夜、寝るときにはもう何年も前から睡眠導入剤を服用している。飲むといっても、1錠の錠剤を10分割してそれを使用している。従って、3錠有れば、1ヶ月間は持たせることが出来る。コレはもう5年くらい続いているが、量がこれ以上に増えることはなく安定している。以前は寝酒に頼っていたのであるが、医者に相談してから副作用や常習性のないと言われているこの薬に頼るようになってしまった。コレを飲むようになってからは、飛行機の中でもきちんと寝られるようになったし、従って、昔あれほどまでに自分を悩ませた、時差ボケの心配も全くなくなってしまった。 ・早い時間にモーテルを出て、街の観光案内に行きグランド・キャニオンの情報をもらってきた。とても詳しいガイドが数種類有った。しかも、英語の他に日本語と中国語と韓国語に訳されているのである。流石にやるものだと思う。今日の目標は、グランド・キャニオンの底部までのハイキングである。 ・グランド・キャニオンは砂漠地帯なので熱く乾燥しているため、通常は自分のような虚弱体質の者が歩くことは危険である。しかし、この時期は暑さの心配をすることはなくなっていた。かなり冷え込むとのことであるが、夜、キャンプすることがなければ問題は無い様だった。ただし、当然のことながら山小屋があるわけではないので、その日の内に元に戻ってこなければならない。それよりも問題は天候であった。何しろガイド・ブックによると、天気は毎日ドラマティックに変化すると書かれているのである。 ・ガイド・ブックによると、G.キャニオンはコロラド川の侵食によってできたもので、川は今でもここらでは海抜750mmの所を流れている。トップの所が海抜1400mmであるから、高度さは700mmである。地層は古い所では18億年前に比較的新しい所では2.7億年前にできたらしいが、川によって侵食されて現在のようになったのは5百万年前ということだ。ちなみに地球の誕生が45億年前である。いづれにしても、誰にでもハッキリと目指できる12層に重なった地層がとてもそれぞれ異なっておりカラフルで綺麗である。 ・さて、ウィリアムズからG.キャニオンのゲート近くまでは、天気も良く快適なドライブだった。しかし、途中から急に天気が悪くなり、ついに雪が降りだしてきた。途中で車を止めて、脇のヤブの中に入って用を足そうとした時、靴が地面に半分近くも潜ってしまった。慌てて靴を綺麗に拭いてから、出発したのであるが、車はノロノロ運転になってしまった。 ・それでも雪が降っているにもかかわらず、道路は綺麗になっており、そしてリムに着くと駐車場にはそれなりに車がいたので安心した。もっとも、4日前の土曜日に来た時よりははるかに少なかったが。早速、トレイルの入り口の所に行ってみると、そこは完全に雪で、普通のウォーキング靴では滑ってしまいとても歩ける状態ではなかった。しかも道幅は狭く1m位しか無い。そして、片側は岩壁であるが反対側は谷になっており、細い道が岩壁づたいにへばりついた感じで、徐々に下の方に降りる様になっている。上から覗き込むと、それでも降りていく人と上がってくる人が何人か見えた。この分ではすれ違うことも怖いような気がしたが、彼らは別にチョット時間がかかっただけで、特に問題があるように見えない感じで通り過ぎて行く様に見えた。 G.キャニオンの観光コースの崖の所で撮ったもの 崖から下を見下ろすとチャントトレール・コースがついているのが見える。是非、チャレンジしたいと思った。 ・ロッジの中に入ると、ストーブの前で何やら身繕いをしている人がいた。聞いてみると下から上がってきた若い二人連れのハイカーで、下の方には雪は全くなく歩きやすいという。しかしながら、上の方は雪が固まっておりとても滑りやすいと言う。とても残念であったが、ハイキングは中止にすることにした。次回、来ることがあれば是非、10月に来て1日かけて歩きたいと思った。 ・そこで軟弱にも、通常の観光コースを歩いた後で、付近の森の中を歩きまわった。それでも雪が降っていたこともあり、人の姿さえ見ないようにしていれば充分に山歩きの感じを楽しむことが出来たのだった。 ・昼食は観光客用に作られたレストランで、ピザとパスタを食べたのだが、料金は13.3ドルと少し自分には高めだった。味は当然、美味くはないが特にピザはクセになりつつある。パスタはハッキリ言って不味い。 ・この付近のサンセットは午後5時16分だということなので、夕方、まだ明るい内に出発することにした。地図で色々と探した結果、プリスコットという街まで行く事にしたのだった。 ・アプリコットの町は思ったより大きくて地方都市の様な感じの所だった。宿泊はあまり迷うこと無く、最近はよく利用しているモーテル6にした。税込で44.47ドルだった。 ・スッカリ暗くなってしまった街の中を、あれこれ散歩してスッカリ疲れてしまった。アプリスコットはアリゾナの町であるが、カリフォルニア同様に人々はとてもフレンドリーな人が多い。当たり前の挨拶のような感じでやっているだけなのであろうが、それにしても愛想が良いだけではなく話しかけてくる。例えば、スーパーで売り場を聞いた若者は、自分が日本人だと分かると色々と質問してきた。聞いてみると大学生のアルバイトで、来年の夏に日本に行く予定であるという。チョット話をするつもりだったのが、長々と話し込んでしまった。 ・夕食は色々探したが良い所が見つからず、結局、独り身ということもあるのだろうが、侘しくパンダ・エキスプレスで、6.55ドルで済ませてしまった。 G.キャニオンのボトムへ降りていく入口の所、雪が凍っていて滑ってしまい歩くことができなかった。 11月25日(木) インディオCAに移動 ・殆ど移動のみだが中々感動的なドライブだった。 しかしながらデータが消えてしまった!! ・午後から夜にかけてインディオの街歩き、そして、消えた25日は感謝祭の日だった。 11月26日(金) ジョシア砂漠を歩く ・広大な国立公園であるジョシア・ナショナル・パークへの入り口は、地図で見ると3か所ある。公園の南側に沿って走っているルート10からは、コットン・ウッド・ビジターセンターから入園することになる。ここの観光センターで15ドルを払って、要領よくまとめられたパンフレットを貰う。パンフレットには種類あり、一つはこの地形が何時頃どの様に出来たのか等の成り立ちや歴史、住んでいる動物や植物の説明が綺麗な写真とともに書かれている。もう一つは、地図とともにこの公園で何をすることが出来るかのアクティビティの紹介が書かれている。つまり、キャンピング、乗馬、ロック・クライミング、ハイキング等々について、コースの紹介や注意等が書かれている。 ・自分はまず主要なコースを車で見物して回り、良い場所を何箇所か選んでハイキングをしたいと考えている。そして車をゆっくりと走らせた。ここは砂漠であり夏はとても暑い所であるが、流石に11月の下旬ともなると日差しは日本の真夏のように感じられるが、乾燥した空気がとても心地よい。日陰に入るとむしろ体が冷えてくる感じさえする。そう言えば、ビジター・センターの所で午前10時の現在の気温は8度Cと出ていた。 ・何処を見渡しても広大な大地に興味深い植物が生い茂っているのが見える。植物の背丈はとても低く、多くはロープが張られている立入禁止区域であるが、場所によっては広大なスペースを自由に歩き回ることができるように設定されている。誰も歩いたことのないような足元の大地の土は、十分に固くとても歩きやすい。一面に奇妙な形をした低木が生えているが、とても歩きやすい。もしも一度でも大雨に見舞われた場合には、泥んこの海と化すに違いないが、多分、まとまった雨などここでは見ることがないのだろう固くしまっている。 ジョシアN.Pを歩く1 ・景色は素晴らしく、またどれも日本では見ることが出来ない光景が沢山ある。しばらく車を走らせて行くと、群生している植物が変化していき、有る所では広大なサボテンが何処までも続く場所に出る。地図には所所にビュー・ポイントが出ていて、そこへ行くと今まであまり見かけなかった観光客が沢山いる。その様な場所には駐車場や場所によっては公衆トイレもある。 ・その様な場所の一つであるリャンという所に車を置いてシープ・パスと言う所まで行って戻ってこようと目標を定めて、歩き始めた。コースに日陰はないが、とても雨の心配もなく快適なハイキングが楽しめた。しばらく行くと、平地に高さが40メートル位の大きな岩山が幾つも現れた。よく見ると数人の人達が岩登りに挑戦している。岩登りといっても、特別な道具を使うわけではなく、素手でかなり急な所を登っていくのである。近くに行ってみると、岩には出っ張りや窪みが有って、それらを上手く利用して頂上を目指すのである。 ・ある岩山では巨大な煙突の様にほぼ垂直に切り立っていて、その頂上は数メートル四方しか無い様に見える所があった。そして近づいてみると、驚いたことにその頂上の所に既に5-6人の若者が立っているのである。そして更に数人が頂上に向かって登っているのが見えた。彼らの全員が頂上に立つには、スペースが足りないように見える様な場所だったので、下から見上げているだけで薄ら寒くなってきた。しかも一度、上がった連中は少なくとも自分がそこにいる間は、降りてこようとはしなかった。あそこまで危険なことをワザワザやることは無いだろうと思った。恐らく、仲間がいるから挑戦することになるのだろう。一人だったら、誰も褒めてくれないしきっとやらないのではないかと思った。 ジョシアN.Pを歩く2 ・自分は挑戦したい様な、したくない様などちらの気持ちも有ったが、特に強い気持ちも湧いて来なかったので、そのまま歩き続ける事にした。多分、一人きりで歩いているので互いに競い合うという意識が出て来ないのだと思った。やるとしたら、頂上に立った時、自分一人で良くヤッたものだという感慨に浸るのだ。そういう意味では、一人きりで誰にも知らせること無く無謀なことに挑戦しそれに成功した時には、当人にとっては本当に素晴らしい体験になるのだろうと思う。 ・写真を撮りたいと思う場所が他にも沢山あったが、何せカメラを無くしてしまったので、そして既に携帯のメモリーも一杯になってしまったので撮ることが出来ない。自分の目にしっかりと焼き付けておくのだ。 ・午後、まだ日が高く少し勿体無いと思ったが、LAに向けて出発することにした。来た時とは逆に南から北に向かってジョシア・トリーという町に向かって進む。この街は公園に入るゲートガの前にある大きな町で、多くの人はここから入園することになる町である。この街に向かって、ドンドン高度を下げながら曲がりくねった山道を飛ばしていく。 ・そして、街を東西に横切るメイン・ロード62に出た所で給油する。ここは典型的な田舎のガソリン・スタンドだったので、中にちょっとした売店があって、おなじみのサブ・ウェイもあった。トイレを済ませてから、何時ものハーフ・サンドウィッチとコーヒーで元気を回復する。 ジョシアN.Pを歩く3 ・これからLAに向けて通る道は、地方道ではなくて街と街を結んでいるメイン道路を利用することにした。メイン・ロードといっても、田舎では日本と違って高速道路に近い。しかし、街の中には幾つか信号機のある所もあった。道は4車線だったり3車線だったりする。ここを山の景色の変化を楽しみながら、ただ、運転に集中するだけの単調な時間が続く。 ・途中、町の名前は忘れてしまったが(多分、ユッカ・バレーの近くだったかもしれない)、突然、広大な丘の上に風力発電用のプロペラ塔が無数といえる程、沢山並んでいる風景に出くわした。これと似たような風景は、デス・バレーに向かっているときにも出会ったが、ここのスケールの大きさには本当にびっくりした。幾つくらい有るかを予測するために、50個位を数えて、それを何倍かすることで、どの位数があるかを調べようと思ったが、延々と続く光景にそれもできなくなってしまうくらいだった。 ・流石にアメリカは土地が広大なので、経営者や技術者は日本とは違ってあらゆることを実際に試して見ることが出来るのだ。恐らく風力発電の効用や問題点等は、日本ではほんの数カ所に取り付けた実験装置でしか確認出来ないが、ここアメリカでは壮大なスケールでのデータを取ることが出来るのだ。日本ではこれだけの広大な土地を確保することは、コスト的に全く合わないと思うが、一つのプロペラで仮に1000kwの電力を生み出すとしたら、5000基有れば500万kwとなって、原子力発電に匹敵する規模になる。十分に実用的な値である。 ・夜遅くになって、LAに帰ってきた。何処にも今夜泊まるモーテルなど予約などしていなかったが、最近の定宿であるカルバー・シティにあるシルバー・ムーンに直行する。今夜から3泊することにしたが、週末ということで何時もより高く税込で56ドルだった。宿の主(女将さん)はもう自分のことをスッカリ覚えていてくれて笑顔で迎えてくれた。料金は同じ意であるが、部屋は角部屋でこのモーテルでは最も広くて綺麗な所だった。シャワーを浴びて一休みしてから、夕食を食べに行く事にした。その前に、最後のお別れということで、明日の夕食をメイとカズと一緒に食べたいと思い早速、メールを書いた。 11月27日(土) LAの夜 ・今日は是非、ロスでもジャズ・クラブに行っておきたいと思い、I/Nで幾つかをピックアップした。ポテト・クラブなどという名前の行ってみたいクラブがあった。しかし、場所がユニバーサル・スタジオの近くなのでモーテルからは少し遠すぎて、酒を飲んだ後の帰りの車の運転に難があった。アメリカでは、車がないことには何処にも出かけることが出来ない。特に夜などは、暗い所を長い距離、一人で歩くことは厳禁である。そして、クラブであるから一人で出掛けて酒を飲まないということも考えられない。そこで宿泊しているモーテルから、安全なルートでいける所が絶対の条件となる。そこで選択したのが、HollywoodにあるJazz Club Catalinaである。 ・モーテルのあるカリバー・シティからハリウッドは直ぐ近くで有る。夕方、ハリウッドに一人で出かけたのであるが、ハリウッドの中心地には思いの他駐車場が少ない。その上、さすがに土曜日ということもあって、ハリウッドの中心街の近くでは、何処の駐車場も満杯だった。少し辺りを走り回って見たがサンセット・ドライブの近くに、運良く広いビルの空き地の様な駐車場が見つかった。多くの駐車場は夜の11時にはゲートが閉まってしまう様だったが、車を入れると直ぐに係の黒人がやって来た。駐車場の料金は時間に関係なく一回20ドルで、夜中でもOKだと云う。それにしても20ドルとは、LAでは最高値だと思う。 ・演奏は確か9時ころから始まるとの事だったが、そして、クラブはディナーを食べることが出来る様だったが、一人でテーブルを囲むような客は一人もいないと思うので、何処かで軽く夕食を食べてから行こうと思った。近くに気楽に入れるチャイニーズ・レストランが有ったのでそこで有飯を食った。 ・そして食事の後、表通りから一本裏手に入った薄暗い人通りのない一角にある目的の場所にたどり着くと、お目当ての建物らしいのだが、さて入り口が何処にあるか分からない。周囲を廻ってみたが地下への駐車場の入口があるだけの建物で全く人気が無い。まるでさびれたビルの様に見えた。しかし、裏に回って見ると、大きな地下駐車場があった。 ・入り口を聞こうと思って駐車場に車が降りていく坂を歩いて行くと、何人か係の人がいる。話を聞くとここが入り口だという。どうやら、自分のように歩いてここへ来る人はいない様だった。見ていると、皆、車でやってきて入り口で車を降りる。後は係の者にチップを渡して、何やらカードを受け取るとサッサと中へ入っていく。係りの者がキーを受け取って車を置きに行くのだ。ふーん、何となく洒落ている。聞いてみると駐車場の料金は6ドルで安い。と言うよりもきちんとチップを払う事によって、客も係員も気持ち良く事を運べるのだ。ここでは客の振る舞いも何となく垢抜けていてスマートである。 ・それに比べると、自分は車しか出入りしない駐車場の入り口をトボトボと歩いて入って来たのである。日本では自分も、社会の普通のクラスの一員であるが、ここアメリカではクラスに寄ってそれに相応しい態度があるらしい。自分がその雰囲気にそぐわない振る舞いをしているような気がした。それらしい場所では、何でも自分でやってしまうのではなく、サービス係にやってもらう。そして、少しでもサービスを受けたら、キチンと小銭のチップを払い、しかもニコやかに「有難う」と言うのだ。中には横柄な態度を取るもの者もいるが、多くはフレンドリーな態度で会話を交わす、そのやり取 りは見ていても気持が良かった。 ・入り口で前料金を払う。食事はいらないというと、チャージ料金だけを30ドル要求された。後は中に入って、適当に注文してくれとのことだった。ちなみにビールは8ドル、簡単なツマミもその位、後はチップだけで、とても明朗な会計だった。 ・さて、中に入ってみると驚いたことに人がいっぱいだった。想像していた狭いクラブではなく、とても広い空間の、ずっとくだけた感じのJAZZ Restaurantという感じだった。客席は4人掛けのテーブル席が50程、殆どの席が一杯で200人位の人で溢れている。中央部に大きな部隊が有る。既にほぼ満席で、一人で来ている客は見当たらなかった。半分位がカップルで、他は4人のグループで来ておりとても楽しそうに騒いでいた。殆どが常連客の様に見えたし、皆、とてもリラックスしている。そして皆、着飾っていて、自分の様に昼間と同じ格好で来ている人は余りいない様だった。雰囲気が、サンフランシスコのジャズ・クラブとはずいぶん違っており、ここがジャズ・クラブかと思わせる程、明るく健康的な如何にもロスと云う感じのとても明るい社交場と云う感じの所だった。 ・自分は一人だというと、隅の方にあるスタンド・テーブルとハイ・チェアに案内された。こんなスタンド・テーブルが10個位はあったが、多くはカップルが食事無しで酒を飲みに来たという感じで、仲良く話に夢中だった。日本のように一人でやって来て、静かにうるさいジャズを聞きながら、酒を飲むと言うような客は他にはいなかった。よく見ると、ここはハレの場所らしく、殆んど常連のような客ばかりが、着飾って来ているようだった。 ・本日の出演者の名前はスッカリ忘れてしまったが、15人編成のビッグ・バンドであった。そして演奏はカントリー調であくまでも明るかったが本物だった。それぞれのソロもあって、実力は確からしかったのが、演奏を聞きに来た自分には救いだった。しかしその他の印象は、日本の例えば、六本木のブルー・ノートとは大違い。皆、食事と音楽を楽しんでいる。しかし、黒人は一人もおらず、如何にも明るい曲ばかり演奏していた。しかも一曲が終わるたびに、客と演奏者の間で掛け合い漫才がある処はサンフランシスコ辺りとは大きな違いだった。自分には全く聞き取れなかったが、時折、演奏者と客が声を掛け合って冗談をいっている。そのたびに、大きな笑い超えが広がる。大体、この店のオーナーである女主人が、盛り上げようとしているのか、盛んに大きな声でヤジを飛ばして笑いこけている。とても楽しそうだったが、自分のように一人で音楽と酒を静かに楽しむ場所としては適さない所だった。大体、スモール・コンボが似合う店ではない気がする。 ・帰りに外へ出ると、駐車場では10人くらいの人が並んで車を持ってきてもらうのを待っていた。自分のように、歩いてビルをでて行こうという者は、他には誰もいなかった。 ・駐車場に向かって歩いている時に驚いたのだが、来る時は殆んどどこの駐車場も満杯の車で埋まっていた筈なのに、この時間になるとどこもカラになっていて入り口が閉ざされている。少し心配になって早足で着いてみると、まだ係りの者がいたが、他の車は殆ど消えていた。確かに12時を過ぎているのだから、幾らハリウッドと言え、ビルの外の駐車場では営業時間を確認しておくのが当たり前だと気が付いた。でも良かった。結果、演奏は良かったし、車にも辿りつけたので、後は自分の自由時間だった。 11月28日(日) LA ・今日は日曜日で、街の繁華街はサンクス・ギビング・デイの半額セールで賑わいを見せている筈である。でも自分には関係がない。自分の娘に頼まれた土産と女房への罪滅ぼしの土産を買うだけだ。 ・今回の旅行で一番考えたこと、感じたことはなんだろう。それは、何よりも生きていくために必要な物が何なのかを改めて知らされたことだろう。金と健康は当然であるが、一つは家族から離れて3ヶ月暮らしたことで、はやり家族の繋がりの重要さに気がついたことである。また、家族だけではなく、今回は若い人達を中心にいろいろな多くの人達と知り合ったということが大きい。本当に自分にとって必要であったのは友人であった。或いは単なる話し相手の様な付き合いを含めた人間関係とそれを維持すること重要さだと言える。 ・それから、新しい人間関係を作り 会社を中心とした世界を打ち破って 更に広げていくためには、当たり前だが自分から積極的に表現して行動して行く事の重要さを実感したと言うことである。考えてみると、自分がこの3ヶ月に得た友人たちには、中には40歳台や50歳台もいるが、多くは20歳台の前半から30歳台の前半である。それは、アメリカに留学してくる学生が多いことから当然のことなのだが、既に60歳を大きく超えてしまった自分にとっては、今まで経験することのなかった新しい挑戦だった。 ・早々、いい忘れてしまったが、友人として若い外国人を多数 知り得たことも、自分にとっては今までに経験したことのない出来事で合った。彼ら学生は大きく分けると二つのグループに別れる。一つは自国で高校を卒業してから直ぐにアメリカにやってきた親が金持ちの20歳そこそこの学生達。もう一つは、自国で高校や短大、或いは大学を卒業してから一度 就職し、何年かの実務経験をしてから 何らかの考えがあって自費でアメリカにやってきた若者達である。 ・その様な若者達との交流は、はじめは同じクラス・メートという上下関係なしの環境で初めて可能になった。そして、互いに対等であるという意識を キチンと持っている場合は、例え 年が離れていても意思の疎通ができるという発見があった。恐らく重要なことは、互いに大人として相手を尊重し思いやる心だろうと思う。 ・中国人や韓国人の留学生は互いに似ている所がある。主張が明確でとてもアグレッシブに行動する。飲み会では、本当に良く自説を主張する。中国や韓国以外のアジア圏から来ている人達は、日本人以上に大人しい人達が多い。そして、人情や優しさに溢れている。向こうから話しかけてくる事は少ないが、一緒に話をしていると、妙に安心ができるということが多かった様に思う。控えめな態度が自分には好感が持てた。 何処に行っても彼らの存在が目立った。それに引き換え、殆んど何処に言っても目にすることがなかったのが日本人である。日本を思い出させるものといえば、街中を走り回る車だけで、日本人の姿は大都市の中心外以外にはほとんど無かった。 ・また、それ程は多数の人達と知り合ったわけではないが、いろいろな土地でいろいろな人達と交わした短い会話をかわしてきた。それから想像できることは、一般的な日本人とは違ってこちらではいろいろな人達がいるということである。収入やクラスの違いは、その服装や行動、職業等、本 当に明確に分かれている。そして今思い出すと、自分が主に話をしてきたアメリカ人は、実は中から上の人達ではなかったのと思える。折角、アメリカに来たのであるが、所謂、黒人やメキシコ系、或いは腕や足に刺青をした多くの人達がアメリカには溢れているが、彼らとは不思議に会話を交わした経験が少ない事に気がつく。 ・自分は今まであくまでも自分の考え方が絶対に正しいと考えて、それを声高に主張してきた。アメリカでは、この事が本当に重要だと実感した。しかし、日本人同士で話しをする場合は、少し聞き手に回った方が良いのではなかったのかという反省もする気持ちになった。 ・夕方、6時にMiとKazに会う約束をしていたので、二人を車で家まで迎えに行った。明日はLAを離れるということで、三人で最後の夕食を食べるように招待してくれたのである。二人がホーム・ステイしているすぐ近くにチョット洒落ていて、いつも客が絶えない小さなフレンチ・レストランがあった。何時も店の前を通るのだが、今日は初めて中に入った。そして3人で何皿か頼み、ビールで乾杯した。この店の食事は、今までアメリカに来てから食べた記憶が無いほど美味かった。そして値段も安くて最高でした。 ・店を出た時は既に9時を過ぎていた。どこかでお茶を飲みながら最後の話を続けたいと思ったのだが、この近辺では、9時を過ぎるとスター・バックスを始めどこもクローズされてしまうことがわかった。残念ながらこれでお別れだった。別れる時に、自分が5週間位前にステイプルで買ったカーナビをMiが欲しがったので譲ることにした。Miはタダでは嫌だというので$50を受け取ってから、使い方をできるだけ丁寧に教えてから皆と別れた。 11月29日(月) LA出発 略 12月1日(水)成田着 略
11月12日(金) LAでの休日とMi ・朝食は以前、毎土日に食べに行っていた、Panera Caféにまた行ってみようと思った。自分はこのカフェの屋外の席が好きで良く通った。LAは気候が良いので、日陰で有りさえすれば外の席は風が涼しくてとても心地良いのだ。何時も注文するものは、ローストしたベーグルとクリーム、それにコーヒーだけだったが。他にもスープ等、金を払えば美味しそうなものも幾つかあった。ここが人気のある秘密はパンの種類とその美味しさにあると思う。兎に角、アメリカではなかなか美味しいパンは手に入れにくいのだ。最近、東京で良く見掛ける高級な手造パンには到底叶わないが、ここLAではそんな高級なパンを希望する人はマレである。事食に関する限り日本人はアメリカ人より遥かに贅沢だと思う。 ・食後、カフェの近くに大きな書店があるので、その中を少しぶらついた。この本屋の不思議な所は、新しい本と古本の両方を売っていることである。もちろん古い本はかなり安い値段がつけられている。買おうと思っていたガイド・ブックは、どうせ拾い読みするだけで、日本に帰るときには重いので捨ててしまう積りだったので自分にとっては好都合だった。 ・この後で直ぐにモーテルに取って帰り荷物をまとめた。LAで泊ったモーテルは快適だった。LAXに近いので海外からの旅行者が多いのだろう、今まで泊ったモーテルより作りや設備が少し良くできている。室内の広さと云い、ベッドや机等の調度品の作りも一人旅行の自分には充分だった。コインランドリー等の設備も沢山あるので、待ち時間に困る事もなかった。難を云えばその分、価格が高いことだった。LAにいる1Wの間ずっとここにいるとしたら、自分としてはかなりの出費いが嵩むと思い、もっと安くて便利な例えばサンタ・モニカに近い処を探そうと思ったのだった。どうも一人旅では部屋が綺麗でそれなりに設備がそろっていれば、それ以上は全く必要が無いと考えてしまう。全てはコスト次第なので、できればここの半分くらいのか価格の所に移動したいと思った。 ・今日は午後にMeiが学校から帰ったら二人で会う約束をしていたので、何とか午前中に探そうと思った。高速道のサービス・エリアで貰った無料のモーテル・ガイドブックやインターネット、そしてカーナビについている情報等を当たって見たが、市内の便の良い処で希望の価格の処はなかった。LAにはかなりの数のモーテルが有りそうであるが、恐らく手に入る情報はそのほんの一部だろうと思う。そこで、昼飯を食べにサンタ・モニカ周辺に出かけた時に、自分の足で探す事にした。 ・セプルブド・ブルバードをS.モニカ方面に向かって車を走らせていると、今までは余り気が付かなかったのだが、広い道路の両側にかなり大きなモーテルが7、8軒ある。その中で立派そうなモーテルを素通りして、一見して安そうな所を数か所、目星をつける。料金と部屋を確認して、まあまあ満足できる所を探す積りだった。Pico Blvdまで来た時に右手に日本で云うラブホテルの様な名前の建物を見つけた。手始めにここを覗いてみようと思い中に入る。価格を聞くと平日は税込みで50$、土日は56$だと云う。部屋を見せてもらうと、十分良い感じだったので即座にここに決めて4日分をカードで支払った。 ・さて、荷物をおろしてから、まだ午前の早い時間だったので、S.モニカの街に買い物に行く事にした。S.モニカの街には私営の駐車場が沢山あるが、他の場所と比較すると料金が高い。しかし、数か所にでかい市営の駐車ビルがあって、ここだと2時間までは無料で追加料金も高くはない。この駐車場は、いずれも海沿いの道路に面しており、メイン・ストリートまで僅かワンブロックの距離の便利な一等地にあった。 ・メイン・ストリートは、カフェや様々なレストラン、ブティック等が立ち並んでいる。そして、休日には音楽演奏はもちろん、踊りや曲芸等の沢山のストリート・パフォーマンスが行われ、道行く人達でひしめき合いLAでも稀に見る活気に溢れ場所であった。自分は通を一通り歩いて街の様子を観察してから、メイン・ストリートの一角を占めている大きな本屋に入った。何となく英文が苦もなく読めそうな気がしていたので、パラパラとめくって優しそうな本を探した。しばらく探して歩き、「アルケミスト」という本を$10.91で購入した。 ・午後3時の約束の時間にMiを迎えに行く。玄関でドアのベルを鳴らすと果たして、いつもの明るい笑顔が現れた。相変わらずキュートで可愛い女だ。少し痩せてはいるが、スタイルが良く美人系である。それでいてセクシーでもある。しかし、何といっても何時も明るい笑顔でいるのが最高である。何処に出没しても目立つ存在で、彼女の周囲が明るくなる。しかも実際に話題の中心にいつもいる事ができる魅力を持っている。今日は白いピッチリした細身のローウェストのパンツに、腹とヘソを出した短いシャツ姿で現れた。中々キュートでほのかな色気のある女っぽい感じだった。 ・少し世間話をしてから、彼女に車の運転を教えることになった。彼女はドライビング・スクールに30時間くらい通っていて、既に高速道路も経験しているということだったので、車の通りが少ない住宅地の中を、ぐるぐる8の字に走り回ることにした。 ・まだ、速度に慣れていない様で、コース取りに少し不安が有って、予想していたよりも運転は危なっかしかったが、あっという間に2時間が過ぎてしまった。楽しい時間だった。自分はもっと続けたかったが、彼女は緊張して運転した為に喉が乾いてしまったらしい。スター・バックスに入って休憩をすることにした。ここでは主に彼女の大学での勉強の進み具合や勉学上の悩み、学校を出た後、どうしたら良いかなどについて相談に乗った。彼女の中国での友人達の話も有った。彼等は皆、裕福な人が多くて、BMWに乗っているのが多いと言っていた。 ・彼女自身、中国では短期大学を卒業しただけなので、是非ともアメリカで大学卒業の資格を取りたいと言っていた。偉いのはその学費等を全部自分で出している事だった。と云うのは、中国で短大を卒業後、日系の企業(ニトリ)に就職しながら貯めた金でマンションに投資して、それがとても高値で売れたらしい。アメリカでの4年間の生活費と学費が十分に出せる位のもうけが有ったと言っていた。現在のアメリカにいる中国人の友人は皆、金持ちらしい。殆どがBMWに乗っていると言っていた。この10年間の中国の変化は本当に凄まじいものがあったらしい。今ではマンションを持っていても、大分値を下げないと売れないらしい。 ・こんな話をしている内に、時間がドンドン過ぎていく。実は今日は6:30からもう一人、日本人であるKazが加わって、三人で日本食レストランに行く予定になっていた。KazからMiに電話が有って、彼がスター・バックスにやって来るまで待つ事になった。 ・3人が集まった所で相談をした結果、自分の車一台で出かける事になった。場所はトーランスにある「珠手箱」と言う日本料理店に行くことにした。少し高い店だったが、Meiも賛成してくれた。トーランスはトヨタ等の日本企業が多く集まっている所で日本人が多く、従って、日本にいる時と全く同じ経験ができる店がいくつかあるのだった。珠手箱には以前、行ったことがあるので、カーナビから店のアドレスを呼び出してセットする。後はカーナビの指示に従って走っていけば良い筈だった。 ・所が走りだした時には既に真っ暗だったし、その上、激しい雨が降ってきた。LAの高速道路は網の目のように道路が走っているのは良いのだが、それだけにICが数多く有ってしかも夕方過ぎということで車のラッシュ状態だった。車が中々前に進まなかったりするので、車線変更を繰り返した。所が雨で後ろの確認がし難かったこともあり、自分はまだLAの高速道路に充分に慣れていないことを思い知らされた。二回ばかり無理な割り込みをしてしまったが、それは本当に危ない所だった。相手の運転手が怒り狂って、そしてそれを示すために自分の車を追い無理に越していく、そして自分の前にいきなり割り込んできたのだった。相当、腹を立てたのだろう、ごめんな! 昼間、Miに教官気取りで、運転の指導をしたのが恥ずかしい位だった。彼女も少し不安を感じたらしい気配がした。 ・確かに今回は自分の方が悪かったと思ったし、事故にならなかったことを感謝した位だった。しかし、日本と比べるとアメリカ人の運転マナーは素晴らしい位に良い。無理な割り込みなど殆どされた経験がない。また、こうして車の中から観察した限りでは、交通ルールも良く守る様な気がする。しかし、その話を聞いたKAZは決してそんなことはないと言う。アメリカでは、車線変更をする時もウィンカーを出さない車が多いと言う話をしていた。兎に角、車線変更の時は、日本にいる時以上に慎重にやろうと思った。 ・その途端、カーナビが目の前のICで降りろと言う。このカーナビは動作が遅く、ディレーが大きいので車が通り過ぎてから指示を出すことがある。普通はLAの高速道は、ICで降りる車線は相当手前から専用車線が決まっているのだが、そうではない所もあるのだ。いきなり支持された場合、咄嗟にステアリングを切る事は禁物だった。にも、関わらず、時速100kmでいきなりコースを変えてしまい、アワやと言う思いをしてしまった。今回のアメリカ旅行では、都合4回も危険な目にあったのだが、その内の2回をここで経験してしまった。 ・珠手箱の料理は良かったし、ディナーは盛り上がった。とても楽しい時間を過ごす事が出来た。料理はインゲンのガーリック炒め、すき焼き風鍋、クリーム・コロッケだった。Miはすき焼きの肉を全く食べなかったが、また、自分には濃すぎると思った味付けなのに、味が薄いと言って醤油と七味を掛けて食べていた。珠手箱の料金は3人で$92だった。(割り勘だったが) ・夜遅く二人を送ってから自分のモーテルに帰った。冬時間になっているので、1時間も時計の進み具合が早い気がする。まだ夜の11時前だという気がするのに、もう実は12時と言うのは本当なのか! 途中でウイスキーを$8.77で買って帰った。 11月13日(土) YRと休日 ・今日は久し振りに会いたいと思っていたYRに会う日だった。汚い車で出かけるのは嫌だったので、久しぶりに洗車をしようと思って、インターネットで近くに安い洗車場を探した。近くのPIKO Drに$6で洗車出来る処を見つけ出掛けた。驚いた事に洗車場の敷地の中で、別の競争相手の洗車業者が6人のアルバイトらしき人物(全員黒人だったが)を使って、プラカード姿で行ったり来たり歩かせていたことだった。露骨過ぎないかと思ったが、中の一人の男にカメラを向けると右手を挙げてガッツ・ポーズを取ってくれた。気楽で明るくていいよな。 ・昼前に約束の時間12時の15分前にUCLAの駐車場に入った。しかしながら、駐車場の機械の扱い方が全く理解できなかった。後から来た人に聞いても良く分からなかった。結局、分かった事は、初めに駐車する時間を自分で決めてセットしてから、その分の料金をカードで支払うと云うことだった。機械の表示通りにやれば、特に問題はなかったのだ。 ・日本だったら、前金で支払うと云う話は聞いたことが無かったので、少しまごついたのだった。料金は一日コースで、$10で1時間では$3だった。それでも中には踏み倒していくのがいるのだろう。繰り返して言うが、アメリカ人は一般的に言って、日本人よりも公共のルールをはるかに良く守るといって良い。誰が見ていなくても、決められたルール(ここでは料金)はキチンと払うようである。何故ならば、支払わなかった事が見つかると、後で大きな問題になるからだろう。しかしながら、クラス社会なのでホームレスの様な人達も沢山いるのである。彼らの数は日本よりははるかに多い。そして、特にその様な人達であると断言は出来ないが、数ドルの為に機械を壊したり、平気で人を襲って金を巻き上げる様な人達も沢山いるということだと思う。だからこの様に機械でさえ前金を要求してくるのだ。日本と比較すると、いざという時の対応がチャント考えられているのだ。それに比べると、日本は比較的安心であるがゆえ、いざという時の準備が機械の造りも、人の心構えも あまりできているとは言い難い。 ・校内のアッカーマン(生協)の前でYRと待ち合わせしていたのだが、約束に少し遅れてしまった。駐車場の機械のせいだった。彼女が数日後にLAを離れてニューヨークへ行くということなので、思い出の詰まったUCLAの構内の写真を撮りたいという。そこで図書館やら食堂やらアチコチを二人で歩きながら、彼女が色々な風景の写真を撮っていた。 ・気がつくと1時をかなり過ぎていて腹も減ってきた。本当はチャンとした所で食べたかったのだが、時間もないのでカフェテリアに行く。ここでのメイン・ディッシュはハンバーガーとコカ・コーラである。それも日本のようなスモール・サイズではなく、どれもがかなり大きい。アメリカのハンバーグはマックでも他の店でもそうであるが、売っているものは日本とは随分違っている。日本のものは薄いアッサリした味のハンバーグが挟んであるが、アメリカのハンバーガーは肉厚のジューシーな本物のハンバーグが挟まれているのだ。だから、食いつこうとしても厚みが5cm以上あるので、行儀よく食べることが難しい。もちろん、一個食べれば昼食としては、食べ過ぎなくらいである。YRは半分くらい残していた。 ・昼食を食べていたら、2時間を廻っていたのだが、駐車場を出る時は1時間分の料金で済んでしまい、機械から追加料金を請求されることもなかった。この辺の設定の仕方が日本と違って鷹揚で面白い所だと思う。その代わり、意識的に料金を踏み倒そうとすると、例え数ドルでも逮捕されてしまいそうである。(そんな時でも、暴れたりすることなしに加算された罰金を支払えば、即座に無罪放免になるのだと思うが。) ・YRは2ヶ月もLAに住んでいるのに、まだ何処も行ったことがないという。そこで、まずロデオ・ドライブに行く。日本で言うと、銀座か、六本木のような所だ。街の中心部にあるCity of Beverly Hillsという駐車場に車を止めて1.75$/Hour を払う。銀座では考えられない安さだ。それから街中を行ったり来たり散歩する。広い道路に並んでいるヨーロッパを模した建物には、高級なショップやレストランが立ち並んでいる。しかし、土曜日だというのに、驚く程、人通りが少なくとても閑散としていて寂しい限りである。YRは買い物にはあまり関心がないというので、JJで有名になったHotelに行き、二人でトイレを借りた。洗面所には勿体無い豪華さだった。ホテルを出てから、ホテルをバックに記念の写真を二人で撮ってもらった。他に見る所も見当たらないので、ここはお仕舞いにする。 ・次はやはりYRの希望でダウン・タウンにあるSteplに行くことになった。そこで計画としては、ダウン・タウンでSteplに行ってから、有名な街中のサンセット・ドライブを通って、ハリウッドを抜け、映画で有名になった曲がりくねったサンセット・ドライブを通ってシー・サイドへ出てから、今度は海沿いにサンタ・モニカまでドライブして、そこで夕飯を食う事に決めた。 ・所がGPSの使い方に慣れていなかった事も有って道路が良く分からない。GPSに目的地を入れると、時間か距離の最短コースを標示してくる。自分のように遠回りをして走る為の道順を示してくれないのだ。アメリカのGPSは、日本では普通にある様な地図が出てこない。ただ、右へ行けとか左へ行けと指示してくだけである。従って、行き先の通の名前かアドレスを知らない所では、行き先の場所をセット出来ない。そこで、手動でいちいち地図を見ながら少しずつ目的地の少し先の場所をセットしていくのだが、サンセット・ドライブは環状道路なので、やりにくいことこの上ない。 ・Steplの駐車場はフリーだったが、イベントもなくただお土産屋があるだけ。ここにも人も殆ど居なかった。 ・例外的に人が溢れていたのは、ウェスト・ハリウッドで道路も大渋滞だった。しかし、YRは先週ここにミュージカルを見に来たらしい。それ以外は観光客だけの人混みは、あまり見たくないということだったので車を止めずにそのまま通過する。 ・そんなこんなで道を何回も間違えてしまい、挙げ句の果てまだ6時だというのに辺りは真っ暗になってしまい、細かな文字で書いて有る地図を読むことができなくなった。しかもYRがトイレに行きたいと言うので、近くにGSの有る所をGPSで探し出した。自分がガソリンを入れている間に、YRが一人でオフィスのトイレを借りに行ったが直ぐに戻ってきた。トイレに鍵が掛かっているという。そうなのだ。忘れていたが、アメリカではトイレを使う場合は、必ず係の人から鍵を借りて行く必要があるのだ。しかも、スペースが充分あるためなのか、必ず男女別にトイレがある。そこで二人で中に入って用を済ます。 ・S.モニカを目指して出発した。ところが途中で道を間違えてしまい、S.ドライブではなくユニバーサル・スタディオの方角に進んでしまった。時間も大分過ぎていたこともあり、ドライブを断念して高速道路に入ることにした。 ・高速道路は相変わらずICがめまぐるしく出現する上、辺りは真っ暗だったので道が良く分からない。間違った方角に行ってしまったので、次のICで降りて乗り直しまた同じ所に戻ってきた。所が同じICで再び間違ってしまい、同じ方向へ行きそうになってしまった。あいにく、後ろから高速車が追い抜きを掛けてきた所だったのだが、やり過ごしている内に通りすぎてしまいそうになった。そこで急ハンドルで元に戻ったのだった。そこでYRが一言。「ケンさんは結構無理な事をするのね!」 これが今回の旅行中で経験した3回目の危険であった。やはり、アメリカの道路は、まだ十分に慣れていない。事故を起こさないで本当に良かったと思う。一方で、真っ暗な高速道を走るためには、GPSは必須である。それも日本のような高級な地図付きのものではなく、シンプルな指示(右行け or 左行け)のみのアメリカ製が必須であると思った。 ・サンタ・モニカでは市営の駐車場が一杯だった。何とかホテルの駐車場に入れることができたのだが、料金は高く$10だった。街の中を二人で行ったり来たりしながら、レストランを探した。丁度、アジアン系のブッダという店が良さそうだったので、そこに決めて中に入る。順番待ちの行列ができていた。中は結構広いスペースだったが、人でごった返していた。テーブルとテーブルの隙間が狭く、人がやっと通れるくらいぎっしり並べてある。そしてどの席も一杯だった。 ・LAやS.シスコ、そしてパルアルト等で、今一番人気の先端はこうしたアジアン系のレストランである。と言っても中華料理ではない。日本=和食系でもない。ただし、ヤキソバはこの様な店では何処でも、最近人気が高い様である。見た処ではどちらかと言うと、バリ風とベトナム風の雰囲気で、結果としてアメリカのニュー創作料理であり、味はメキシコ系が加わった感じである。兎に角、辛い、ショッパイ、そしてやはり本場のアジアン系料理と比べると、格段に脂っこいのが難点である。 ・我々はサラダ、ヤキソバ風、サーモン・ステーキを1皿づつと、アルコールを頼んだ。(もちろん、はじめの一杯だけ。)しかし、1皿を二人で食べても食べきれず、結局、全ての皿で食べ残してしまった。料金は二人で$37.15だった。(割り勘だった) ・夜、YRを家まで送っていく。自分のハーフ・ムーン・モーテルに帰った時は、既に12時近かった。今日は自分の若い時を思い出させるような、とても楽しい一日だと思った。 11月14日(日) Rose Café & Party@Taka’s House ・今日は今となっては既に懐かしいクラス・メート達がランチに招待してくれた。メンバーとは、YO、MINA、YUKI、YU-KIと自分の5名で、場所はRose StreetにあるRose Caféという所だった。 ・Venis stを西にまっすぐに進んでいくとS.Monicaビーチの横を通っているR1に出るのだが、その海岸通を北に右折して少し走るとRose Streetに出る。その角の所に大きな駐車場があって、一角にRose Caféがあった。 ・店の中は普通のカフェと変わらないが、周囲が背の高い生垣で囲われた大きな庭があり、そこにテーブルと椅子が沢山並べられている。テーブルも椅子もプラスティック製でどういうこともないのだが、実際に座ってみるととても居心地が良い。明るい日差しの中で、日陰を通って伝わってくる風がひんやりしてとても気持が良い。こんなに気分が良いところがあるのに、屋根や壁に囲まれた室内に入りたいという人のいる気が知れない。ここはS.Monicaに住んでいるというYukiの行きつけの店チウだけのことはあると思った。 ・料理はサラダを中心にした大皿料理を一皿と、その他に各人が好みの物を一品ずつ頼んだ。お勧めはベジタブル入のオムレツ。話をしながら、皆で写真をたくさん撮った。 ・店を出てからS.Monicaの中心街に行く。2時間無料の駐車場が何箇所かあることを知ったのはこの時だった。 ・今夜は高さんの部屋で10人位人が集まってパーティをやるので、それに参加することになっていた。集まるのが夜なので、多分、食べるものが有ると思う。7時頃になって家を出たのだが、午後の遅い昼食を食べた後なので全く腹が減らない。そこでampmで寿司弁当とオニギリを買って持っていくことにした。 ・ampmの駐車場でカーナビをセットしたが、考えてみたらクロスする通を知っているだけで、家の番地(番号)が分からなかった。しかし、近くに行ってみると、道路にMeiが立っていて、隣に金髪の大柄な女性がいた。彼女を紹介してもらったが、ロシア人で名前をOLGと云った。彼女達は、乗せてきてもらった車が道路脇に幅寄せするのを見ていたのだった。車の中には知った顔があった。 ・宴会はコリアの男性が2人、コリアの女性が1人、台湾女性1人、高、Mi、Kaz、Kor、自分の9人で始まった。集まった連中は、全く不自由なしに自由に英語を喋る。中でもコリアの男性二人は年齢が27歳と32歳でナイス・ガイであったが、とても良く喋る男だった。2人で全員の殆ど半分位の会話を占めていた。今は大学に通っているらしいが、つい最近までUCLAの語学コースにいたと云うことだった。 ・Face Bookを見て後から分かったことであるが、UCLAの語学コースにいる自分の友人であるMnとは以前、同じクラスだったということで仲が良いらしい。「友達の友達は友達である」とは、良く云ったものだ。Face Bookをやっていると、こうやって段々とリアルに人と人が繋がっていくのが形として見えてくる。 ・料理は女性陣が大分前から来ていて作ってくれたというヤキソバだった。自分は帰りに車を運転しなければならず、アルコールは飲めなかった。アメリカでの夜の最大の欠点がここにあると思った。しかし、ここに集まって来る連中の目的は、もちろん食べることではない。互いに友人を紹介し合いながら、コミュニティの輪を意識的に広げて行こうことと、いろいろな情報を知りたがっているようだった。 ・自分は旅行で短期間アメリカに来ているだけであったが、それでも彼らの気持が痛いほど感じられた。何故なら、ほんの数カ月ここに暮らしているだけでも、寂しくてしょうがないのだ。ましてや授業が英語で行われるのはもちろん、英語の議論に参加し、沢山の宿題を出されてそれを期限までに参考書として読まなければならない。更に学期に二本のエッセイも書かなければならないのだ。更には卒業後の資格が自国に帰ってから評価されるという保証もない。就職もうまく出来るかどうか分からない。ヨーロッパから来た連中はともかく、アジア系の連中には精神的にかなり強いストレスが溜まるという。特に大学でのキャリアが、自国で通用するかどうかわからないので、卒業後にアメリカで就職してしまうと余計に帰国する機会を見極めることが悩みのタネになるらしい。アメリカでこのままずっと暮らしていくという選択肢が有力候補になってくるという理由もよくわかる。 ・しかし、それにしても彼らを見ていると、中国人や韓国人のバイタリティの強さには本当に感心してしまう。語学スクールには日本人、特に女性を沢山見掛けることができるが、大学生となると日本人の数が彼らと逆転してしまうのだ。これは日本人がグローバルに戦っていくことに関しては、かなりの苦戦が予想される出来事であるに違いないと思う。何しろその位、日本人と彼らアジア系の学生では、発言力の大きさに差があるのである。これからの日本は、外国に学ぶというよりも外国に対して主張しリーダーシップを取っていく必要があると思うと、尚更寂しさが募ってくる。 11月15日(月) Mn&YK2に招待され語学学校を訪問、後Miに会う ・午前中はMnとYk2に誘われて、Benのクラスに飛び入りで参加した。と言っても授業は映画鑑賞だけで、鑑賞後の議論は次回にやるという。従って、殆ど黙ったまま映画を見ているだけであった。それにクラスの半分以上は自分が知らない学生達だった。逆に言うと半分位は知った顔だったが。このクラスは上級だということで、自分が先月、所属していた初級コースよりはレベルが何となく高そうである。Benとは最後に数分間、話ができただけであった。 ・午前中の授業が終わると、MnとYk2が昼食に招待してくれた。ウェスト・ウッドでは人気が上昇中のアジアン系の洒落たカフェで、殆ど日本で食べるのと同じレベルの寿司を食べる事ができる。店内の雰囲気もアジア系で、とても落ち着く内装だった。この場所で、3人で同じ寿司を食べながら、話が弾んだのだった。 ・しかし、ウッカリしてしまい彼らには午後の授業があり、ゆっくりとしていることは出来なかった事を忘れていたのだった。気が付いてみたら既に、午後1時を大分過ぎていたので、早々に再び何処かで会うことを約束して、二人に別れを告げた。 ・そして考えてみたら、自分も今日は午後2時にMiと、彼女が通う大学で待ち合わせをしていたのだった。と言っても、実は彼女が大学を代わる手続きの最終日が今日の午後4時だということで、自分が足の役を頼まれていたのだった。高速道を使えば、30分位で学校に着けそうだった。カーナビをセットする事が、面倒だったのでそのまま頭の中にある地図を頼りに出発した。 ・しかしながら、途中で降りるICを間違えてしまい道に迷ってしまった。そしてついに、自分が今、何処に居るのかさえ分からなくなってしまった。そこで、当然、カーナビを取り出して、大学のある通りを地図で調べて、クロス・ストリートをインプットする。後はカーナビの指示の通り行けば良い筈だった。 ・大学に着いてみたら時計は午後の2時を少し廻った所だった。ここは殆ど学生が見当たらないガラーンとした所であった。そういえば何処で待ち合わせするかを決めていなかったことを思い出した。携帯で電話をしても、電波が通らない所にいるらしい。事務所のような所を探して、若い女性の事務員に彼女の所属を調べて教えてもらい、ついでに電話も掛けて貰った。 ・MiとS.Monica大学に着いたのは3時頃だった。この学校はさっきの所とは大分、雰囲気が違っており、キャンパスに学生が大勢溢れかえっていた。何人もの学生に道を聞きながら、やっと編入の手続きを行う建物を見つけることができた。 ・夕方はMiとチョット感じの良いカフェに行く。二人で一人分のチョコレート・クレープを分けながら食べいろいろな話をした。二人の間には大きな年齢の差があったが、クラス・メートまたはルーム・メートの関係ということもあり、勘定は割り勘にする。二人で$11.47だった。 ・今夜は再び、Half Moon Motelに泊り、料金は$53.76を支払う。明日は待望のデス・バレーに向けて朝早くに出発する予定だった。 11月16日(火) デス・バレーに出発 ・朝、いつもよりも少し早くLAの常宿にしていたサーフ・モーテルを出た。サポタブル通りとピコ・ストリートの角にあるGSでいつものようにガソリンを$20分入れ、ついでに備え付けてあったスポンジで窓も綺麗に拭いた。そして、もうおなじみになってしまったRoute 1に乗る。ただし、今回はいつもと違って、途中からRoute 405入りそして更にRoute 14を使って北東の方向に舵をとった。この道Route 14は初めて通る高速道であったが、LAの周囲を通っている他の道路と大きな違いはなかった。ただ、他の道路より走っている車の数が随分少ないように感じられる割には、不釣合なくらい道路の車線の数が多い。広い道路が果てしなく荒れ果てた荒野の上を通っている。この様な眺めを見て改めて思うことは、南カリフォルニアは砂漠地帯で有るということである。LAは砂漠の上に人工的に作られた街だという実感がある。Route 14は途中からMojaveという町まで真っ直ぐ北上しているが、その町から先は全くの荒野に向かって伸びている様だった。 ・Mojaveという町は全くの田舎町であまり活気があるようには見えなかった。マクドナルドはなかったが、何処にでもあるようなファスト・フードの店が有ったので、トイレ休憩を兼ねて中に入った。コカ・コーラを飲みながら地図を確認すると、やはりこの先は周囲には何もない荒野の様だった。道路は舗装されていてとても良い感じであったが、もちろん片側一車線であった。しかしながら、こんな道でも、通過していく車が結構沢山走っていることに逆に驚きを感じてしまう。 ・そんな道を暫く行くと全くの荒野の中に、何の目印もなかったのだが右手に分かれる分岐点があった。恐らくそこがRoute178に入る近道だと思って迷わず右折した。この田舎道は本当に原野の中を通っていた。周囲に人の気配は全くなく、もちろん家などの人工的なものは全く見当たらなかった。車の陰は後ろにも前にも全く見当たらない。見渡す限りの広大なスペースを、自分が独り占めしているということは、全く心細い感じである。しばらくはガソリン・スタンドもないだろうし、第一、このままずっとこんな様子が続いたら、今日の夕食やベッドだって有るかどうか分からないではないか。そんな事を考えていると、段々、不安になってくる。 ・道路の状態もとても良いとは言い難いもので、ガタガタしているだけではなく、上下に小さくうねっているようだった。所々、砂が積もっている所もあった。もちろん、ガードレール等の境界を示すものはないが、下手をして道路脇に車を止めようものなら、以前、オレゴンの山道で経験したように、タイヤが砂地に潜ってしまうのではないかと云う不安も頭をかすめた。荒野の所々には、真っ白い砂地様な物が見えてとても綺麗な感じだった。 ・しばらく、英語の学習のCDを聞きながら走っていると、なにやら人家のようなものが見える所に出た。地図を見るとSaltdaleという町らしい。メイン・ストリートに出ると、家がそれでも7、8軒並んでいた。しかしながら、どの家にも人の気配が全くなく、荒れ果てた町の様に見えた。家は全て木造で、半分壊れかかったような粗末なモノばかりだった。こんな所まで来て人に会ったら、懐かしいと言うよりは逆に怖いのではないかと想像してしまう。 ・所がほぼ町の中央に、西部劇に出てくるようなバーらしき店があって、中から人の声が聞こえてきた。店の前にはオートバイが2台並べて置いてあった。まだ昼飯を食べていなかったので、もしかしたら何か食べるものがあるかも知れないから、様子を見ようと思って中に入った。するとカウンターの中に、想像していたより若くて元気な女性(40歳位)がいたので思わず挨拶を交わした。店の中にはカウンターの他に、小さなテーブルが幾つか有った。しかし、そのテーブルは昔、日本のゲーム・センターでよく見かけたものと同じで、ゲーム機がついているものだったので、少しイメージが壊されたような気がした。そんなテーブルの一つに、革ジャンと川のズボンで身を包んだガッシリとした中年の男性が、二人向い合って何かを食べているようだった。外から聞こえていたのは、この二人の話し声だった。 ・自分はハンバーガーとコカ・コーラを注文した。ハンバーガーの焼き具合と、それに付け合せは何が良いかと聞くので、何があるかと聞くと、ポテトと何とかがあると云ったので、ミディアム焼きとポテトを頼んだ。すると出てきたのは、ポテトチップスの小さな小袋であった。しかしながら、ハンバーガーはマクドナルドで出てくる様な不味いものではなく、本格的な厚いハンバーグであった。上下に乗っかっているパンは、ハンバーグより随分薄いもで、コレこそ付け合せのような感じだった。ハンバーガーはとても美味かった。ポテトチップスは普通のポテトチップスだった。これで、全部で$15だった。  ・二人のオッサンと何かを話したかったが、仲の良さそうな二人連れはまもなく外に出てしまい、結局、この家の中には人が二人しかいないのではないかという気になってしまう。彼女とは色々話をしたが、個人的なことは聞くことが出来ず、当り障りのない話で終始した。所々に見える真っ白い砂地は、実は塩の固まったものであることが分かった。 ・更に進んでいくとRoute395に出た。そこを少し行くと分岐点があり、そこにはハッキリとRoute178の標識があった。実はここがデス・バレーへの本格的な入り口だったのだ。Route178はデス・バレーの中を走っている幾つか有る観光者の多い道路である。完璧に舗装された素晴らしい道路で、通る車の数こそ少ないが全く不安を感じさせる様な道ではなかった。ただ、両側に見える景色だけが、山と荒野と砂地の様な何もない原野であった。 ・空には雲もなく晴れ渡った空に、11月だというのに熱い太陽がギラついていた。日を浴びるととても熱く感じるのだが、空気が冷たく冷えているのでとても爽やかな感じである。空気はとてつもなく乾燥しているようだった。少しくらい歩きまわっても、全く汗をかかずとても水さえ持っていれば、とても快適な散歩が楽しめる感じがした。 ・しばらく走るとダート・コースに入る道があった。地図を見ると、少し遠回りになるが点線であるが、地図にも載っている道のようだったので、行って見ることにした。ダート・コースなので自分が走った後に、凄まじいホコリが立つ。道路は思ったよりデコボコで、車を他に見掛けるような予想は全く出来なかった。しかも曲がりくねっているので、まもなく方向感覚が全く分からなくなってしまった。 ・景色は遠くから見ると砂漠であるが、砂漠のまっただ中にいると大きな巨石が転がっていたり、丘があったり谷があったりして変化にとんでいる。もしもここで戦いがあったらば、隠れて待ち伏せすることは容易である。チョット岩陰に身を潜めれば、周囲からはなにも見えない。もしかしたら次の大きな岩の陰で、裸の男女が抱き合って寝ているかもしれないなどと想像してしまう。 ・夕暮れが近づいてきたので、あまりゆっくりせずにひたすら同じような景色を見ながら走り続けた。自分でも何が楽しいのか良く分からないが、日本では経験することが出来ない程、ワイルドであるが一人きりの寂しいドライブであることは確かだった。 ・こんな調子ではしりつづけているとRoute190に出た。舗装された立派な道路である。R190を走っていると、Xanterraと書かれた大きな牧場の宿舎のような、外観が木造建てのモーテルがあった。まだ、時間が早いのだろうか駐車スペースにあまり車が止まっていない。数台の大型のキャンピング・カーが止まっている場所があったので、近づいていくと車の中からがっしりした男性が丁度出てくるところだった。 ・話を聞くと、彼はカナダ人で仕事を退職した後、奥さんと二人でこうしてもう4ヶ月近くドライブ旅行をしているという。途中から奥さんも加わって、話が弾んだ。多分、長い旅行を続けていると、お互いに人恋しくなるのではないかと思う。 ・このモーテルがある場所は、ストーブパイプ・ウェールズ・ランチという。この近くで物が買える貴重な場所らしいが、買えるものは缶詰にボトルの水等のみで、本当に小さな売店と言った感じである。 ・このモーテルのフロントに置いてあった案内によると、この付近での気温は今の季節が凌ぎやすくとても爽やかであるが、通常は相当な熱さらしい。昨日の最高気温は75度Fで最低気温は42度Fということだった。それがこの近くの標高がマイナスとなるファーナス・クリークでは、同じく最高気温が89度Fで最低気温は56度Fということだった。僅かな距離の違いで温度が7度Cも違うのだった。もちろんコレは標高差によるもので、ファーナス・クリークは標高がマイナスなのである。温度がドンドン上がる所が面白いと思った。 ・ファーナス・クリークでは、今年の7月15日に今年の最高温度を記録したらしい。気温が52度Cまで上昇したらしい。一方、今年の最低気温は1月15日に記録したマイナス2度Cということだった。11月の現在でも、シェラネバダに向かう道路は既に雪で閉鎖されているとのことだった。 ・デス・バレーにおける見所の一つはサンセットとサンライズの空の色ということだった。アメリカ人はキリスト教徒が多いので、日本人のように日の出は見ないのかと思いきや、太陽を拝むのではなくその何とも言えない美しさに酔いしれるらしい。日本では空が赤く染まれば染まる程、喜ばれるがここではソフトな7色のグラディーションの変化を楽しむのが正しい鑑賞法とのことだった。 ・フロントで聞くと、この近くにはモーテルは他にない様だった。小奇麗な、所謂、アメリカを旅行する普通の人が宿泊する施設であろうと思うが、料金は$90で自分としては少し高い感じがした。しかし、部屋の中に入ってみると、実にシンプルでキチンとしていたし、毛布もベッドも十分に清潔な感じだったので納得出来る価格だと思った。 ・食事は体育館の様に広いスペースの中に、がっしりしたアンティークなテーブルが20個位並べてある食堂で食べる。食べ物は、ここと売店で売っているものの他は何処に行っても手に入れることができない、陸の孤島である。食事そのものは、特に印象に残るようなものではなかったが。 11月17日(水) デスバレー・ドライブ ・Route190は観光道路であった。周囲の景色は雄大な砂漠出であったが、道路自体はよく手入れがされていて、とても快適に走る事ができる。ただし、日本の観光地のように、何人かの人が買い物をしているような売店があったり、物売りの旗やドギツイ看板があったりするようなことは全くない。目に入るのは、何が変化することもなく横たわっている雄大な景色、何処までも続くコンクリートの道路、時折、遠くの方を走っているのが見える車の陰、それだけである。空にはもう何日も雲を見ていない。真っ青な空。他には静けさ以外は何もない。 ・しばらく行くと観光ポイントを示す看板があり、既に何台もの車が駐車場に泊っている所があった。早速、車を止めて降りてみると、目の前に一面が真っ白い砂に覆われた映画のシーンに出てくるような光景が広がっていた。見渡す限りと言う訳ではなく、限定された地域においては正に典型的な砂漠のイメージそのものであった。しばらく砂の上を歩いて見た。部分的に見れば、海岸で見掛ける砂浜に似ている。しかし、はるかに広範囲に広がっているので、風紋が小高い丘の上に幾つも続いていて素晴らしい風景である。 ・この道路の周辺には幾つかの歴史的な遺物や観光地としての見所があり、そこには必ず大きなディスプレイに詳細な説明文が書かれている。もちろん売店や休憩する場所はないのだが、大きな駐車場とトイレだけはチャント整備されている。大学生らしい大勢の一団が、バスでやって来て、先輩らしい学生に説明を受けていることもあった。歴史の浅いアメリカではこの様な遺跡は貴重な存在なのだと思うが、きちんと残されている。ただし、当然のように、荒野のまっただ中なので、管理者の姿は全く見えない。それでも誰も荒らす者や落書きをするような人がいるという感じは全くしなかった。 ・途中から再びRoute178に入った。Route190との分岐点の名前は、ファーナス・クリークといい、デス・バレーでは最大の町出ある。と言ってもいえは数件有るだけであるが、チャンとビジター・センターや売店がある。 ・ここからは南下していくルートになっている。今、自分がいる地点は、標高がゼロメートル地帯なのであるが、車のアクセルを全く踏まないのに、車の速度がドンドン加速していく事がわかる。道路は殆ど水平に見えるのに、そして、この先には何もこれといったものがない真っ直ぐな道路なのに、何かの力によってズルズルと地底に吸い込まれて行くような、全く不思議な体験だった。実は、標高が更にドンドン下がっているのである。 ・標高が最低の場所ではマイナス90メートル以上有るらしい。ここはBadwater Basinというポイントである。下から崖の上を見上げるとほぼ中腹位の所に「Sea level」と書かれたサインがあった。その場所は観光名所になっていて、付近は白い塩の様な湖が広がっている。近くによってみると、やはり塩の塊で表面は固くツルツルになっていた。大勢の人達がその上を歩きまわって、互いに写真を取り合っている。自分も記念に写真を撮ってもらったのだが、他に何もすることがない観光地なのでそそくさと出発した。 ・ここから僅か数キロ南下すると、今度はドンドン土地がせり上がっていき、標高3367mの山が目の前に広がる。しかしこの山の下の所を通り過ぎてしまうと、やがてRoute127に出てしまった。車を走らせている間は、この家が一軒も見当たらない荒野が永遠に何処までも続くのではないかと思うくらい延々と続くのであるが、それも終わってしまえばあっという間の事だったような気もして来る。そう感じたのはRoute127に出るといきなりShoshoneという小さな村があって、そこには通常の人々の暮らしが有るのを見たからである。 ・丁度、お腹もすいてきたので、一軒のカフェに入った。中はかなり広くカウンターとテーブル席が幾つか並んでいたが、客は誰も居なかった。ここで、いつもの様にハンバーガーとコーラを注文する。ハンバーガーの焼き方はミディアムにして貰う。自分にはチョットエアコンが効きすぎて寒かったので、入り口のドアの両側の外に3つ有った大きなテーブルに移動した。外は、気温は高いのだろうが、湿度が低いので日陰にいるととても気分が良い。少なくともエアコンの効き過ぎた暗い部屋の仲にいるよりは、ずっと気持が良い。後から二組の客が来たが、彼らも外に出ているテーブルに出てきた。 ・従って、自分は自然に彼らと話をすることになった。話といっても、たわいない話題しか無いのだが、一日中一人きりで運転していると、この様な時間がとても貴重なもののように思えてしまう。実際に話しができることが、なぜかとても嬉しく感じられる。 ・そう言えば、先回のカリフォルニア旅行で温泉を探し歩いている時に知り合った若者が、自分が今までに行った温泉の中ではTecopaが一番だったと話していたことを思い出した。そのTecopaは地図で見るとここからわずか12,3kmの距離にあった。そこで彼らに温泉の話をしてみたが、温泉のことは知っていたがあまり関心は無い様だった。しかし、場所は丁寧に教えてくれた。 ・カフェでトイレを済ましてから出かけることにした。このトイレというのは、店の外の建物の横に有るのだが、木製の冊と同じ材質で作られたもので、荒々しく、古ぼけていて、安っぽくて、素朴なものだった。そのドアを開けると、中に家畜小屋の様に大きなトイレ室があった。しかもドアはカギが壊れていて、チャンと閉まらないのだった。一体、ここで働いている娘さん達はどうしているのだろうか? 家の中に別の自分達専用のトイレがあるのか? ・Tecopaという町について見ると、ここは西部劇に出てくるような寂れた所だった。家がポツンポツンと何軒か見えるのだが、それでも土の家の前にも数台の車が泊っているので、チャンと人が住んでいるのだろう。車は全て古ぼけた奴ばかりだった。お目当ての温泉場は直ぐに見つかった。しかし、どうにも自分がイメージしていたものとは合わないので、何となく入っていく勇気が出ない。というよりも、期待感やワクワク感が湧いてこないのだ。そこで、周囲の写真を撮っただけで、中に入ることは止めておくことにした。 ・今日の宿泊はRoute15の終点、すなわちRoute15にぶつかったBakerという町で見つけることにした。何故ならば、明日はいよいよラスベガスに行くので、距離的にはその辺りが丁度良買ったからである。 ・Bakerもあまり元気な街ではなかった。この街の南側一体は “Mojave National Preserve” と言って、国立の保存地域なのであるが、別に特にどうということのない砂漠のような原野が続いているだけで、要するになにもない所だった。Route15に沿って、タコベルとか何処にでもあるフランチャイズの名前だけは有名なレストランが数軒有るだけである。それもありふれているだけと言うよりは、店の中がただ広いだけで客の人影が少ないために、とても寂しい感じがするのだ。物を売っている店も、日本の田舎にある様な萬屋のような店しか見当たらない。中に入ってみると、ポテトチップスの袋のようなものしか売っていない。 ・モーテルは数軒有ったのだが人影が見当たらない寂しいところばかりなので、中でも一番きれいな建物を選んでそこに決めた。他の所と比較する気にもならなかったが、値段は税込で$58だった。 ・シャワーを浴びた後、夕食はタコベルのテイク・アウト、萬屋でポテトチップスとビールを購入してモーテルで食べることにした。モーテルは1階建ての棟が長く続いている建物であるが、どうみても今夜の宿泊客は自分だけのようである。従って、窓を開け放して寝ていても、何も盗まれる心配はないように思われた。 ・ビールをいい加減飲んでから気がついたのだが、このモーテルではWifiが出来る場所が限定されていて、受付の横のスペースだけであった。そこで、寂しいこともあって、ずっとその場所で、一人で日本の友人達も含めて、思い出す限りの人達にメールを送ったのだった。アメリカに来てこの様な気持ちには何度か襲われたことがあったが、今回の旅行で気がついた事は、一番重要なことは人との繋がりだということが本当に強く実感することができた。例え、年齢が離れている自分の娘のような友人がとても大切だということが分かったのだ。それが理解できただけでも、今回の旅行は自分にとって大きな価値があるということが出来ると思う。 ・翌朝、いつもの様に朝の散歩に出かけようとしてふと自分の玄関前に止めた車を見ると、なんという事か助手席の窓が開いているではないか。急いで中を調べると、確か運転席の横にあるボックスに入れておいた筈のディジタル・カメラが見当たらない事に気がついた。誰もいない様に見えたが、やはりチャンとカモはチェックされているのだと悟った。今回の旅行では、2度もディジタル・カメラを盗まれたのである。しかも、車の中に置いておいてという、同じ失敗を繰り返したである。何処の誰に盗られたのかは分からないが、アメリカではチャンと注意をしていなければ、非常に高い確率で狙われるのだという事を、今度こそ肝に銘じて再認識させられてしまった。 11月18日(木) ラスベガスへ ・いよいよ、カーナビをラスベガスの中心地にセットして、名前だけは有名なその街に向けてBakerを出発した。Bakerからラスベガスへの道は、車線が沢山あってしかも良く手入れされた道でとても走り易かった。しかし、もどこまで走っても見えるのは砂漠地帯と言っても間違いはない荒野だった。道の両側に見える景色として、荒涼とした荒れ果てた大地が続いている。しかもカーブがほとんど無くだだっ広い道が延々と続いている。そこをただヒタスラ走り続ける。 ・そうこうする内に、前方に突如として大きなビルが現れた。恐らく見間違えること無く、キットあれがラスベガスという町だろうと思った。確かにそれはラスベガスという名前の街だった。しかし、近づいて見ると、予想に反してそれらのビル群を通り越しても、大きなビル群が延々と続くのである。自分が想像していたのは、カジノ・ホテルが20軒位あって、そこに集まる客と従業員の生活を維持するに必要な施設があって、恐らくは半径が数キロメートルに満たない小さなエリアにビルだけが固まってできている人口の街であった。しかし実際に来てみると、ラスベガスは高速道路のICの数が無数にあるあるとてつもなく大きな大都会であった。 ・コレでは何処のICで降りて良いのか全く検討がつかない。カーナビは街の中心地にセットしたのだが、そこまではまだ64kmも有った。この時は、幾らなんでもそれは信じられに事だったので、適当なICで兎に角一度降りてみようと思った。いい加減に見当をつけてICを降りたのであるが、結果としてそこはカジノで有名な街の中心地帯であった。何故、そう思ったかというと、IC近くのガス・ステーション&コンビニエンス・ストアに置いてあった観光ガイド地図を見ると、自分がいる現在位置を中心にしてこの周辺部分しか載っていなかったからである。その地図によると、観光客用と思われる電車が走っているし、有名なホテルが近くに点在しているようだった。 ・このGSでガソリンを補給し、水とホット・ドッグを買って車内で地図を見ながら食べる。さて今夜は何処に泊まろうかと思って無料のガイド・ブックを探す。ラスベガスでは有名な高級なホテルの宿泊代がとても割安で泊まれるらしい。しかし、自分は泊り慣れた何時ものモーテル・チェーンを幾つか選択して絞込んだ。3つ程、電話を掛けて料金を確認した結果、スーパー6に2泊することに決めた。ここは、料金は67ドルであったが、さすがにラスベガスだけ有って、部屋の設備は独り身には申し分がなかったし、今までの泊まってきたスーパー6よりも少し豪華な感じがした。シャワーを浴びて、コインランドリーで溜まっていた洗濯をしてから、早速、町の探検に出かけた。ここは中心街だけあって、大きなビルが林立しており様々なホテルが軒を並べていて、しかもどこでもカジノを開いているようだった。その内の一軒である大きなホテルのカジノに入ってみた。 ・だだ広いスペースの約半分が幾つかのルーレットのスペースになっていて、残りのスペースには何十台 いやそれ以上の数え切れないくらいの数の色々な種類のスロット・マシンが並んでいた。専用のコイン用の自動販売機で10ドル分のコインを買って、早速、スロット・マシンを試してみた。幾つかが当たり点数が一挙に増えるが、結局、瞬く間にTotの持ち点がゼロになった。そして、もう一度コインを購入して別の機械を試してみる。やはり、同様の経過を辿って、同じ結果になった。 ・どうも機械の調子や必要なテクニックが、イマイチ飲み込めない。と言うよりものめり込んでしまうような、ワクワク感やドキドキ感、楽しさがあまり湧いてこない。そうかと言って、ルーレットでもう少し大きな賭けをしてみる興味や勇気も出てこない。何故、皆はカジノが好きなのか、以前、一緒に行こうと誘われていた友人が、誰も行く仲間がいなかったら、一人でも行こうかなと言っていた事が、全く信じられなかった。 ・それでも時計を見ると、かなりの時間をここで費やしたことに気がついた。意気揚々とではなく、何となく義務を果たしたような気分で外に出た。外は既に暗くなっていたが、それを弾き返すかと思えるような、ただドギツク明るいだけのネオンサインがアチコチに目に付く。しかし、何となくイメージしていたラスベガスの眩さとは何かが違って見えた。人通りは思ったより少なく、街全体の規模も小さい感じがした。自分でも良く今の気持ちを表現できないのであるが、少なくとも手元にあるディジタル・カメラで街の様子を撮影してやろうと言う気持が湧いて来なかった。 ・おそらくは、街を歩いている人は殆どが観光客で、しかもその多くは金があまりないかカジノそのものに興味が薄い、従って、この街ではあまり重要な客ではない人種なのだろうと思う。上客達は今頃、何処かのカジノで楽しくやっているか、何処かの劇場かあるいは豪華なバーで煩い夜を過ごしているのだろう。 ・町の明るさを求めて、しばらくアチコチを歩きまわって、コレと思える様な所を見つけて中に入って覗いてみた。しかし、結局、有名なホテルで行われているだろう、華やかなショーは見なかったが、ラスベガスらしいカジノの雰囲気は大体、何処も似たような感じでやはり心に描いていたラスベガスの楽しさやワクワク感が湧いて来なかった。コレは仲間と一緒ではなく、一人で訪れた事で気分がリラックスできていないことによるものだろうか。 ・大分、時間が経過した所で腹が減ってきて、まだ自分が夕食を食べていないことに気がついた。しかし、一人ということもあって、同様に一人でテーブルを占領することになる高級レストランに入る気が起きない。そこで、金をあまり持っていない観光客相手の食堂が集まっているフード・コートの様な所を探した。その様な場所は直ぐに見つかったが、料理の内容も味付けもただ空腹を満たすだけで味気ない夕食だった。 ・ホテルに帰ったが、何となく満たされない気持ちだった。そこで、フロント行き、既に二泊分の金を支払っていたのだが、一泊分をキャンセルして明日の朝、早々にここを出発することに決めた。 11月19日(金) グランド・キャニオンに向けてルート66をドライブ ・今日の予定は、できるだけ明るい内にグランド・キャニオンの入り口近くの街に行く事だけであった。そこで地図を開いて調べた所、ラスベガスから南東に100km程、真っ直ぐに伸びている国道93号を南下してキングマンまで行く事にした。キングマンでは、アメリカ大陸を東西に走る大動脈ルート40号にぶつかる筈だった。 ・ルート93は如何にもアリゾナの大地らしい荒れた荒野の中を走る道であった。しかも、昨日通ったカリフォルニアの砂漠の様な荒地とは、幾分趣が違っている様に感じた。何が違うかというと、アリゾナの方は、起伏のある丘が続いているのである。丘といっても日本のように緑に包まれた幸せな丘ではなく、行けども行けども木にも草にも覆われていない荒れ果てた土の連なりである。土地は何にも活用されることも無く、ただ無残に放置されている。その様な荒野を、ハイウェイがつら抜いていて、多くの車やトラックが疾走していく。ハイウェイと言っても、日本の高速道路のように整備された冊のある道路ではなく、ここには当然のことながらガードレールもない。当たり前だ、こんなダタ広い土地に延々と続く道路に、いちいちガードレール等建設する意味もないし、作ったところで何の効用もないのだから。 ・道の両側には家らしいものは見当たらないし、もちろん店もなければサービス・エリアのようなものもない。女性がトイレに行くとしたら次に現れるGSが頼りである。後でGoogleの航空写真でこの道路を調べてみたら、本当に砂漠の様な所が延々と続くばかりで、キングマンの街まで道路に近くには家は一軒もないように見えた。 ・キングマン自体はそれなりに大きな、街であったが隣町とは当然、孤立している訳である。アメリカ全土にはこの様な大自然の中に、日本人から見れば全く孤立している様な小さな町が何千とあるに違いない。自分にはこの様な街にはとっても住む気になれないと思いながら、GSで燃料を補給した。 ・あまりゆっくり休憩する気にもなく、直ぐにルート40を東に向けて走りだす。この道路の周辺の土地も構造物が有る訳でもなく、荒野が続いていた。しかしながら、今までのような荒れ果てた起伏のある荒野ではなく、所々、平原が広がっていて木々や草原が見えるので、人が住もうと思ったら住めるような所である。ルート40はとても素晴らしい道であるが、この道を走り続けていても新しい景色は見ることが出来ない。しかし、しばらく行くとヒストリカル・ルート66という看板が出てきた。 ・ガイド・ブックで調べると、昔、この辺りに確かに今はなきルート66が通っていたらしい。地図で調べると今でもこの付近では、カリフォルニアのブルベッド・シティからアリゾナのウィリアムズという街まではルート40とほぼ並行して実際にルート66という道路が走っている。ウィリアムズから先は、地図ではルート66はルート40に吸収されてしまい名前が並行してついていた。 ・今では国道として使用される通り抜け出来る道路ではないが、探せば部分的に当時の道路が残っている所が有るらしい。実際に旧道であるルート66を走ってみると、ヒストリカル・ルート66と謳っている割には、道路が比較的新しい感じである。実際に近くの村の人達が使っている生活道路の様な感じである。そこで、本当に当時の道路の片鱗でも見つけられたら儲けものと期待しながら、できるだけルート66という名前のついた地方道を走ることにした。 ・しばらく行くと、道路から少し奥まった所に家が10数件並んでいる所があった。行ってみると、どの家も同じデザインで、こんなど田舎なのに結構、モダンなウッディ・ハウスが並んでいた。これは絶対、市の補助金で作られたものに違いないと一人で想像する。家の前にはどの家にも綺麗とは言い難い車が4-5台停まっている。そして必ず犬が数匹飼われているようだった。 ・元のルート66に戻ってからしばらく行くと、P.SPRING町に入る。ここも人気のない町であったが、レストランが1軒あり、周囲には石造りの家と粗末な木造の家が数軒並んでいるだけである。周囲を見渡すと、上部がまっ平らな山が遠くに果てしなく続いている。そして、段々と緑が増えてきて、この辺りではところどころにコンモリとした低木の塊を見ることが出来る。近くで見ると松のようであるが、背の高い木は見当たらなかった。ニオイを嗅ぐと人参のような香りがした。この辺りでは、何処に行っても、この香りが充満していた。 ・ルート66は、町から町までは人気はもちろん生き物でさえ見ることが出来ない、草地と低木が連なる原野が地平線の彼方まで連続して続く単調な道である。従って、はじめはのんびりと走ろうと思っていたが、いつの間にかハイウェイと同じようなスピードである時速90kmで走り続ける事になるのである。タイヤがバーストするのが怖いので、速度を一度は落とすのだが、時速80kmがあまりにも遅く感じられてしまい、無意識の内にアクセルを自然に踏んでしまう。結局、昔の家が残っているという風景の所を見つけることは出来なかった。 ・ルート40でグランド・キャニオンの入り口の街と言われているウィリアムズに宿泊することにした。60ドルで充分に満足できる大きな古びたモーテルが何軒もある。取り敢えず通りを何回か廻って値段と内容が良さそうなモーテルに当たりをつけた。どこも冷蔵庫がついていなかったが、Econo Lodgeというモーテルで部屋に冷蔵庫が必要だと言ってみたらつけるという。部屋で待っていると、何処からか小さな、しかし重そうな古ぼけたモノを如何にも重そうに抱えて持ってきてくれた。コレがないとビールが飲めないから、自分には宿泊所を決める際に絶対欠かせない条件の一つなのである。 ・この町は少しルート40から離れただけの、旧道であるルート66の両側にできた町で、昔の雰囲気が味わえる街だ。メイン・ストリートが二本有って、それぞれ一方通行になっている。どちらの通りにも、ヒストリカル・ルート66の看板が至る所に立っている。これがこの町の一つの売りになっている様である。確かに歴史的なアーリー・アメリカンの雰囲気を残している。 ・しかし、ここに来る観光客の目的は言うまでもなくG.キャニオンの観光である。その基地として賑わっていて、他の町と比べると比較的活気のある街だった。何しろ他の地域にある田舎町ときたら、住民が何で生活を支えているのかを予測することも困難な所が多いからだ。その点では、この町は比較的存在理由が分り易い。 ・しかし、観光用の何か特別なものが有るという訳ではなく、街の人々が古い器の中で普通に暮らしている。そこが観光客には良いのだろう。しかし、地元の人達がキラびやかさの全く無い暮らしに充分満足しているように見える所が、ザワザワした日本から来た人間には理解し難いのである。ザット見た処では、大型のスーパー・ストアはあるが、映画館やデパートやゲーム・センターの様なものは見当たらないし、バーも夜9時には全てしまってしまう様な所である。 ・夕方、外は相当に冷えてきたので、ダウンを着込んで歩いてスーパー・ストアに出かけた。そこで食料とビールを仕入れてから、ぶらぶら既に暗くなってしまった通りをぶらつきながら帰った。そして、ディナーはモーテルの向かいにあるステーキ・ハウスで小さなステーキを食べた。ワインとチップ込で15ドル位だった。後は部屋でビールを飲みながら、PCで日記を書いたり写真を整理したり、明日の日程を考えたりしながらゆっくりと静かな一時を過ごす。自分はこの時間がとても好きだった。 11月20日(土) 始めてのグランド・キャニオンとその周辺の原野をドライブする ・ウィリアムズはグランド・キャニオンの入り口の町であるが、ここからN.Parkの入り口まで地図で見ると100km位ある。しかし、実際に走ってみると如何にも遠く感じる。はるか遠くの方に上部がまっ平らな丘のような山の稜線が周囲を取り巻いて見える。手前には平原ばかりが延々と続く。時速100km以上で大平原を突っ走っても、なかなか遠くの山が近づいてこない。しかも、N.パークに入るゲートまでの間、途中に宿泊出来るような所は一箇所有るだけであった。その宿泊設備は大きな食堂と売店があるドライブ・インになっているが、他には宿泊棟があるだけ。他には人工的な建造物や建物が全く見当たらない。 ・素晴らしい舗装道路が延々と続く。しかし、N.パークの中に入ると、舗装されていないが車が走しることが出来るダート・コースが幾つか有るようだった。ただし、晴れているときには砂ホコリが凄く、そして一旦、雨が降ると道が泥んこ状態となり、4輪駆動車以外は走ることが困難になってしまう様だった。そんな誰も通らないようなダート・コースの所で車がスタックしてしまったら、一体、どうしたら良いのだろう。それを考えると、不安と期待とスリルを感じる事ができる。 ・天気が良かったので、地図を見ながら用心深く短いコースを走ってみた。今日は十分な時間がないので、試しに少しだけ走ってみようと思ったのだった。しかし、たった一人で危険な事をやっているという充実感があった。ただし、やっていることは単に車の運転であるから、何かとても大変な思いをして体力を使っている訳ではなく、あくまでもゲームのような、気持ちの上でのスリル感を楽しんでいるだけであるが、コレが中々気分を高揚させるのである。 ・G.キャニオンは今回が初めてであったが、4日後にまた来ることを考えていたので、今回は下見だけと云う気楽な気持ちだった。今日の夕方には日本でもパワー・スポットという言葉で有名になった、セドナと言う街でYukiと会う約束をしていたので、午後一でG.キャニオンを出発シなければならなかった。 ・今回の中心は、観光コースを車で走りそして見所の所で車を降りて、少しだけ歩いてみると言う一般的な楽な観光である。しかし、とても素晴らしい楽しみ方が二つあることが実感できた。一つは先程、さわりを経験したダート・コースドライブである。これは、是非やってみたいとと思った。そしてもう一つは、G.キャニオン・ハイキングである。つまり、ここから谷底まで下ってから、また戻って来ると言うコースである。いろいろなパンフレットを見ながら、観光案内所で説明を聞いて、そして、谷底への下りの入り口から下を見ていたら、心が段々興奮してきて是非、やってみようと言う気になってしまった。ただし、案内ガイドによると、当然、途中に小屋など全くない大自然の中なので、何かあったら即、遭難の可能性があり、しかも体力と水の補給と充分な食料を持って行くということが重要とのことだった。これはアメリカに来なければ日本では絶対に経験できないことの一つだろうと思う。次回、是非、やってみようと思った。 ・G.キャニオンからセドナまでは、地図を見た限りでは、まずウィリアムズまで戻ってから、旧道ではない高速道の方のルート66をフラッグス・タッフまで一気に行く。そして、そこからやはり高速道であるルート17に入って、途中から山岳道路であるルート89に入って一山超えれば後は道なりに進めば良い。いつもながら、高速道路はただヒタスラ走るだけで、ドライブとしてはあまり面白いものではない。一人きりの運転では尚更である。周囲の車を見ても、特に地元の車は、大概一人乗車が多い。ただ高速で突っ走っているだけのように感じる。 ・ルート89は途中で峠を超える山岳道路で、くねくねとカーブが続き、片側は激しく侵食された深い谷の下を川が流れている。川は急流で、日本で良く見かける山の感じと似ている所があった。しかも、秋深く紅葉がとても綺麗である。この周囲は日本と同様に、赤あり黄色有り枯れた黄土色有り、白い岩山有りで、何とも言いようのない懐かしい美しさがある。峠の上の方には雪が周囲にあったが、道路上は全く問題が無かった。 ・夕方、4時前にセドナに着いた。驚くことにここは今までに訪問してきたアメリカの田舎町とは違っていて、全くの観光の街という風情だった。街の中心部を歩いている多くの人は観光客ばかりで、そして今までどこへ行ってもほとんど会うことのなかった日本人を彼方此方で見かけることができる。日本人のしかも女性に大変な人気があるらしい。そう言えば今回、一緒に観光するYkではない方の同じ名前のクラス・メートのYkの話では、ここはホット・スポットで有名な所だった。廻りの景色がとても異様な形の山で囲まれた、何とも不思議な観光地だった。地元の住民と言えば土産店やレストランやカフェで働いている人ばかりである。 ・自分はモーテル、スーパー8に予約していたのでそこに向かう。中心部からルート89を5km程離れた所にある。ここまで来ると周囲にはガソリン・スタンドや住宅地、それに大型のスーパー・ストア等が片側二車線の広い道の両側に続いていた。 ・Yukiに電話をすると、LAから飛行機で、アリゾナ州都であるフェニックスに来たが、これからリムジン・バスでセドナに向かうとの事だった。このリムジンは運良くスーパー8にも立ち寄るらしい。彼女はLAにいる時にUCLAで知り合ったクラス・メートである。彼女が日本にいる時の同じ大学の友人が、アメリカに旅行に来ているので、二人でセドナを廻ってからサンフランシスコ、シアトル等を旅行する予定だという。セドナでの3日間、3人で一緒にアチコチ廻ることになっていた。たまには、友人と一緒の陽気な旅も期待が持てそうだった。 ・夕方、7時頃部屋でシャワーを浴びていると、携帯がなった。裸のまま急いで電話が置いてあったベッドの上に行ってみると、Ykからで今、スーパー8のフロントに居るという。そこで、急いで服を来てフロントに行くと、果たして見慣れた顔が一つと、もう一つ元気そうな顔が有った。名前はAiと云った。 ・Aiがセドナについては色々と調べて来ていた。そこで、夕食はピカソと言う名のイタリア・レストランに行く事になった。スーパー8やルート89の周囲には人影は全く無いのだが、ピカソの駐車場や店内は人で溢れていた。ここは最近、人気が急上昇している最新のスポットらしい。予約をしていなかったが、運良く入り口の近くだったが一つだけ空いている席があった。 ・車の運転が残っていたが、ビールとワインで乾杯をした。料理はピザとスパゲッティ等しか無かったが、今まで食べた何処のイタリアンよりも本格的で、日本で食べるのと殆ど同じ位の美味しさを味わうことができた。コレは、アメリカでは特出する出来事であるといって良いと思う。3人分でチップを入れて、62.9ドルだった。 ・大体、アメリカ人は本当に料理が上手ではない。料理が趣味だと言っていた、ホームステイ先のホスト・マザーもあまり上手とは言えなかった。S.フランシスコはともかく、LAやその他のアメリカの田舎町で、チャンとしたレストランで食べた筈なのに出て来た料理は驚愕ものだったと云うことが本当に多い。チャンとしたレストランと思わせるものは、シックな内装だけで料理は信じ難いほど不味いのが普通である。 ・アメリカではモーテルの管理人は、多くはインド人や中国人が多く、ホテルと異なり社会的なレベルや収入が特に多い職業ではない様である。服装もかなり汚れた普段着のままと云う事が多い。しかも、対応は事務的で愛そうが無いのが普通である。しかし、この小さなモーテルでは、さすがに観光地だけあってチョット違った印象を受けた。キチンとした身なりの白人が多い。モーテル代が他の地域と大差ないとすると、彼らはもしかしたらオーナーかも知れない。今回、YukiとAiをモーテルで待ち合わせた事に関して、彼女達が予約していたモーテルのフロント番に、今までに何回か伝言を依頼した事もあって、彼とはすっかりおなじみになってしまった。客商売に徹しているのか、とても愛そうが良く話し易い。 ・二人を小奇麗な小さなモーテルまで送った後、ガソリンを30ドル分入れて帰宅した。 11月21日(日) 久しぶりに雨で休息の一日だった ・今日はYukiとAiは雨にも拘わらず、オプショナル・ツアーを申し込み、二人で特別にチャーターした運転手つきの4輪駆動車でグランド・キャニオンに出かけていった。しかしカナリの雨だったので、自分は一人で外出する元気も出ず、本当に久しぶりにモーテルでしばらくの間、ゆっくりと寝ていることにした。 ・10時過ぎまで寝てから、起きてシャワーを浴びて、朝食は安くあげるために近くの大型スーパー・マーケットのセイフ・ウェイで食べることにした。アメリカのスーパー・マーケットには色々なデリ惣菜が用意されている。味は万人に合うようになっているようで、少なくとも自分にはレストランで不味い料理を食べるよりずっと口にあう。(アメリカの中クラスのレストランは、味は期待できない事が多く、価格は味よりも室内のインテリアで決まるようである。) ・まずは今日のスープが3-4種類、ベーグル等のパンは自分でローストできる場所が必ずあり、椅子とテーブルが用意されている。コーヒーも自分でカップに入れて一緒に代金を払う。コーヒーは、大抵は数種類のブランドが用意されている。もっとこだわりたい場合は、隣のスペースで大抵、スター・バックスかコーヒー・ビーンが店を出しているからそれを買えば良い。 ・雨で何処へも出かける気にならないが、たまたま同じモーテルに3日間続けて宿泊している時だったので、気分的にはとてもゆったりと一日を寛ぐことができた。 ・夕方、6時過ぎになってから、夕食と散歩を兼ねてセドナの中心地を探索した。今回のアメリカ旅行では、日本人にあまり出会うことがなかったのだが、ここセドナは例外である。本当にたくさんの日本人を見掛ける。女性だけのグループも何組か見かけた。夕食を食べようと入った韓国レストランでは、隣のテーブルが小さな子供連れの日本人家族がいた。そしてその子共をさっきからあやしている、その隣の爺さんも日本人だった。ただし、話を聞いてみると彼はアメリカに長く住んでいる既にリタイアした日本人で、奥さんはブロンドだった。日本に帰国する予定は無いとのことだった。 ・夕食後に通りをぶらついていると、カフェで寛いでいる二人連れの女性がいた。何とYkとAiだった。そこで一緒にお茶を飲みながら、今日一日の彼女達のとても素晴らしかったと云うグランド・キャニオン旅行の話を聞いた。 ・夜、モーテルに帰ってから明日以降の自分の予定を考えながらSEDONAの代表的なパワー・スポットやトレイル・コースを調べて見た。沢山出て来たが、近くで良さそうな所が幾つかあった。一つは自分が止まっているモーテルの近くに有るChimney Rock とThunder Mt. 更にモーテルのすぐ南側にはAirPort MESAがあり、ここから真東の方角にRed Rockと云う大きな平らな岩場が見えるらしい。AirPort MESAから眺める朝日は幻想的だと思う。ちなみに、MESAとは上位部が平らで、崖が垂直に切り立っているこの地域独特の地形を云うとの事だった。更にSEDONAからルート179を南に17km位行った所にはBell Rockと云う飛びきり美しい岩場があって、その周囲にはとても素晴らしいトレイル・コースが沢山あるとの事だった。是非、ハイキングをしてみようと、子供の様に思ったのだった。 11月22日(月) 3人でパワー・スポットのセドナ観光 ・今日は皆で近くのパワー・スポットに日の出を見に行く事になり、早朝の6時に二人の滞在しているモーテルまで車で迎えに行く事になっていた。所が朝、5時にベッドで考え事をしていたら、Ykから「もう6時になるのにどうしたの?」と云う電話がかかってきた。ビックリして話を聞くと、ここはアリゾナ州でありカリフォルニア州とは時差が1時間有ると云う事をすっかり忘れていたことに気づかされた。そうだったのだ、今まで車での一人旅ゆえ時差については全く気が付かなかったが、アメリカ本土は経度の違いで4分割されている事を初めて実感で理解した。 ・取りあえず着るものを着て外に出た。急いでYkのモーテルに行くと二人は既に準備して外で待っていた。直ぐに目的地であるエアポートMESAに向かう。10分位で着いたので、どうやら日の出には間に合った様だった。と云うのは東の方角はMESAになっているので、日の出時間がその分、遅くなる為だった。 ・既にかなりの人達(と云っても20人位か)が集まっていたが、多くは日本人かあるいは韓国人か中国人の様だった。それも女性が多い。岩の上に座禅を組んでジット座っている女性が何人かいた。朝日の美しさは特に日本で見るのと大きな違いはなかったが、ここで見る形式は空気が乾燥している筈なので、その分赤く見えることを期待した。今日は珍しく天気が快晴とは云えず雲が多いので期待した感動は得られなかったのが残念! しかし、とにかく寒かった。 ・しばらく、周囲をぶらぶらしながらしていると、Aiが、前もってガイド・ブックで調べていたセドナでも朝食が美味いと云う評判のカフェに行きたいと云い出した。勿論、行き先がはっきりしているのであれば、異論はないので皆で出かけて行った。そのカフェはルート89沿いに有って、自分が泊っているスーパー8の直ぐ近くだった。確か名前はURGENT CAFÉだったと思う! 成程、人気がある様で駐車場には既に車が沢山止まっていた。店の中は広く、アジアン・スタイル(インドネシアはバリ風)でまとめられた感じの良い店だった。 ・卵料理が有名らしかったので、それとトーストとコーヒーを頼んだ。出て来たのは普通のオムレツでした。コーヒー・カップが磁器ではなくアメリカでは珍しい陶器製だった。日本では当たり前のことが、ここでは最新のファッションの様だった。 ・朝食後に自分としては初めて訪れる近くのパワー・スポットに向かう。スーパー8の反対側の信号を曲がると、そこはDry Greek Rdでその道を道なりにしばらく進んでいくと、直ぐにChimney Rock公園という看板のある処に出た。公園の駐車場に車を止めて、目の前にそびえ立つ石の山 Thunder Mt.に向かって歩き出した。 ・このあたりはChimney Rock と云う名所の一つで、山にはThunder Mt.という名が付いていた。そう、ディズニー・ランドのイメージはここから来ていると思った。Chimney Rockに限らず、この辺りの岩は赤茶けた茶色で、半ば土と化した層状の横帯の地層がハッキリと分かる独特の地層がある。上部は煙突の様に垂直に切り立った円筒形をしている。そして、てっぺんはまっ平らである。まるで子供が面白半分に造った工作作品の様な異様さ・滑稽さが有る。そんな地形が見渡す限り、あちらこちらに見ることが出来るのだ。 ・Chimney Rockから街に戻って来ると、丁度、12時で昼食の時間だった。やはりAiが行きたいと云うチョット小奇麗なカフェ&レストランを探す。カーナビでセットすると、直ぐそばに有る筈なのに、すぐそばに車を止めて探してもなかなか見つからなかった。しかし、周辺は岩を伐り出して作ったヨーロッパ風の石造りの建物が続いていて、散策するには丁度良い場所だった。レストランでランチを食べた後、やはり外観が古い石造りだが内装は近代的な綺麗な作りになっているカフェに行く。カフェでは2時頃までお茶を飲みながら、ゆっくり寛いだ。 ・二人は今日の夜8時の飛行機でフェニックスからサンフランシスコに移動すると云う。セドナからフェニックスまでは200km位の距離だったが、セドナを出発するリムジン・バスが出るまでまだ2時間以上有ると云う。そこで軽い気持ちで、「送って行こうか」と云うと、とても嬉しそうに、「ありがとう」と云う。そこで、往復400kmの道のりを送って行く事になった。 ・アメリカの道は高速道の様な道ばかりなので往復4時間と計算したのだが、フェニックスは行ってみると予想を大きく超える程の大都会であり、市内の渋滞がとても激しいと云う事をこの時は全く知らなかった。しかしながら、二人を乗せてフェニックスに行くまでの2時間は楽しい時間だった。 ・フェニックスに到着したのは午後4時だったので、飛行機の出発時間まで大分時間に余裕が有って、二人は何処か街の中心地に行きたかった様だった。しかし、高速道から街に降りて見ると、意外に道路が混んでいたのと、行きたい場所までの所要時間が良く分からなかったので、早々と市に中心地へ繰り出す事は諦めた。そこで近くに有ったGSでガソリンを補給し、そこで一休みしてから空港に向かった。 ・帰り道は東京以上に激しい渋滞に巻き込まれた。そして、渋滞を抜けて郊外の高速道を順調に走り始めた頃には、辺りは既に真っ暗になっていた。アメリカの高速道路には、日本の様に街灯などもない処が多い。また道路に柵も何も付いていないので、田舎道を一人きりで走るのはとても寂しい。他に走っている車も少ないので、自分が照らすライト以外は全てが真っ暗闇である。広大な大地の何処にも明りが見えない。見渡す限り、家等一軒もないのだ。時折、小さな村の横を通り過ぎる時には、明りが眩しく見える。しかし、それもあっという間に消えてしまい、再び暗闇の中を走り続ける事になる。カーナビだけが頼りである。これが無かったら、とても不安になるだろうと思った。 ・セドナに着いたのは午後7時過ぎだった。5時間、殆ど休みなく400kmを運転した事になる。自分の滞在しているモーテルを通り越して市の中心地に行く。そして駐車場でしばらく横になって休憩した。目が異様な程疲れたのと、腕が何となく震えて来る感じで本当に疲れを感じた。それから、昨日と同じ韓国レストランに歩いて行った。モーテルまで一本道を戻るだけなので、思い切ってビールを頼んだ。 11月23日(火) 1人でパワー・スポットのセドナ観光 ・素晴らしく天気の良い朝だった。いつもの様に朝の散歩を1時間位してから、シャワーを浴びて、荷物を整理した。それから、スーパー・マーケットの横にあるいつものカフェで朝食をとりながら、今日、これから行こうとしているセドナで最も有名なパワー・スポットである、ベル・スポットの案内を読んだ。再び、モーテルに一度引き返して、荷物をまとめてチェック・アウトしたのだが、その頃には既に10時近くなっていた。 ・ベル・スポットは、セドナから始まって真南にR17に接続するまで走っているR179沿いにある。セドナからおよそ10マイル離れた所にある。山の形がまるで本物のベルの様に、てっぺんがドーム状で真ん中が垂直に切り立っていて、そして下部が末広がりに広がった奇妙な形をしている。 ・道路脇の駐車場に車を止めた時はすでに駐車場に多くの車が止めて有ったが、既に降りてくる人もいて、日本の観光地のような忙しさは全くない。トイレや必要な観光ガイド(説明の書かれた立て看板)はしっかりしていたが、観光地なのに道路標識やかなり危険な場所にも手すりのようなものは見当たらない。自分は水筒(ペット・ボトル)とカメラだけをリュックに入れてドンドン登っていった。 ・山は独特の土の様な感じの岩でできていて、直ぐに崩れてしまう様な感じはしないが激しい水流の中に入れたら直ぐに侵食されてしまうだろうというような気がした。山の標高はそれ程高くはなく、直ぐに裾の部分を登り切ってしまった。しかし、そこから下や周囲の眺めは素晴らしかった。遥か下の方の平らな岩場には、一人で来ている日本人らしい何組かの女性が、岩の上にシートを敷いてその上に胡座をかいて、背筋を伸ばした状態で目をつぶって何やら瞑想にふけっているのが見える。よく見ると日本人女性だけではなく、リュックを背負った若い金髪の男が瞑想にふけっている姿も見える。 ・自分はできるだけ高いところまで登ろうとしてルートを探した。しかし、下の方から見た時は、何処からでも登れそうな岩山だったが、実際に登って見ると特に登山道が出来ている訳でもなく、多くの人が登ったという足跡も見えない。最近、日本でも流行っている、手だけで登っていくウォール・クライミングのような登山である。遠くから見ると殆ど垂直な岩場であるのだが、手や足を掛ける所が沢山あって、比較的簡単に高度を稼ぐ事ができる。 ・しかしながら、登る岩を間違えると直ぐにその岩の頂上についてしまい、そこからは他の岩場に移ることが出来ない。と言うより垂直に切り立った岩の頂上は、別のもっと高い岩場から見ると直径が数メートルくらいしか無くて、そこに座っている人を見ると本当に怖さを感じる。 ・段々上に登っていくルートが見つけられなくて、それでは下に降りようと思ったら、当たり前だが岩場に背を向けて降りていくことが出来ないということに気がついた。登る時と同じような要領でルートを探しながらゆっくり降りていくのだが、怖い事この上ない。降りるルートを探しながら、行きつ戻りつしている内に、登ってきた時とは正反対の方角に降りてしまった。 ・駐車場の方向に戻りたいのだが、道が全くない。背の高い潅木が有るわけではないのだが、また、日本の山道のように背の高いヤブが有るわけでもないのだが、腰くらいまでの丈の潅木に覆われた石ころだらけの岩肌の上を歩かなければならない。しかも、太陽の位置から推し量って大体の方角しか分からない。周囲には家や建物は何もなく、とても寂しいトレッキングになってしまった。 ・ふと気がつくとキチンと並べて置かれた一足のハイヒールが見つかった。もしかしたら、ここで自殺をした人を発見してしまうのではないかと気になった。しかし、実際にはそんなことが起こる確立は相当低いだろうと思いながら、ドンドン進んでいく。そして大分、歩いてから左手の方向に駐車場が見え、多くの観光客が見えた時は少しホッとした感じだった。 ・駐車場に戻ってから、スーパーで買ったリンゴとサンドウィッチのランチを食べながら、ガイド・ブックを見ていたら、この近くに良いトレッキング・ルートがあるのが見つかった。 ・この周囲にはコンモリと切り立った岩山である、パワー・スポットが沢山のあるのだが、その岩山には登らずに、横を通過して歩いていけるコースが複数あった。トイレを済ませてから、その一つを選んで歩いて行く事にした。ついでながら、この原野の中にポツンとある駐車場には、当然であるが水洗トイレはない。昔の日本の洋式トイレのように、ただ蓋がついているだけである。しかし、日本の公衆トイレのような嫌なニオイは何処に言ってもお目にかかれなかった。恐らく利用する人の数が圧倒的に少ないせいかもしれない。 ・この様な素晴らしい眺めと天気の中を、自由に歩けるということは何と幸せなことかと思う。しばらく歩き続けていくと、やはりこの様な環境の中を自分の足で歩こうと考えている人が他にもいることが分かった。2回程、二人連れのハイカー(散歩者)に会うことができた。そして更に進んでいくと、前からマウンテン・バイクに乗った青年が現れた。 ・天気も良くて暖かくて空気も澄んだ所でのハイキングは最高の気分だった。今日は再びウィリアムズに行く予定であるので、意を決し、ハイキングを早めに切り上げて、セドナを発つことにした。まだ日も高かったので、少しもったいない気もしたが3時頃には出かけることにした。5時になると日が沈んで真っ暗になってしまうからだった。 ・帰り道はずっと川に添って上流に登っていく。川は侵食が進んで道路よりかなり下の方を流れている。川の両岸は切り立っていて、岩肌が層状になっているのが見える。セドナに沢山あったパワー・スポットの岩壁の様に見える。皆、何気なく車を走らせたまま通り過ぎて行くのだが、実際、この景色はかなりの迫力である。しばらく行くと川に橋が掛かっているところがあり、その手前から見ると橋が相当高い所に見える。実際に橋の所まで行ってみるとそこはビュー・ポイントの看板が立てられていて大きな駐車場もあった。既に多くの人達が上の展望台に群がっているのが見える。また、川の崖っぷちに沿って散策路が作られていて、大勢の人達が行き交っているのが見える。 ・駐車場には車を置くスペースがなかったので、少し遠くまで車を走らせて、道路脇に駐車した。かなり危険な感じもしたが、短時間で戻ってこようと言う気持ちで対して気にもせずに展望台に出かけた。展望台からの眺めは、素晴らしかったし、とても日本では見ることができない光景だったので、来たかいがあったと思った。しかし、あいにくカメラがなかったのと、携帯のメモリーも忘れて来てしまったので、その内部メモリーも既に一杯だった。仕方なく自分の目に光景を焼き付けようと努力してみた。 ・川の方へ降りていく道は無さそうに見えたが、数人の人達が川のそばにある大きな石の上にいるのが見えた。自分は川に添って歩きたいと思ったが、駐車中の車のこともあり、早々に引き上げることにした。 ・途中、峠に差し掛かる頃には道の両側には雪が積もっていた。しかし、しっかり管理されているためか、あるいは道路上に積もるほど降らなかったのかわからないが、道路上には雪はなく度の車も普通タイヤのままで通行している様だった。そして、3日前に宿泊した懐かしいオールド・タウンであるウィリアムズに着いた時は、もう既に辺りは真っ暗だった。 ・ウィリアムズでは大して探しまわることもせず、安いが多くの車が駐車していたモーテルに決めた。RodeWAYinnという所で料金は税込で38.93ドルだった。多分、平日だったせいもあるだろうが、自分には丁度良い安さで有ったが、室内は充分に小奇麗で必要なものは揃っていた。とても寒い夜だったが、室内はエアコンが効いて23度に保たれていた。 ・さて、夕食を食べに行こうとして外に出たが、目の前の街の中央通りの歩道には、雪が固まっていて滑りやすかったし、本当に寒い夜だった。ダウンを着ていても体の中に、寒気が押し寄せてきた。ただし、雪の上を歩くのは気分が良かったので、つい遠くまで歩いてしまい結局、スーパーのセイフ・ウェイまで来てしまったので、夕食はここで惣菜を買って済ませることにした。それでも、ビール等を入れて全部で20ドルだった。 11月24日(水) 1人で再びグランド・キャニオン観光 ・朝起きだしていつもの様に散歩してから朝食をとる。そしていつものようにトイレに行って用を済ます。実は自分は若い時はひどい便秘症に悩んでいた。特に旅行などで外泊するときには必ずといってよいほど出ない事が多かった。しかしながら、今回の旅行では今まで3ヶ月あまり、一度として滞ったことはなく毎日が快調だった。多分、その秘密は毎日欠かさず、一日に2錠飲んでいるビオフェルミン(ビフィズス菌錠)の効果だと思う。もう今では半ば飲むことが習慣になってしまい、恐らく、1日でも飲まない日が有れば逆に不安になって出なくなってしまう恐れがある位になってしまったと言える。兎に角、血圧降下剤とこのビオフェルミンは、自分にとって欠かすことができなくなってしまった。 ・更に打ち明けてしまえば、夜、寝るときにはもう何年も前から睡眠導入剤を服用している。飲むといっても、1錠の錠剤を10分割してそれを使用している。従って、3錠有れば、1ヶ月間は持たせることが出来る。コレはもう5年くらい続いているが、量がこれ以上に増えることはなく安定している。以前は寝酒に頼っていたのであるが、医者に相談してから副作用や常習性のないと言われているこの薬に頼るようになってしまった。コレを飲むようになってからは、飛行機の中でもきちんと寝られるようになったし、従って、昔あれほどまでに自分を悩ませた、時差ボケの心配も全くなくなってしまった。 ・早い時間にモーテルを出て、街の観光案内に行きグランド・キャニオンの情報をもらってきた。とても詳しいガイドが数種類有った。しかも、英語の他に日本語と中国語と韓国語に訳されているのである。流石にやるものだと思う。今日の目標は、グランド・キャニオンの底部までのハイキングである。 ・グランド・キャニオンは砂漠地帯なので熱く乾燥しているため、通常は自分のような虚弱体質の者が歩くことは危険である。しかし、この時期は暑さの心配をすることはなくなっていた。かなり冷え込むとのことであるが、夜、キャンプすることがなければ問題は無い様だった。ただし、当然のことながら山小屋があるわけではないので、その日の内に元に戻ってこなければならない。それよりも問題は天候であった。何しろガイド・ブックによると、天気は毎日ドラマティックに変化すると書かれているのである。 ・ガイド・ブックによると、G.キャニオンはコロラド川の侵食によってできたもので、川は今でもここらでは海抜750mmの所を流れている。トップの所が海抜1400mmであるから、高度さは700mmである。地層は古い所では18億年前に比較的新しい所では2.7億年前にできたらしいが、川によって侵食されて現在のようになったのは5百万年前ということだ。ちなみに地球の誕生が45億年前である。いづれにしても、誰にでもハッキリと目指できる12層に重なった地層がとてもそれぞれ異なっておりカラフルで綺麗である。 ・さて、ウィリアムズからG.キャニオンのゲート近くまでは、天気も良く快適なドライブだった。しかし、途中から急に天気が悪くなり、ついに雪が降りだしてきた。途中で車を止めて、脇のヤブの中に入って用を足そうとした時、靴が地面に半分近くも潜ってしまった。慌てて靴を綺麗に拭いてから、出発したのであるが、車はノロノロ運転になってしまった。 ・それでも雪が降っているにもかかわらず、道路は綺麗になっており、そしてリムに着くと駐車場にはそれなりに車がいたので安心した。もっとも、4日前の土曜日に来た時よりははるかに少なかったが。早速、トレイルの入り口の所に行ってみると、そこは完全に雪で、普通のウォーキング靴では滑ってしまいとても歩ける状態ではなかった。しかも道幅は狭く1m位しか無い。そして、片側は岩壁であるが反対側は谷になっており、細い道が岩壁づたいにへばりついた感じで、徐々に下の方に降りる様になっている。上から覗き込むと、それでも降りていく人と上がってくる人が何人か見えた。この分ではすれ違うことも怖いような気がしたが、彼らは別にチョット時間がかかっただけで、特に問題があるように見えない感じで通り過ぎて行く様に見えた。 ・ロッジの中に入ると、ストーブの前で何やら身繕いをしている人がいた。聞いてみると下から上がってきた若い二人連れのハイカーで、下の方には雪は全くなく歩きやすいという。しかしながら、上の方は雪が固まっておりとても滑りやすいと言う。とても残念であったが、ハイキングは中止にすることにした。次回、来ることがあれば是非、10月に来て1日かけて歩きたいと思った。 ・そこで軟弱にも、通常の観光コースを歩いた後で、付近の森の中を歩きまわった。それでも雪が降っていたこともあり、人の姿さえ見ないようにしていれば充分に山歩きの感じを楽しむことが出来たのだった。 ・昼食は観光客用に作られたレストランで、ピザとパスタを食べたのだが、料金は13.3ドルと少し自分には高めだった。味は当然、美味くはないが特にピザはクセになりつつある。パスタはハッキリ言って不味い。 ・この付近のサンセットは午後5時16分だということなので、夕方、まだ明るい内に出発することにした。地図で色々と探した結果、プリスコットという街まで行く事にしたのだった。 ・アプリコットの町は思ったより大きくて地方都市の様な感じの所だった。宿泊はあまり迷うこと無く、最近はよく利用しているモーテル6にした。税込で44.47ドルだった。 ・スッカリ暗くなってしまった街の中を、あれこれ散歩してスッカリ疲れてしまった。アプリスコットはアリゾナの町であるが、カリフォルニア同様に人々はとてもフレンドリーな人が多い。当たり前の挨拶のような感じでやっているだけなのであろうが、それにしても愛想が良いだけではなく話しかけてくる。例えば、スーパーで売り場を聞いた若者は、自分が日本人だと分かると色々と質問してきた。聞いてみると大学生のアルバイトで、来年の夏に日本に行く予定であるという。チョット話をするつもりだったのが、長々と話し込んでしまった。 ・夕食は色々探したが良い所が見つからず、結局、独り身ということもあるのだろうが、侘しくパンダ・エキスプレスで、6.55ドルで済ませてしまった。 11月25日(木) インディオCAに移動 ・殆ど移動のみだが中々感動的なドライブだった。 しかしながらデータが消えてしまった!! ・午後から夜にかけてインディオの街歩き、そして、消えた25日は感謝祭の日だった。 11月26日(金) ジョシア砂漠を歩く ・広大な国立公園であるジョシア・ナショナル・パークへの入り口は、地図で見ると3か所ある。公園の南側に沿って走っているルート10からは、コットン・ウッド・ビジターセンターから入園することになる。ここの観光センターで15ドルを払って、要領よくまとめられたパンフレットを貰う。パンフレットには種類あり、一つはこの地形が何時頃どの様に出来たのか等の成り立ちや歴史、住んでいる動物や植物の説明が綺麗な写真とともに書かれている。もう一つは、地図とともにこの公園で何をすることが出来るかのアクティビティの紹介が書かれている。つまり、キャンピング、乗馬、ロック・クライミング、ハイキング等々について、コースの紹介や注意等が書かれている。 ・自分はまず主要なコースを車で見物して回り、良い場所を何箇所か選んでハイキングをしたいと考えている。そして車をゆっくりと走らせた。ここは砂漠であり夏はとても暑い所であるが、流石に11月の下旬ともなると日差しは日本の真夏のように感じられるが、乾燥した空気がとても心地よい。日陰に入るとむしろ体が冷えてくる感じさえする。そう言えば、ビジター・センターの所で午前10時の現在の気温は8度Cと出ていた。 ・何処を見渡しても広大な大地に興味深い植物が生い茂っているのが見える。植物の背丈はとても低く、多くはロープが張られている立入禁止区域であるが、場所によっては広大なスペースを自由に歩き回ることができるように設定されている。誰も歩いたことのないような足元の大地の土は、十分に固くとても歩きやすい。一面に奇妙な形をした低木が生えているが、とても歩きやすい。もしも一度でも大雨に見舞われた場合には、泥んこの海と化すに違いないが、多分、まとまった雨などここでは見ることがないのだろう固くしまっている。 ・景色は素晴らしく、またどれも日本では見ることが出来ない光景が沢山ある。しばらく車を走らせて行くと、群生している植物が変化していき、有る所では広大なサボテンが何処までも続く場所に出る。地図には所所にビュー・ポイントが出ていて、そこへ行くと今まであまり見かけなかった観光客が沢山いる。その様な場所には駐車場や場所によっては公衆トイレもある。 ・その様な場所の一つであるリャンという所に車を置いてシープ・パスと言う所まで行って戻ってこようと目標を定めて、歩き始めた。コースに日陰はないが、とても雨の心配もなく快適なハイキングが楽しめた。しばらく行くと、平地に高さが40メートル位の大きな岩山が幾つも現れた。よく見ると数人の人達が岩登りに挑戦している。岩登りといっても、特別な道具を使うわけではなく、素手でかなり急な所を登っていくのである。近くに行ってみると、岩には出っ張りや窪みが有って、それらを上手く利用して頂上を目指すのである。 ・ある岩山では巨大な煙突の様にほぼ垂直に切り立っていて、その頂上は数メートル四方しか無い様に見える所があった。そして近づいてみると、驚いたことにその頂上の所に既に5-6人の若者が立っているのである。そして更に数人が頂上に向かって登っているのが見えた。彼らの全員が頂上に立つには、スペースが足りないように見える様な場所だったので、下から見上げているだけで薄ら寒くなってきた。しかも一度、上がった連中は少なくとも自分がそこにいる間は、降りてこようとはしなかった。あそこまで危険なことをワザワザやることは無いだろうと思った。恐らく、仲間がいるから挑戦することになるのだろう。一人だったら、誰も褒めてくれないしきっとやらないのではないかと思った。 ・自分は挑戦したい様な、したくない様などちらの気持ちも有ったが、特に強い気持ちも湧いて来なかったので、そのまま歩き続ける事にした。多分、一人きりで歩いているので互いに競い合うという意識が出て来ないのだと思った。やるとしたら、頂上に立った時、自分一人で良くヤッたものだという感慨に浸るのだ。そういう意味では、一人きりで誰にも知らせること無く無謀なことに挑戦しそれに成功した時には、当人にとっては本当に素晴らしい体験になるのだろうと思う。 ・写真を撮りたいと思う場所が他にも沢山あったが、何せカメラを無くしてしまったので、そして既に携帯のメモリーも一杯になってしまったので撮ることが出来ない。自分の目にしっかりと焼き付けておくのだ。 ・午後、まだ日が高く少し勿体無いと思ったが、LAに向けて出発することにした。来た時とは逆に南から北に向かってジョシア・トリーという町に向かって進む。この街は公園に入るゲートガの前にある大きな町で、多くの人はここから入園することになる町である。この街に向かって、ドンドン高度を下げながら曲がりくねった山道を飛ばしていく。 ・そして、街を東西に横切るメイン・ロード62に出た所で給油する。ここは典型的な田舎のガソリン・スタンドだったので、中にちょっとした売店があって、おなじみのサブ・ウェイもあった。トイレを済ませてから、何時ものハーフ・サンドウィッチとコーヒーで元気を回復する。 ・これからLAに向けて通る道は、地方道ではなくて街と街を結んでいるメイン道路を利用することにした。メイン・ロードといっても、田舎では日本と違って高速道路に近い。しかし、街の中には幾つか信号機のある所もあった。道は4車線だったり3車線だったりする。ここを山の景色の変化を楽しみながら、ただ、運転に集中するだけの単調な時間が続く。 ・途中、町の名前は忘れてしまったが(多分、ユッカ・バレーの近くだったかもしれない)、突然、広大な丘の上に風力発電用のプロペラ塔が無数といえる程、沢山並んでいる風景に出くわした。これと似たような風景は、デス・バレーに向かっているときにも出会ったが、ここのスケールの大きさには本当にびっくりした。幾つくらい有るかを予測するために、50個位を数えて、それを何倍かすることで、どの位数があるかを調べようと思ったが、延々と続く光景にそれもできなくなってしまうくらいだった。 ・流石にアメリカは土地が広大なので、経営者や技術者は日本とは違ってあらゆることを実際に試して見ることが出来るのだ。恐らく風力発電の効用や問題点等は、日本ではほんの数カ所に取り付けた実験装置でしか確認出来ないが、ここアメリカでは壮大なスケールでのデータを取ることが出来るのだ。日本ではこれだけの広大な土地を確保することは、コスト的に全く合わないと思うが、一つのプロペラで仮に1000kwの電力を生み出すとしたら、5000基有れば500万kwとなって、原子力発電に匹敵する規模になる。十分に実用的な値である。 ・夜遅くになって、LAに帰ってきた。何処にも今夜泊まるモーテルなど予約などしていなかったが、最近の定宿であるカルバー・シティにあるシルバー・ムーンに直行する。今夜から3泊することにしたが、週末ということで何時もより高く税込で56ドルだった。宿の主(女将さん)はもう自分のことをスッカリ覚えていてくれて笑顔で迎えてくれた。料金は同じ意であるが、部屋は角部屋でこのモーテルでは最も広くて綺麗な所だった。シャワーを浴びて一休みしてから、夕食を食べに行く事にした。その前に、最後のお別れということで、明日の夕食をメイとカズと一緒に食べたいと思い早速、メールを書いた。 11月27日(土) LAの夜 ・今日は是非、ロスでもジャズ・クラブに行っておきたいと思い、I/Nで幾つかをピックアップした。ポテト・クラブなどという名前の行ってみたいクラブがあった。しかし、場所がユニバーサル・スタジオの近くなのでモーテルからは少し遠すぎて、酒を飲んだ後の帰りの車の運転に難があった。アメリカでは、車がないことには何処にも出かけることが出来ない。特に夜などは、暗い所を長い距離、一人で歩くことは厳禁である。そして、クラブであるから一人で出掛けて酒を飲まないということも考えられない。そこで宿泊しているモーテルから、安全なルートでいける所が絶対の条件となる。そこで選択したのが、HollywoodにあるJazz Club Catalinaである。 ・モーテルのあるカリバー・シティからハリウッドは直ぐ近くで有る。夕方、ハリウッドに一人で出かけたのであるが、ハリウッドの中心地には思いの他駐車場が少ない。その上、さすがに土曜日ということもあって、ハリウッドの中心街の近くでは、何処の駐車場も満杯だった。少し辺りを走り回って見たがサンセット・ドライブの近くに、運良く広いビルの空き地の様な駐車場が見つかった。多くの駐車場は夜の11時にはゲートが閉まってしまう様だったが、車を入れると直ぐに係の黒人がやって来た。駐車場の料金は時間に関係なく一回20ドルで、夜中でもOKだと云う。それにしても20ドルとは、LAでは最高値だと思う。 ・演奏は確か9時ころから始まるとの事だったが、そして、クラブはディナーを食べることが出来る様だったが、一人でテーブルを囲むような客は一人もいないと思うので、何処かで軽く夕食を食べてから行こうと思った。近くに気楽に入れるチャイニーズ・レストランが有ったのでそこで有飯を食った。 ・そして食事の後、表通りから一本裏手に入った薄暗い人通りのない一角にある目的の場所にたどり着くと、お目当ての建物らしいのだが、さて入り口が何処にあるか分からない。周囲を廻ってみたが地下への駐車場の入口があるだけの建物で全く人気が無い。まるでさびれたビルの様に見えた。しかし、裏に回って見ると、大きな地下駐車場があった。 ・入り口を聞こうと思って駐車場に車が降りていく坂を歩いて行くと、何人か係の人がいる。話を聞くとここが入り口だという。どうやら、自分のように歩いてここへ来る人はいない様だった。見ていると、皆、車でやってきて入り口で車を降りる。後は係の者にチップを渡して、何やらカードを受け取るとサッサと中へ入っていく。係りの者がキーを受け取って車を置きに行くのだ。ふーん、何となく洒落ている。聞いてみると駐車場の料金は6ドルで安い。と言うよりもきちんとチップを払う事によって、客も係員も気持ち良く事を運べるのだ。ここでは客の振る舞いも何となく垢抜けていてスマートである。 ・それに比べると、自分は車しか出入りしない駐車場の入り口をトボトボと歩いて入って来たのである。日本では自分も、社会の普通のクラスの一員であるが、ここアメリカではクラスに寄ってそれに相応しい態度があるらしい。自分がその雰囲気にそぐわない振る舞いをしているような気がした。それらしい場所では、何でも自分でやってしまうのではなく、サービス係にやってもらう。そして、少しでもサービスを受けたら、キチンと小銭のチップを払い、しかもニコやかに「有難う」と言うのだ。中には横柄な態度を取るもの者もいるが、多くはフレンドリーな態度で会話を交わす、そのやり取りは見ていても気持が良かった。 ・入り口で前料金を払う。食事はいらないというと、チャージ料金だけを30ドル要求された。後は中に入って、適当に注文してくれとのことだった。ちなみにビールは8ドル、簡単なツマミもその位、後はチップだけで、とても明朗な会計だった。 ・さて、中に入ってみると驚いたことに人がいっぱいだった。想像していた狭いクラブではなく、とても広い空間の、ずっとくだけた感じのJAZZ Restaurantという感じだった。客席は4人掛けのテーブル席が50程、殆どの席が一杯で200人位の人で溢れている。中央部に大きな部隊が有る。既にほぼ満席で、一人で来ている客は見当たらなかった。半分位がカップルで、他は4人のグループで来ておりとても楽しそうに騒いでいた。殆どが常連客の様に見えたし、皆、とてもリラックスしている。そして皆、着飾っていて、自分の様に昼間と同じ格好で来ている人は余りいない様だった。雰囲気が、サンフランシスコのジャズ・クラブとはずいぶん違っており、ここがジャズ・クラブかと思わせる程、明るく健康的な如何にもロスと云う感じのとても明るい社交場と云う感じの所だった。 ・自分は一人だというと、隅の方にあるスタンド・テーブルとハイ・チェアに案内された。こんなスタンド・テーブルが10個位はあったが、多くはカップルが食事無しで酒を飲みに来たという感じで、仲良く話に夢中だった。日本のように一人でやって来て、静かにうるさいジャズを聞きながら、酒を飲むと言うような客は他にはいなかった。よく見ると、ここはハレの場所らしく、殆んど常連のような客ばかりが、着飾って来ているようだった。 ・本日の出演者の名前はスッカリ忘れてしまったが、15人編成のビッグ・バンドであった。そして演奏はカントリー調であくまでも明るかったが本物だった。それぞれのソロもあって、実力は確からしかったのが、演奏を聞きに来た自分には救いだった。しかしその他の印象は、日本の例えば、六本木のブルー・ノートとは大違い。皆、食事と音楽を楽しんでいる。しかし、黒人は一人もおらず、如何にも明るい曲ばかり演奏していた。しかも一曲が終わるたびに、客と演奏者の間で掛け合い漫才がある処はサンフランシスコ辺りとは大きな違いだった。自分には全く聞き取れなかったが、時折、演奏者と客が声を掛け合って冗談をいっている。そのたびに、大きな笑い超えが広がる。大体、この店のオーナーである女主人が、盛り上げようとしているのか、盛んに大きな声でヤジを飛ばして笑いこけている。とても楽しそうだったが、自分のように一人で音楽と酒を静かに楽しむ場所としては適さない所だった。大体、スモール・コンボが似合う店ではない気がする。 ・帰りに外へ出ると、駐車場では10人くらいの人が並んで車を持ってきてもらうのを待っていた。自分のように、歩いてビルをでて行こうという者は、他には誰もいなかった。 ・駐車場に向かって歩いている時に驚いたのだが、来る時は殆んどどこの駐車場も満杯の車で埋まっていた筈なのに、この時間になるとどこもカラになっていて入り口が閉ざされている。少し心配になって早足で着いてみると、まだ係りの者がいたが、他の車は殆ど消えていた。確かに12時を過ぎているのだから、幾らハリウッドと言え、ビルの外の駐車場では営業時間を確認しておくのが当たり前だと気が付いた。でも良かった。結果、演奏は良かったし、車にも辿りつけたので、後は自分の自由時間だった。 11月28日(日) LA ・今日は日曜日で、街の繁華街はサンクス・ギビング・デイの半額セールで賑わいを見せている筈である。でも自分には関係がない。自分の娘に頼まれた土産と女房への罪滅ぼしの土産を買うだけだ。 ・今回の旅行で一番考えたこと、感じたことはなんだろう。それは、何よりも生きていくために必要な物が何なのかを改めて知らされたことだろう。金と健康は当然であるが、一つは家族から離れて3ヶ月暮らしたことで、はやり家族の繋がりの重要さに気がついたことである。また、家族だけではなく、今回は若い人達を中心にいろいろな多くの人達と知り合ったということが大きい。本当に自分にとって必要であったのは友人であった。或いは単なる話し相手の様な付き合いを含めた人間関係とそれを維持すること重要さだと言える。 ・それから、新しい人間関係を作り 会社を中心とした世界を打ち破って 更に広げていくためには、当たり前だが自分から積極的に表現して行動して行く事の重要さを実感したと言うことである。考えてみると、自分がこの3ヶ月に得た友人たちには、中には40歳台や50歳台もいるが、多くは20歳台の前半から30歳台の前半である。それは、アメリカに留学してくる学生が多いことから当然のことなのだが、既に60歳を大きく超えてしまった自分にとっては、今まで経験することのなかった新しい挑戦だった。 ・早々、いい忘れてしまったが、友人として若い外国人を多数 知り得たことも、自分にとっては今までに経験したことのない出来事で合った。彼ら学生は大きく分けると二つのグループに別れる。一つは自国で高校を卒業してから直ぐにアメリカにやってきた親が金持ちの20歳そこそこの学生達。もう一つは、自国で高校や短大、或いは大学を卒業してから一度 就職し、何年かの実務経験をしてから 何らかの考えがあって自費でアメリカにやってきた若者達である。 ・その様な若者達との交流は、はじめは同じクラス・メートという上下関係なしの環境で初めて可能になった。そして、互いに対等であるという意識を キチンと持っている場合は、例え 年が離れていても意思の疎通ができるという発見があった。恐らく重要なことは、互いに大人として相手を尊重し思いやる心だろうと思う。 ・中国人や韓国人の留学生は互いに似ている所がある。主張が明確でとてもアグレッシブに行動する。飲み会では、本当に良く自説を主張する。中国や韓国以外のアジア圏から来ている人達は、日本人以上に大人しい人達が多い。そして、人情や優しさに溢れている。向こうから話しかけてくる事は少ないが、一緒に話をしていると、妙に安心ができるということが多かった様に思う。控えめな態度が自分には好感が持てた。 何処に行っても彼らの存在が目立った。それに引き換え、殆んど何処に言っても目にすることがなかったのが日本人である。日本を思い出させるものといえば、街中を走り回る車だけで、日本人の姿は大都市の中心外以外にはほとんど無かった。 ・また、それ程は多数の人達と知り合ったわけではないが、いろいろな土地でいろいろな人達と交わした短い会話をかわしてきた。それから想像できることは、一般的な日本人とは違ってこちらではいろいろな人達がいるということである。収入やクラスの違いは、その服装や行動、職業等、本当に明確に分かれている。そして今思い出すと、自分が主に話をしてきたアメリカ人は、実は中から上の人達ではなかったのと思える。折角、アメリカに来たのであるが、所謂、黒人やメキシコ系、或いは腕や足に刺青をした多くの人達がアメリカには溢れているが、彼らとは不思議に会話を交わした経験が少ない事に気がつく。 ・自分は今まであくまでも自分の考え方が絶対に正しいと考えて、それを声高に主張してきた。アメリカでは、この事が本当に重要だと実感した。しかし、日本人同士で話しをする場合は、少し聞き手に回った方が良いのではなかったのかという反省もする気持ちになった。 ・夕方、6時にMiとKazに会う約束をしていたので、二人を車で家まで迎えに行った。明日はLAを離れるということで、三人で最後の夕食を食べるように招待してくれたのである。二人がホーム・ステイしているすぐ近くにチョット洒落ていて、いつも客が絶えない小さなフレンチ・レストランがあった。何時も店の前を通るのだが、今日は初めて中に入った。そして3人で何皿か頼み、ビールで乾杯した。この店の食事は、今までアメリカに来てから食べた記憶が無いほど美味かった。そして値段も安くて最高でした。 ・店を出た時は既に9時を過ぎていた。どこかでお茶を飲みながら最後の話を続けたいと思ったのだが、この近辺では、9時を過ぎるとスター・バックスを始めどこもクローズされてしまうことがわかった。残念ながらこれでお別れだった。別れる時に、自分が5週間位前にステイプルで買ったカーナビをMiが欲しがったので譲ることにした。Miはタダでは嫌だというので$50を受け取ってから、使い方をできるだけ丁寧に教えてから皆と別れた。 11月29日(月) LA出発 略 12月1日(水)成田着 略