2011年10月21日金曜日

10/4(Mon)--10/10(Sun)

10月4日(月)私のプレゼンについて(1)
・学校の授業でプレゼンテーションをやることになった。話しをする持ち時間は15分位で、質問とそれに答える時間が15分位を考えて欲しいとのことだった。そして、プレゼンテーションを上手くやるための注意点や、トピックスの構成の作り方などの話があった。このプレゼンテーションの時間は、当然のことながら話の内容が重要なのではなく、皆の前で、英語で何かまとまったことを話す訓練の場である。アイ・コンタクトで聴衆の様子に合わせて、話し方を少しずつ変えていくようなという所に、訓練を行うポイントがある。しかしながら、自分としてはただ上手に話をするのではなく、キチンとした内容のある話を伝達したいと思った。
・自分は話の内容として、授業前に行った旅行の中の話題から、アメリカの道路事情をテーマとして選択した。特に道路の作り方やその設計方法について、日米比較を行いそこから何かの意味がありそうな仮説を立てて、それを検証することで何を伝えたいと考えた。そこでタイトルを「アメリカン・ロード」と決めた。
・構成としては、まず事実としてのアメリカの道路の特徴を、日本のそれと比較する形で説明する。次にそれによって生じるメリットとデメリットを整理する。更に、どうしてそうなったのかについて考えるために、その背景にある日本人とアメリカ人の考え方の違いを仮説として述べる。そして、仮説に沿ってデータを調べる。調べた結果を分析する。そして、最終的に得られた結論をまとめる。というような構成を考えた。
・アメリカの道路は日本と比べると幅が広く、特に高速道路はレーンの数が多いこともあって、実に合理的に出来ているのである。自分はこの点を強調して、その理由として「アメリカ人は日本人より合理的な考え方をする」という仮説を立てた。
・そして分析結果として、実は仮設は間違いであること。民族の考え方の違いから道路の作り方が違っているのではなく、最終的にはスペースの広さが決定的な要因となって、根本的な道路設計の違いとなって現れるという結論を導くことにした。ただ単に、設計しやすい為にそうなっているだけ。
・アメリカは広くてスペースが余っているので、何処に行くにしても相当に長い距離を移動しなければならない。そこで、できるだけ短時間で移動する事ができるように設計しているのである。日本では逆に、狭い所に無理やり道路を通すようにしているので、速度よりも安全を第一優先で道路を設計していること。従って、基本的な人間の考え方の違いが原因ではないということを結論として強調したいと思った。

10月5日(火)買い物
・今日、学校から帰ってくる時に購入するべきものをリストアップした。そろそろ寒くなる可能性があるので、長袖のスポーツシャツ、ジャケット、英語のヒアリング練習用のヘッドフォン、授業で使う英英辞典、それにプレゼンテーション用の資料をまとめる為のパワーポイント等である。
・自分は一応、UCLAの学生なので、学校の生協で売っているものであれば何でも安く買うことが出来る。特にPCのソフトウェアは、学生用のアカデミー版を買うことが出来る。自分は「オフィス」の中の「パワーポイント」だけを欲しかったのだが、パワーポイントだけではなく全てが入っている 「オフィス」 のフルセット版が$99で買えることが分かった。日本円で計算すると8000円位である。(確か街で購入すると、日本では4万円位の筈である。)
・早速、購入してPCに入れて使ってみた。当然のことながら英語版の仕様なので、プルダウンで出てくる単語は全て英語であるが、日本語辞書も入っており基本的な操作に困ることはなさそうである。
・毎日の往復の通学時には、できるだけ前日にウォークマンに録音していたNPRのニュース番組を繰り返し聴くことにした。その為に、新しい新型のウォークマンかアイポッドのどちらかを、後で学校の生協で購入しようと想った。

10月5日(火)UCLAのキャンパス
・学校の授業は朝の9時に始まり午前中の授業は12時まで、そして午後は1時から3時までで終わってしまう。そこで、自分は何時も授業が終わった後は1時間位教室に残って学校に備えられているPCを使って、一人で英語のテキストをヒアリングすることにした。このPCには色々な講座がセットされていて、生徒達はそれを自由に使うことができる。英語を聞きながら、自分の声を吹き込んでそれを聴くことや、読みの結果の理解度のテストをしながら少しずつ進んでいこうと思った。
・もう、既に一週間も前のことであるが、学校が始まって二日目にUCLAの構内の施設を案内してくれるというツアーが有ったので参加したのだった。UCLAには想像していたとおり色々な贅沢とも言えるような施設が沢山ある。立派な図書館が幾つも(確か大小5か所位あった)あるし、大きな講堂では毎週のように有名人が講演する音楽会もある。今週末(既に終了している)にはジャズのオーネット・コールマンが来たという。しかも、通常チケットが$90なのに対して、UCLAの学生であればわずか$15で聞くことが出来る。
・そのツアーで知り合った学生にYRがいた。YRは社会人として実績を残しながら、3ヶ月間の出張が認められてここに来ているという。英語は学生時代にかなりやって来たと言っていたが、実際に相当な実力の持ち主だった。従って、当然のことながらアドバンス・クラスのメンバーなので、自分とは別のクラスなのだが、話が合うこともあって時々会うようになった。
・彼女が時々であるが、授業の後で自分が一人でヒアリングをしているとやってきて相手をしてくれるのである。そこで、コーヒー・ショップの場所を移動したりして、彼女の話を聴くことが自分の楽しみに加わったのである。

10月6日(水)アメリカのコーヒー・ハウス事情
・今日の授業が終わった後で、PCラボで英語のテキストを聞いていたらYRが会いにやって来た。彼女は週に何回かこうしてやって来るのであるが、会っているととても楽しいのでテキストを聞くことは止めて一緒に外に散歩に出かける事にした。
・UCLAがあるウェスト・ウッドはロスアンジェルスでもチョット高級で綺麗な街である。気の利いたカフェやレストランやブティック等が沢山あり、そして、どのカフェも少しは裕福そうに見える若い男女の学生達で溢れている。そのような街を、散歩をしながら歩き、そして歩き疲れるとコーヒー・ビーンでお茶とクッキーを食べながら話を続けた。40年も前の学生時代のキャンパス生活に戻ったような懐かしい気分だった。
・彼女は自分からみると、英語の能力は申し分がないように思われた。しかし、初めてYRに会った時には、彼女は授業の内容について悩んでいた。一つは周りの生徒達が既にネイティブに近い連中ばかりなので、同じように彼らの間に入っていく事が難しいということで、少しだけ自信をなくしていた。もう一つは、UCLAでの授業方針が他の語学学校と随分違っていると言うことにあった。言い換えれば、UCLAでは会話練習の時間は殆ど無く、一人一人の生徒に質問して答えさせるやり方ではなく、積極的に発言させそれに積極的に参加した生徒だけが上達していくという考え方である。従って、生徒同士で勝手に話して英語に慣れることが重要であるというやり方だった。過去の豊富な授業の経験を活かした、系統的なスキル・アップのトレーニング・システムがあるようには見えず、まるで学校は思い思いに会話をする場と機会だけを提供しているだけのように見えるからである。こんな所にやってきて、時間と金のムダであると思い始めているようであった。
・また、YRはアメリカに出張して来て、やるべきテーマも持っていた。彼女の勤め先は大学だと言うこともあり、大学における授業を改善していく方法について、自分でいろいろな事例や資料を調べて、改善方法について提案するという課題を持っていた。そこで自分の英語力のないことは棚に上げて、できるだけYRを励ましてやり、彼女の力になってやろうと思った。色々と話しを聞きながら、やった方が良いと思われる、対応策などを考えたりしたのだった。
・実は後で明らかになることであるが、YRは行動力の持ち主だった。既にツテを頼って、UCLAだけではなく、全米のいろいろな大学の教授達に対して、面談を希望するアポイントを取ろうとして、いろいろ動いていたようだった。自分でツテを広げて、全米の大学の教授達に実際にアポイントを取って、サンフランシスコやジョージアやマサチューセッツ等にヒアリングをする為に出かけて行く計画を立てていた。時々は上司に中間報告書を送っている様だった。それにクラスの他のメンバーとは、まるでネイティブのように話している。
・別の日の事だったが、YRと一緒にサンタ・モニカのレストランで食事中に、彼女は周囲の人達が何を話しているかを聞き取ることが出来ると言っていた。自分は彼らが話している内容など、騒音のようであり全く一言も聞き取れないというのに。

10月7日(木)フェース・ブックが大流行
・実は自分はアメリカでクラスの大半がやっているという、フェース・ブックというものを知らなかったのである。これは学生たちの間では、既に殆んど100%近く浸透していて、自分には彼らがまるで中毒しているのではないかと思える程であった。例え、授業中であろうと彼らは携帯を横において10分おきに交信しているようだった。
・そこで、自分もフェース・ブックを始めて見ようと想った。まずはMeiとKazに友達になってもらった。YUKに話をしたら、友達になりたいと言ってくれて、更にスコットとアダムを紹介してくれた。スコットもアダムも授業の先生で、毎日のように顔をあわせている。そして、高さんから食事の誘いが有ったので、フェース・ブックの話をしたら、彼もリストに入れてくれるという。
・こうして実際に顔を合わせている友人達が、フェース・ブックの友人としてもドンドン増えていくのが何となく嬉しい気分である。何故ならば、彼らは実際に知っている友人達なので、自分が何かを発信すると必ず誰かが反応してくれる。アメリカに一人で暮らしていても、寂しさを感じることがないからである。フェース・ブック上の友人達と言っても、実社会でも顔を合わせて話をしている連中ばかりなので、日頃の応答がまるで世間話の延長のような気がするのだ。何しろ、自分は彼らの先輩などではなく、意識としては自分も彼らと同じ立場の生徒なのだから。
・自分は既にリタイアしている身分であり、年齢から言えば彼らの父親より上であることが多い。普通であれば友人と言える間になることは考えられないことだった。事実、自分の娘にこの話をしたら、彼女は60歳を過ぎた爺さんとは話が合わないだけではなく、話などをしたくないし、それは考えたくもないことだと言っていた。
・しかし、ここはアメリカなので、日本にいる時とは決定的に異なっていることがある。若い学生達も、そして、一度、社会人を経験しながら会社を辞めて留学している学生達も、そして自分もまた、皆、一様に期待と大きな不安や悩みを抱えている。それが自分には分かるからだ。この事は彼らと同じ境遇や立場に立たないと、実感出来なかったことかも知れない。
・更に言えば、自分は一応、社会を垣間見て来たという経験を持っている。従って、彼らが悩んでいることの構造が理解できるのだ。ただし、ここで注意をしようと自分に言い聞かせたことがある。それは自分が娘に対して何時もしているように、解決策を彼らに教えて上げるというような、上から目線で接することは絶対にしないことだった。だから、彼らと付き合う時は、基本的に勘定も割り勘である。そして、自分が楽しいと感じることと、彼らにも変なストレスを与えること無く、同じ学生同士の友人として感じて貰えるように努力して行こうと考えた。

10月8日(金)学校の授業について
・今日の午前中は授業が全く乗らなかった。今、通っているUCLAの語学コースでは、二つある能力クラスの内、自分はアドバンス・クラスではなくその下のクラスの方にいる。そして、別に根拠はなかったのだが、自分はそのクラスの中では平均かまたはそれよりも少し上にいるに違いないと思い込んでいた。しかし、何回かの授業を受けている内に新しい事実を発見した。先生が何を生徒達に指示したとき、殆んど全員が素早く作業にとりかかるのである。しかし、自分は先生が言ったことを完全には理解していなかったので、何をどうすれば良いのか分からないのだった。隣の人に聞くと、直ぐにやるべき事を教えてくれる。皆、チャント先生の話す英語を完璧に聞き取っているのである。
・特に自分にとって困難であったのは、PCディスプレイを使って、誰か他のメンバーと組んで、ヘッド・フォンとマイクを使って質問をやりあう形式の授業である。そして、パートナーを次々に変えていき、質問した内容とその答えを、キーボードから入力していかなければならない。次の授業の時には、添削された印刷用紙が返されるである。このやり方は、クラスの人数が多いために、仕方なく採用されている方法だと思うが、ヘッド・フォンにノイズがあったりして、実に聞き取りにくいのが答えるものだった。また、自分はキーボード入力が遅いだけではなく、入力するべきスペルが良く分からないので、ついいい加減になってしまうのである。しかし、ほとんどのメンバーがそんなことは全く気に留めていなかった。キー入力はあっという間なので、まるで普通に言葉で話し合っている様に見える。
・このやり方に不満を感じている生徒がもう一人いた。それは40台後半の韓国人の歯医者さんの女性だった。そこで、自分はこのような(イージーな)やり方は自分には合っていないし、好きでもないと先生に言った。そうしたら、次回からはコンピュータを使うのではなく、互いにメンバーを見つけて対になって質問しあい、結果を紙に書き出す方法に変更されたのである。自分には大いに助かったのだった。
・またUCLAの授業方針は、授業中に一人ずつ当てて発表させて練習させるようなやり方ではなく、各自が積極的に参加しなければ練習にならないようなやり方である。更には生徒同士が互いに友人として話すことで、英語に慣らせようとするものであったので、どうしても気後れしてしまうような生徒は練習にならないのである。すなわち、授業に積極的に参加し活発に参加できないと、何となく燃焼したりない気分がするのだ。
・自分が此処にきて、何となくフラストレーションが溜まってきた理由がわかった。自分は年令に関係なく、多くの学生同士で友人関係を作り、いろいろな事について英語で議論する機会を持つために此処へ来たのだった。それが思いの外、実行出来ないために、思ったような充実感を味わえない。午後からは、積極的に議論に参加して行こうと、改めてそう想ったのだった。
・今日は、ランチを友人達とガヤガヤと食べるのではなくて、一人でチャンとしたレストランでインド・カレーを食べた。もちろんウェスト・ウッドの校舎の近くにある店なのだが、さすがにここは少しだけ値段が高い所なので、客の多くがビジネスマンのようだった。店も綺麗だし、チャンと真っ白なテーブル・クロスが掛かっており、チップも必要な店であった。メニューから「ビーフwithグリーン」を頼んだ。出てきたディッシュは山のように盛られたライスとカレーで、カレーは兎に角辛く、ライスは細長いパラパラのフライド・ライスだった。味はマアマアだったし値段もチップを入れて$12位だった。

10月9日(土)映画館でショックを受けた後のささやかなホーム・パーティ
・アメリカにいる間に英語の勉強として、一度は映画を見たいと思っていた。今日は土曜日で学校が休みなので、思い切って映画を見に出かけた。別に映画は英語であるならば何でも良かったし、何処で何をやっているのかは全く調べていなかった。しかし、ウェスト・ウッドには3件の映画館が有ったので、その中の一つに入ったのだった。料金は学生割引とシニア割引が同じだったので学割にした。通常で$15の所が$10であった。
・所が映画は英語の勉強には全く役に立たないことが分かった。アメリカの映画館であるから、当然、字幕がつかない。そうすると、耳で聞いているだけでは、一言も聞きとれない。画面を見ることで話の筋は理解できるのであるが、言葉が全く分からず、映画はレベルの差が違いすぎて、語学勉強には全く役に立たないことを実感した。
・映画をみた後で、一人で大学の図書館に出かけた。その後で、デパートで買い物をして、夜、家に帰ると、既に一緒にホーム・ステイをしている他の二人が、自分達で食事の準備をして待っていてくれた。今日はホーム・ステイをしている3人で、ささやかなパーティをやると言う。MEIが中国料理を作ってくれて、KAZがワインを買ってきていた。自分は何も知らなかったのだが、聞くと今日はあの細かいことに口を挟みたがる、煩いホスト・ファミリーは出かけて夜遅くまで帰って来ないらしかった。
・料理はアメリカに来てから、最も美味しいと感じた位、口にあって美味かった。Kazが買ってきた白のイタリア・ワインも強すぎず美味かった。食事を食べながら、はじめはホスト・ファミリーのつくる料理の不味さや手抜き料理等の悪口を散々言い合った後、口が軽くなって色々なことを話し合った。
・食事を終えた後、簡単な片付けを手伝った後で、二人が自分の部屋にやってきて、今度はウイスキーを飲みながら、夜遅くまで話を続けた。このような時間は、一日のストレスを解消するためには、とても良い時間だと感じた。料理を作ってくれたMeiに対して、何かお返しをしたいとも想った。

10月10日(日)トーランスという街で会った中国人
・午前中にホームステイ・ファミリーの洗濯機を借りて、一週間ぶりの洗濯をした。洗濯機と言っても日本で普通に見られるサイズよりは、数段に大きくてそして日本では見る事のないようなかなり古い物だった。(これはコインランドリーでもそうだった。)洗濯機で洗った後には、日本では太陽の恵みを受けて洗濯物を乾かすのが一般的である。しかしここでは日本と違って、電気エネルギーをフンダンに使って全自動の機械で乾かすのが普通である。乾燥機が止まった頃を見計らって、洗濯機が置いてあるガレージに行ってみると、そこにはカラカラに乾いて皺くちゃになった洗濯物があった。
・Meiは同じ一部屋を占有しているだけなのにもかかわらず、自分には想像もできないほどの、沢山の山のような衣装を持っている。そしてここに住んでいても、更に毎週の様に安くて一見豪華な衣類を買ってくる。多くは、インターネットで買っているようだった。しかし、彼女は決して洗濯機を使わないのだ。カラカラに乾いて皺くちゃになった洗濯物は我慢出来ないという。彼女だけはホスト・ファミリーの裏庭で、窓枠と植木の間に紐を通して、下着や白地に派手な金のラメのついた服などをぶら下げている。スタイルが良いせいか、派手な服が彼女には本当によく似合っている。
・自分が洗濯機にかけた洗濯物を畳んでいると、Kazが今日、もしも暇だったら 一緒に出掛けないかと声を掛けてきた。聞いてみると、彼が付き合っている日本人で、ハリウッドにある高級マンションに住んでいる女性が居るという。彼女が今日IKEYAで家具を買いたいらしいから、一緒に付き合ってほしいとのことだった。Kazが彼女と付き合っているといっても、実は所謂「彼女」ではなく、彼女が何処かへ出かけるための足として必要とされている様だった。今回は購入するものが家具ということで、要するに運び屋を手伝って欲しい事のようらしい。自分はこちらに来てから知り合いも少なく、休日は暇なことが多いので、残念ながら断る理由もなく 暇つぶしに出かけることにしたのだった。
・予定ではIKEYAで家具を買って、夜は更に別の中国人の女性の留学生を含めて、食事をしようというものだった。それは尚更良いと思った。昼食としてリンゴとバナナを齧ってから、Kazの車で出かけた。
・ハリウッドのマンション街に着いてから、電話で連絡をして外で待っていると、一人の小柄な女性がマンションから出てきた。彼女がKさんであった。年の頃は40歳位のように見えたが、ロスアンジェルスでは2つの医学系の学校に通っていると言う。それはとても大変なことだと自分では言っていた。確かに英語の授業を一度に沢山受講しているということは、日本とは違って想像を絶する苦労があるだろうことが容易に予想できる。日本とはレベルが違うというのではない。アメリカの大学では、単位を取るために週に本を何冊も読まなくてはならない。また、相応のやるべき事を、時間を掛けて真面目にチャンとこなしていかなければ進級できないからだ。不合格の場合は、コンピュータが情け容赦なく知らせてくるらしい。ましてや日本人は英語のハンディがあるので、最初の数年間は誰でも大変な苦労をすると誰もが言う。
・しかし、彼女はさすがにアメリカで、長年一人で暮らしていることもあって、一人で生きて行くための図太さを身につけているようだった。自分にとって不都合なことが有った場合は、勝利を勝ち取るまでは絶対に引かないと言っていた。「アメリカ人に対しては、何か有った時に、多くの日本人がするように、逃げてはダメよ。チャンと粘り強く交渉することが大事ね」と言っていた。強そうな女性だった。
・IKEYAは建屋の構成から商品の配置に至るまで、全く日本にあるものと全てが同じようであった。建物の中をぐるぐる廻って歩いて行くと、日本で見るものと同じ様なものが同じように配置されている。彼女は安いが使い勝手の良い、引出しタイプの洋ダンスを欲しがっていた。7000円くらいの価格で、どれも同じように良さそうな物が幾つか直ぐに見つかったのだが、実はそれから一つに絞り込むまでが大変であった。
・IKEYA では出来上がった家具を売っている訳ではなく、倉庫まで行って自分でキットのようなものを運んで来て、それからレジで支払いをする。家具は家に持って帰ってから自分で組み立てるので、どうしても男の手が必要なのであった。
・IKEYAで買い物をした後は、トーランスの街にある日本のスーパー「ミツワ」へ行くという。行ってみるとそこは、全くの日本の大型のスーパーであり、何もかもが見慣れた日本のスーパー・ストアであった。店の中には、パン屋や握り鮨のコーナーまであった。何れも日本にあるものと見たところ同様である。ただし、値段だけは日本よりは幾らか高い様だった。
・トーランスと言う街は、実は日本人がとても沢山住んでいる所である。それは大きな自動車会社が幾つかあることが理由だった。何しろメイン・ストリート走っていると、「トヨタ・ストリート」という名前の通りまである。夕食を予約してあった日本食レストランでも、客は日本人ばかりであった。あちこちから大きな声で話をする、元気な日本語が聞こえてくる。今まで自分はアメリカに来てから、日本人には殆んど合わなかったのだが、ここはまるで日本である。話す言葉も食べることができる日本食も、全く日本そのものだった。
・ちなみに自分は、料理としては「五目野菜炒め焼きそば」とビールを頼んだ。どちらも日本の中華料理店で食べるのと全く同じ美味しさであった。実はロスアンジェルスの中華料理店で、このような美味しい中華料理を食べることはなかなか難しいのである。どこへ行っても、アメリカ人が好むエスニック調に変えられており、味がとても辛くそして量だけがやたらと多いのだった。
・丁度、夕食を一緒に取ろうと約束した時間(夕方7時)からほんの少し遅れて、中国人女性の王さんが現れた。彼女は学生と言っても、実は既にトーランスにある病院でナースとして週に何回か決まった時間に仕事を持っていた。ここに来る前は日本の茨木大学と同大学院で学んでいたということで日本語が上手だった。
・彼女と日本語で話していて直ぐに、彼女がとても考え方のしっかりした、そして行動力のある素晴らしい女性であることが分かった。アメリカで学んでいる理由は、アメリカの大学では看護学の学位やドクターを取得する道が開かれているからであるという。そして、資格を取得した後の現場では、医者と対等の立場に立つ可能性のある専門職として認められているらしい。中国や日本では、看護婦(夫)の学位やドクターが資格として認められておらず、従って、看護婦はあくまでも医者の補助であって、専門職とは認められていないのが現状だという。そういえば、看護婦のドクターと言うのは日本で聞いたことがない。
・彼女は昼間、実務に携わりながら大学で単位を取ろうと頑張っているという。そして彼女の抱えている悩みは、学位やマスター、及びドクターを取得しても、その後、アメリカでずっと暮らしていかなければ、資格が生かせないことだった。もう一つの選択として、日本や中国に帰国する方法が考えられる。しかし、その場合には、せっかく学んだ資格が生かせないと言うことで、看護婦として働く道はあまり得策ではないと考えている。
・王さんと話をしていて、色々なことに気付かされた。中でも自分が感心したことは、自分の夢や目標に向かっていこうとする、そのひたむきな考え方と行動力である。更に彼女の場合には、困難に立ち向かっているというイメージが全くなく、とっても楽しく生活しているという強さが感じられることだった。従って、自分は自分の長い経験をもとに、何か少しは役に立つアドバイスの様なものを話したいと想ったが、軽々しく勇気づけてあげる事はできないと圧倒された。そこで、ひたすら彼女の話を聞くことで、数時間があっという間に過ぎ去ってしまったのだった。

・その日、家に送ったメールで、自分が女性のマンションに行った話を書いた。しかし、それが元になった誤解から、家では大変な事件が起きていたのだった。自分は帰国するまで何が起こったのか理解出来ないだけではなく、一度、生じた喜劇のような誤解を解くことが出来ず大変な苦労をすることになったのだった。

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