2012年3月30日金曜日

アメリカ西海岸のドライブ旅行日記11/4

114日(木) 探し求めていた露天の温泉に始めて入った!

・朝7時頃起き出して散歩をした。一階に部屋を取っていたので、ドアを開けると直ぐ目の前に自分の車を停めているのだが、車の窓や屋根が凍りついていた。バンパーの所には何箇所かつららができていた。冷たい空気を感じながら、ダウン・タウンに向けて歩く。

・散歩の途中で腹が空いてしまったので、何回か通って馴染みになった大きなスーパー・マケットに行った。いつものように、本日のスープと手頃なパン、それに持っていったバナナとりんごを食べる。朝食を食べながら、地図を頼りに、今日一日でやりたいことや行きたい所をチェックした。そして、必要になる筈のバスタオルを探して歩くが結局は売っていなかった。






・宿に帰ってから荷物をまとめて9時頃に出発した。今日の予定は、まずは街の西側にそびえ立つ山の周囲の観光用の山岳道路を走ることだった。昨日の青年たちが川下りをした川は、地図によるとこれらの山の間にある湖から始めっている。そこの所を実際に目で確認しておきたかった。そして次には、昨日、手に入れた温泉ブックの案内に従って、是非とも男女が自然な姿で入っているという、原始的な露天風呂の温泉の幾つかを、実際に経験することが今日の目的である。

・いよいよ山に入っていくR45に入る。入口の付近には、まるで別荘の様な洒落た綺麗な家や景色が続いている。やはり、川下りの青年たちが言っていたことは正しかったと思った。

・道はドンドン登っていくが、途中から両サイドに雪が積もっているのが見えるよう
になった。今回のドライブではタイヤ・チェーンを持ってきていなかったし自分一人なので、もしも車がスタックしてしまったらどうしようかと云う不安が頭をよぎる。しかし、できるだけ日の高い内は、行ける所まで行ける筈と考えた。





・しかし山岳道をしばらく行くと、Mt.Bachelorスキー場についてしまい、此処から先は雪のため道路が閉鎖されていた。結局、予定した周遊コースは車で走ることは出来なかった。そこで、スキー場の周囲をウロウロしながら、写真を取るのに良いと思われる場所を探した。しかし、どんなに工夫しても、小さなカメラだったので山がよく映らない。全く盗まれてしまった一眼レフカメラが惜しかった。

・山を下る途中でふと下界の方を見ると、山々の間に雲が雲海の様に佇んで見えた。山に囲まれた、まるで日本を思い起こさせるような光景だった。

・写真を取るためにあちこち移動している内に一時間以上が過ぎてしまい、既に午後になってしまっていた。できるだけ来た道を通らないように道路を選んで走っていると、小さなしかし小奇麗なカフェが見つかった。迷わずそこに入って、ピザ・ピースとペプシを頼む。前部で3ドルだった。

・店の中で地図を広げて見ていると、中にいた客の何人かが話しかけてきた。ユージーンに住んでいるらしかったが、この近くの山の中で3週間も滞在しながら何かの工事をやっていて、今日、これから家に帰る所だと言っていた。温泉のことを聞いてみたら、そんなものがあるという事自体聞いたことがないと言っていた。やはりアメリカでも、温泉に入る人は物好きなのか。

R97から山の中を抜けてR5沿いにある街ユージーンに向けて通っている道路R58に入る。両側には背の高い木が密集していて、暗い道であったが自分にとっては、木の香りがとても気持ちの良い山の景色だった。この様な景色は、南カリフォルニアでは見ることができない、まるで日本を思い起こさせるような、良い眺めだと思った。

・ガイド・ブックによるとほぼ峠の近くに目指す温泉が有る筈だった。注意していたが通りすぎてしまいOakridgeという名の小さな村まで行ってしまった。そこで何人かに聞いてみると、場所を知っている人がいたので、それを頭に叩きこんで戻っていく。言われたように道路脇に広い駐車場、といっても自然のままのただの大きな空き地だが、があった。しかしながら、温泉とか露天風呂などという案内に標識は何処にもない。しかし、何台か車が止まっていたので、先客がいるに違いない。

・駐車場から約100m位、川の方に斜めにゆっくり降りていくと、河原に小さな池のように水が溜まっている所が幾つもあった。あちらこちらの池の中に、既に何人かの人が体を沈めているのが見えた。素早く数えると、若い女性が数人、若い男性も数人、老人が数人という感じだった。

・自分は何処に行って良いのか一瞬迷ったが、既に若い一組の男女が入っている、一番大きな池に近づいていった。見ると若いカップルは二人共水着をつけている。しかし辺りは全くの原始的な河原で、視界を遮るものは何も無い。囲いも無ければ、ランプも何も無い所であった。皆が見ている所でパンツを脱ぐことはとても恥ずかしかった。そこで、下にはパンツ=水着をつけて入る事にした。

・自分が入っていくと、若い男性の方が話しかけてきたので、なんてことはない世間話をしていた。するとしばらくして、一人の老人がやってきて何も身につけない姿で入ってきた。すると、若いカップルがそわそわし出して、帰り支度を始めた。しばらくして、女性は濡れた水着の上からそのままジーパンを履きシャツを着てしまった。そして、二人でサヨナラと言って帰ってしまった。

・しかしながら回りを見渡すと他の池には、若い女性達が何人かいて、そちらの方は皆が何も身につけずに そして如何にも堂々としていて湯から出て歩き廻ったり、岩の上に座っていたりしていた。当然、アメリカでは手ぬぐいや小さなタオルを湯の中に持ち込む習慣はないので、全てが丸見えであった。カリフォルニアでよく見るような、太った女性ではなく、素晴らしい美しい体をしていた。

・この季節ではあったが、昼間のせいか濡れたパンツと上半身裸で石の上に座っていても、全く寒さを感じることはなかった。実に爽快な気分だった。心が軽くなってリラックスして来たので、先客のご老人に話しかけてみた。はじめは当たり障りない話をしていたのだが、この老人がとても話し好きだったので、結局、2時間位二人で湯に浸かりながらいろいろな話をしてしまった。


・彼は既にリタイアしているが、今でも時々美術の仕事をしていて、時折、学校で教えていると言っていた。自分はリタイアの人生の過ごし方が、まだ良く決められないし今のままでは満足できない上、良いモデルとなるような先輩も見当たらないという話をしたら、彼は自信を持って今の生活は最高だという。人生はできるだけ仕事を減らして、自由きままに暮らしたほうが良いという考え方を持っているようだった。これは良い先生を見つけた。だったら、過ごし方を教えて頂戴という様な、師弟の関係になってしまったからであった。

・しかし、はじめは仕事を止めてしまったことに後悔はないと言っていたのだが、70歳を超えた今でも実は仕事に少しみれんが残っている様な気がした。逆に言えば、70歳を超えた今でも好きな仕事が出来る所が素晴らしい。途中、犬を連れた男の二人連れと、その後からは腕に刺青をした男性が入ってきて、この池は男ばかりになってしまった。全員が丸裸で、パンツを履いているのは自分だけだった。


・最後に別れる時に二人で記念写真を撮ってもらっ
た。もちろん、周囲は全く写さないように注意してもらった。ご老人はこの後も、まだ、湯に浸かっているといった。写真を撮ってくれたのは、その後に来た40歳位のオッサンで、トラックの運転手であった。良くこの温泉を利用するらしい。やっぱり、日本人だけではなく誰だって風呂はゆっくり浸かってこそ良いものなんだ。そういえば、イタリアの方には、大昔から市民の憩いの場所は風呂だったのを思い出した。

・温泉に入った後は、ユージーンまで行って、今夜の泊まる所を探した。あれこれ悩んだが、結局、高速道のICの近くにあったモーテル6に落ち着いた。ここは、街の中心地ではないが、そもそもユージーンの街の中を高速道が通っているので、その中心部に近いICなので何処に行くにも便利な所であった。部屋は十分に広く綺麗で、価格は44ドルだった。(価格は全て税込)

・今夜の夕食はユージーンの市街地に行く途中で見つけた、シーフードを全面に出した中華レストランに決定した。久しぶりにキチンとした料理を食べた気がしたが、価格は安く前部入れて9ドルで上がってしまった。アメリカに来てから食べた料理の中では、この料理は美味しいランクに入れることが出来る。しかし、日本ではこの位が当たり前であるが。何でワザワザまずく作ることが出来るのか、本当に不思議だ。

・(最近日本では、日本の料理がアメリカの間で人気があると云う様な報道を耳にする事があるが、実際に体験した限りではアメリカ人の口にはあまり合わないようである。何回か日本料理店で食べてみたが、多くの人が食べ残したまま出て行ってしまう所を目撃した。彼らは味が濃くて辛くてしかもしつこい料理を山のように食べることが好きらしいという気がした。)
















アメリカ西海岸のドライブ旅行日記11/3

113日(水)オレゴンのBendという街に行く

・朝、ショッピング・センターの中にあった大きなスーパー・マーケットで、店を広げていた惣菜売り場でスープとサンドイッチを買ってフードコートで朝食を食べながら、今日一日の行動計画を検討した。 南に向かって高速道路ではない道、できるだけ田舎道を走りたいと思いR216を選んだ。何処までも果てしなく続く大平原。その中を、たった一本のカントリー・ロードが延々と続く。回りに丘があって道がカーブしている所が多い。また、坂道が有ったりするので、道路も先が見えたり見なくなったりして変化していく。僕の前に走る車はいない。後ろにもいない。


・家がたまに一軒有ったりするのだが、驚くことにスクールバスが走っているのが見えた。ここで育つ子供は、日本の狭くて密集した都会暮らしの子供と同じである筈がないと思った。何が違うのかは分からなかったが、時間や距離の尺度は全く異なると思う。もしかしたら、こちらの方がスピード感はあるかも知れない。日本のように歩いて生活することができないので、何処に行くにしても車を使い、そして普通に走るときでも、時速100km/hで走る生活だからだ。何せ土地の広さが半端ではない。
・更に田舎道の方に入っていく。Warm Spring方面と書かれた看板があったので、迷わず更に奥へと向かう。全体としては南に向かっている筈だった。途中、Simonashoという名前の所に出た。しかし、ガソリン・ステーションと萬屋の店が一緒になった家が一軒あるだけである。その家の前にベンチが合って、一人の老人が座っていた。人が座っていた。

・誰かと話がしたかったので、近くに車を止めて近寄っていく。顔に深いシワが刻まれて、随分と年がいっているように見えた。多分、80歳は超えていると思った。彼はインディアンで、昔はミドル級のボクサーだったという。年を聞いてビックリしてしまった。何と自分と同じ63歳だという。

Warm Spring方面に行くと言ったら、自分も行きたいという。しかし、帰りはどうするのだ? 本当に行きたいのかどうか分からなかったので、早々に引き上げることにした。

Warm Springは確かにこの辺りでは大きな村だった。中心の近くにこの辺りでは大きなスーパー・マーケットと言うより、下町の仲見世の様な暗い売り場が幾つかグループで固まっていて、そこで何でも売っていた。

・周りにいる客を観察していると、ここで出会う人は殆どがインディアンの血を引いているように見えた。色が浅黒くて、髪が真っ黒で、背も低かった。顔は東洋系でふっくらしているが、鼻の形が日本人とは違っている。もしかしたら、ここには彼らの独自の文化の名残があるかも知れないと思い店の中に入った。

・店の中で、揚げたチキンとフライド・ポテトとコーヒーを買う。2.15ドルだった。何とここで売っているものは、値段は安いが中身は他の街の大型スーパー・マーケットで売っているものと同じである。彼らもその昔は自分達の固有の文化を持っていたに違いないが、今では完全にアメリカ人と同じ生活をしている様だった。大体、昔のインディアンがフライド・ポテトを食べていたとは思えない。

・店の人が、フライド・ポテトはここではボジュレというと教えてくれた。店の横の駐車場は舗装されていなかったが、端っこの方に大きな石が幾つかあったので、そこに座ってランチを食べた。

Warm Springを出てしばらく田舎道を走っていると、綺麗な清流に沿って小さな公園が見えた。一休みしようと思って公園の駐車場に車を止める。直ぐ近くで、白人の男ばかりの大学生らしき若者が45人集まって、車から大きなボートを下ろして何やら準備に忙しそうだった。近寄って話を聞いてみると、ここからコロラド川に出て、更に河口まで4泊で川下りをするという。チョット時期的に寒くないかいと思ったが、彼らはTシャツに半ズボン姿であり、裸足で水の中に移動しながら荷物を積み込んでいた。

・これから今日はBendに行くと言ったら、自分達もその近くから来たという。Bendはとても綺麗な良い街だよと言っていた。そしてこの川はBendから流れて来るのだといった。確かにここから南のほうへ行くと、川は段々と急流になる。地図を見るとBendの近くにCranePrarieという名の大きな湖が見つかった。

Bendは比較的に大きな町だった。つまり国道沿いに家が並んでいるだけではなく、所々、銀行などの建物が見えた。そして、国道から少し離れたところには、住宅地が広がっているようだった。車を今夜の宿としたMotel 6において、取り敢えず、町の中を散歩することにした。ちなみに宿代は49.5ドルだった。

・大きな町だったがまずは比較的、家や店が有りそうな大通りを行く。すると若くて知的な顔をした、金髪の女性ホームレスに出会った。「私はホームレスです・・・」 と書かれた紙を持って、この寒い中をずっと歩道の脇に座り込んでいた。家がないということは、今夜は何処で過ごすのだろう。今まで、随分沢山のホームレスを見たが、若い白人の女性を見るのは始めてだった。見たところ、五体は満足のようだったが、いろいろな事情があって仕事をしていないのだろう。本人も下を向いて寂しそうにしているように感じた。

・自分は何をしてあげられるのか? そもそも、中年過ぎの黒人の男性ホームレスには、あまり何も考えずにコインを入れたりできるのに、そしてLAのようにその数も半端ではない場合には、こんなに色々なことを考えずに通りすぎてしまうのに、何故、若い白人の女性ホームレスには、こんなにも複雑な思いを感じてしまうのだろう。自分が何も出来ないことを見透かされているようで、何となくその道を通ることが怖かった。

・川で有った青年が「Bendは川の始まりに近い美しい町だ」 と言っていたが、ダウン・タウンの近くは決して美しい感じはしなかった。キット、近くの自然が綺麗なのだろうと思う。日本でも田舎の方には、こんな感じの町が結構あるように思った。

・しばらく行くと、比較的大きな本屋があったので覗いて見ることにした。本屋といっても、アメリカでは初めて入る古本屋であった。旅行ガイドの棚を探していると、何と探していた温泉ガイドの本が有った。この本はアメリカでは温泉好きの間ではチョット有名な本である。中をめくってみると、有るは有るは、日本以上に原始的な露天風呂の場所と地図と詳しい案内が載っている。しかも、殆ど全てに写真が付いている。その中の多くの写真は、老若男女の全身が裸のままの姿で写っている。これは行かなければと思って直ぐに購入した。発行が少し古くて写真が白黒だったが、値段は7.5ドルだった。

・嬉しい買い物をした。何故ならば、インターネットでは幾つかの温泉情報が見つかっても、多くは場所などがはっきりしないブログ記事であり、この様な案内に徹した情報は見つけることが出来なかったからである。しかもカリフォルニアではアテが外れてしまい、行く所がすべてスパや水着着用の温水プールであった。どう考えても日本の山にある温泉の雰囲気とはかけ離れていたからである。

・途中にあったシティ・バンクの支店でATMから金を下ろした。ATMが使えるという事は、多額の現金を持ち歩く必要がないので便利なのだが、20ドル単位でしか下ろすことができない。一日の最大の額は600ドルである。しかも、どんなに少額であっても一回あたり3ドルの手数料が掛かる。


アメリカ西海岸のドライブ旅行日記11/2

112日(火)Dallesとポートランド

Dallesからポートランドまでは、地図で見ると約100km位の距離があったが、コロラると約100km位の距離があったが、コロラド川沿いの景色の良いハイウェイが通っているので、約1時間位で着く筈だった。昼前にポートランドの街に着くと、そこには数日前に見たおなじみの景色があって、何となく落ち着く感じがした。嫌な想い出のある街であったが、よく見ると周囲に山が見えて、大きな公園があって、綺麗に手入れされた公園のような通りがあって、とても良い街だった。川沿いの大きな公園では、遠くに、とても形の良い富士山のような雪山が見えたりした。
・早速、ポーランド警察を探したが、それは直ぐに見つかった。しかし、道路脇に沢山並んでいるパーキングが一杯で車を停めることができない。今までの経験から、アメリカの大きな都市では、駐車禁止の所に車を停めると、かなりの確率で切符を切られる事が分かっていた。また、多くの車は日本と違って、このようなルールをキチンと守っている様だった。グルグルと近くを走っていると、警察からは少し離れている所に数台の空きがある所を見つけた。迷わず車を寄せて、15分当たり25セントだったので、コインを8枚(2時間分)入れた。そして警察に向かった。

・警察に来た理由は、事故証明書(盗難証明書)を発行してもらうためである。盗難が発生した時に申告した被害届は、盗難物すなわち一眼カメラやGPSの型番が正確には分からなかった。そこで、昨日調べた型番を追加で記入することで、何が盗まれたのを正確に証明する事ができるようにしておきたかった。クレジット・カードには盗難保険が付いていることが分かったからである。

・手続きは呆気無いほど短時間で済んでしまった。これでは後から、盗まれていないものまでも、簡単に記入できてしまうと思うが、警察官は全く自分を疑うことなしに、記入し直した書類にハンコを押してくれた。・さて、警察を出てきたものの、駐車時間にはまだ大分余裕があったので、川沿い近くの公園に行ってみた。天気が良かったので、ベンチか芝生で少し昼寝でもしてみたかった。しかし、日当たりの良いベンチでは、先に男が一人座っていた。綺麗な服を着ていたが、少し浮浪者に特有の匂いがしたので、仕方なく芝生の方に行ってそこに寝転がった日差しが暖かくて気持が良かった。

・しばらくして、駐車した場所に戻ってみると、あろうことか駐車違反の切符が貼ってあった。何時間もオーバーする程、寝てしまったのかと自分の記憶にすっかり自信をなくしてしまった。しかしながら、駐車券の時刻を確認すると、明らかに時間内である。そこで、すっかり頭に来てしまい、電話をかけようとして番号を探していると、近くをパトカーが通った。

・そして一生懸命にこの仕打ちについて説明すると、乗っていた警官も直ぐに分かってくれて、これは明らかに間違いだと言ってくれた。しかし、その後で、「ちょっと待て」 と言われてしまい、ここは電気自動車優先のパーキング・エリアだから、ハイブリット・カーは良いが普通の車は止めてはいけないのだと言う。何でもハイブリット・カーを普及させるための、市の処置らしい。「そんな馬鹿な法律があるか?」 と怒鳴ったら、「俺もそう思うよ」 と言って目配せして行ってしまった。

・結局、駐車違反の罰金は60ドルだった。自分は二度とポートランドには来てやらないと強く思った。どうも好きに離れない嫌な街だった。

・その後、メイシーズ(デパート・ストア)で秋冬に着られるジャンパーを購入した。この時期のポートランド周辺は、まだ、真冬のジャケットは必要なかったが、やはりシャツやトレーナーの上に羽織ることができる薄手のものが欲しかったからである。LAはとても暖かい街だったので、なかなか秋用のジャンパーが店に置いてなくて、自分のようにワンサイズ小さなものは探しにくかったからである。この時期のアメリカの西海岸では必需品であった。しかし、60ドルの値札がついていたのに、金を払おうとしたら40ドルだという。だったら、始めから40ドルの正札をつけておけよ。


・次にカフェで昼食を食べて、昼間はライブをやっていないが開いているジャズ・クラブを覗いたりしている内に、帰り道はすっかり暗くなってしまった。


・秋の夜はつるべ落としというが、まだ時計は夕方なのに本当に真っ暗になってしまった。こちらのハイウェイには、郊外では道路に照明がついていないので、全く車のライト以外には明かりがなかった。そして、高速道にあるようなIC等も、なくて、降りるためには斜めにつけられた側道に入っていくシンプルな造りになっている。(高速道同士の交差点が無い所では当たり前か。) 困るのは側道に入るための道路標識が、暗くて全く読めないことであった。

・しかし、自分はカーナビを買っておいて本当に良かったと思った。シアトルで雨の中を走った時も、その有り難さを実感したが、今回もカーナビが無かったらどうすればよかっただろう。自分は行き先の所に、市の名前である「Dalles」と入れておけば、適当な所で降り口を指示してくれる筈だった。

・しかし、指示通りに降りた筈だったが、降りた所は全く見覚えのない街だった。街の中をグルグルと廻ってみたが、メイン商店街は古ぼけて暗かった。かなり歴史のある西部劇に出てくるような街だった。少なくとも自分が宿泊している所だと云う記憶は全くない。

・慌てて、ハイウェイに戻って隣の降り口に行ってみたが、ここも全く記憶になかった。再びハイウェイに戻って、しばらく走っていたら、昨日、シアトルからコロラド川に来た時に、ガソリンを入れた記憶のある街まで来てしまった。辺りは真っ暗だったが、ここで気を取り直して何を何処で間違えたのか検討した。恐らくカーナビが誤動作したに違いないと思ったが、頼りはこれだけなので、もう一度、地図とカーナビをしっかり確認して、再びDallesに向かった。

Dallesに着くと、しかし、そこはさっき通過した記憶のある街だった。気が狂ってしまったのかと思いながら、そのまま街中の旧道らしき所を走っていると、しばらくして町の郊外らしき所に出た。そしてそこには、明るい大型ショッピング・センターが立ち並ぶ、見覚えのある我が街が急に出現したのである。考えてみたら、カーナビのDallesと云うディストネーション・ポイントは、どうやら市庁舎のある場所らしく、自分が宿を取った所はそこから随分外れた郊外にできた新しい街だった様である。予めカーナビにインプットしておくべき、住所や通の名前をメモしておかなかったいい加減さに自分で自分をすっかり振り回してしまった。

・モーテルに戻る前に、安い量販店で松下の安いデジカメを買った。155ドルだった。それから、いつもの通りガソリンを20ドル分入れてからご帰還。夕飯の前に、インターネットで罰金を振り込んだ。何時までもゴネテいると悪質な罪人と見なされて、学生ビザも取り消されてしまうという。何でも金で解決できる、シンプルな社会であると思った。


アメリカ西海岸のドライブ旅行日記11/1


111日(月)Seattleを抜け出してコロラド・リバーに向かう


・今日は朝から土砂降りだった。気分が憂鬱で、何処に行く気も起きない。そうかと言って暗くて小汚いモーテルにずっとじっとしているのも心地良くはなかった。ここへ来る前は、あんなに来たいと思っていたシアトルであるが、思いがけなく良いことが起こる気配は全くなかった。また自らそれを探しに出かける気力も湧いて来なかった。この時期には、アメリカの各地で大雪が降っているようだったので、北西海岸一体が雪ではなく雨であるだけ運が良かったと考えることにした。確かに冬でもそれ程寒くはなさそうだったことは、素晴らしいことだと思った。


・しかし、大雨のために何処にも行くことができないので、昨夜、一晩、迷いながらも考えて買うことを決めたカーナビを、ステープルに行って買うことにした。カーナビは今まで使っていたものと全く同じ型番のTomTomXL430Lを買った。税金が込みで180ドルだった。


・このカーナビは思い切って買って良かったと思う。日本ではカーナビが180ドルで買えるとは思えないが、旅行者にとってアメリカの道路では必要な存在である。今日のような大雨の日には、これがないと複雑に入り組んだ都市内の高速道を昼間でも走ることは難しい。何せ道路標識が、霧で全く見えないのであるから。夜は自分が何処にいるのかさえ分からないだろう。車がチャント流れているこの現実自体が、自分には信じられないことである。


・そうしているうちにも雨が一段と激しくなってきた。天気予報では二三日降り続くらしかったので、自分の心は既にシアトルにはなかった。以前本で読んだ、コロラド渓谷に行ってみたかった。コロラド川に沿った有名なオレゴン・トレイルは、秋がとても素晴らしいらしい。そこで、高速道で来た道をそのまま南下してしまうのではなく、R90を一度、東に向かって走って見ることにした。R90は高速道と言っても、途中からは何の変哲もない普通の山岳道路になってしまった。しかし、周囲が山ばかりだし、標高が比較的高い所を走っているという実感がある。気温はそれ程低くはないのだが、何時、雨が雪に変わるかも知れないという不安があった。特にEastonからRoslyn辺りは山が道路に迫っている。


Ellensburg当たりの村にまで辿り着いた時に、急にトイレに行きたくなったことと、同時に空腹を覚えたこともあるので、直ぐ道路脇にあった大きなスーパー・マーケットに入った。中のイート・イン・コーナーで、スープとサンドイッチを買って食べる。それに例によってリンゴやバナナ等の果物等を約10ドルで買った。


・この田舎のスーパー・マーケットで売っている商品は、他の地域のものと比べて特別大きな違いは感じられなかった。こんなに遠くに来たのに、そして幾つかの州を南から北へと移動してきたのに、更に都会や田舎のスーパー・マーケットを幾つも見てきたというのに、店の商品からはアメリカ人の生活習慣に大きな違いを見つけ出すことができなかった何処でも同じような商品を同じような売り方で売っている。多分、アメリカの中部や東部地方、及び南部の方へ行くと異なるのかも知れないが。


・店の中の食品売場で買うものを物色していると、近くにいた店員が話しかけて来たのでしばらく話をする。もしもこのようなことがなかったら、買い物や交渉以外のどうでも良い日常会話をすることもなく、一日中誰とも話さない事になってしまう。店員の親切な行為がとても嬉しかった。最も、相手にとっては、このように知らない人に話しかけることは、どうやら普通の行為のようだった。


・誰とでも声を掛け合うという習慣は、日本とは大きく異なっている。これは自分の予測に過ぎないが、多分、アメリカでは自分の知らない人と声を掛け合うということは、自分の身を守るという意味があるのではないだろうか? そのような事が習慣として、小さな時から意識することなしに身についてしまったのだろうと思う。最近の日本では、小さな子供達は恐らく、知らない人とは話してはいけないと教えられて育つのだろうと思う。


・車を使ってアメリカを一人で旅をしていると、一人だけの時間がどうしても長くなる。その時に一番辛いことは、話し相手がいないことなのだ。車の中でずっとやっていることは、英語のヒアリングの練習とスピーキングの練習である。大きな声を出すということは、気分を紛らわすには格好の方法だった。外へ出ると、雨は大分小降りにはなっていたが、相変わらずの天気だったので早々とシアトルを出てきてしまったことに後悔はなかった。


R90R82の分岐点でR82に向かい、そのままずっと走り続けているとやがて眼下に大きな川が見えてきた。川には大きな橋が掛かっているのを見下ろすことが出来る。道が急な下り坂になって大きくカーブしながら橋に向かって進んでいる。川の向こう岸は、切り立った断崖が続いている。断崖と言っても岩ではなく土のようにも見える。綺麗な地層が重なって見える。これがコロラド渓谷だと思った。


・川を渡った所にあるガス・ステーションで一休みすることにした。マクドナルド・ショップの横には、比較的大きな雑貨やスナックを売る店がドアを通してつながっていた。コーヒーを飲んで用を足した後、店の中を少しぶらつく。その後、車の中で少し仮眠した。


・ここからは川に添った道を海の方に向かって下っていく。地図で見るとどうやらR84らしい。この川はポートランドを経て、太平洋に河口を持つ大きな川である。ガイド・ブックによると、オレゴン・トレイルと呼ぶらしい。途中、Dallesという街を通過する時に、比較的大きくて綺麗な街並みが見えたので、今夜はその街に泊まることにした。ガイド・ブックによると街は比較的古い歴史を持った市街地があるようだった。しかし、実際に走ると今まで見てきた海沿いの街並みとは明らかに違う、古ぼけた中世の趣があるところだった。


・ゆっくりと市街地を走っている内に、ドンドン街はずれの方に出てしまった。そしてそこには、今まで見てきたのと同じような、大きな共通の駐車場を持つショッピング・センターが出現したのだった。大きなスーパー・マーケット、ホームセンターやステープルの大きな店もある。中には食事のできる店もあるようだった。その他、道の両側にはマックやタコベル等の何処に行っても必ず見掛けるドライブ・インが幾つか点在している。


・カーナビとガイド・ブックで調べると、近くにスーパー6がある筈だった。実際に行ってみると、豪華とは言えないが、適当なスペースと清潔さ、そしていろいろ便利な設備が揃っていた。スーパー6は何処へ行っても、自分が最低限必要とするものは、冷蔵庫以外は大体揃っていた。宿泊登録を済ませた所、金額は一泊あたりで49ドルだった。


・明日は再びポートランドにある警察に行って調書を書き換えてもらうことを考えていたので、その意味でもポートランドに近いこのDallesが気に入ってしまった。また、この風情は全くないが新しくできた便利な街とこのモーテル、及び近くの大型のショッピング・センターも気に入ったので、今回はここに2泊することにした。


・ただし、夕食はデニーズの様な何処に行っても同じものがあるような俗なレストランではなく、街の由緒あるアメリカン・レストランか、案内書に乗っていた日本食レストランで久しぶりに本格的な日本料理を食べようと思った。しかし、街中をさ迷いながら探した所、辿り着いた日本食レストランはとうの昔にクローズされ、寂れた様に取り残されたまま建っていた。実はこれと同じ経験は、今までに何回かしていた。


・何処に行っても韓国人や中国人はそれ程珍しくはないし、韓国や中国のレストランは直ぐに見つけることができる。韓国人は人口が日本の約半分位だったはずであるが、アメリカの西海岸では何処に行ってもとても目立つ。彼らは何時も集団でいて、そして大きな声を出して我が物顔で喋っている。しかしながら、日本人が何処にもいない。ポートランドやシアトルでは、ビジネスマンにも観光客にも会わなかった。


・そして、あちこちにあった筈の日本食レストランは、その多くがクローズになっている。ということは、かつては流行っていたこともあるのだろう。しかし、現在のアメリカ西海岸の各地方に於いては、日本の影は確実に薄いものになっている。街で見ることが出来る日本独特のものと言えば、それは車ばかりである。日本人の影も見つけることができない。


・ついでに言えば、新しいモーテルでは部屋に置いてあるテレビの多くが、LGとかサムソン等の韓国製である。ウラビレタ安モーテルでは、テレビにソニーの文字を見つける事ができるが、それは画面が小さくて図体が大きなブラウン管テレビである。


・日本にいる時は、アメリカの経済に対する日本の影響の衰退を、肌で感じる機会は少なかった。しかし、今回の旅行でハッキリと感じることは、日本の影響の明らかな衰退であった。


・夕食はアメリカン・レストランに行った。しかし、メニューを見ても、デニーズと大差なかった。量が少なくてそれほどしつこくなく、安心して食べることの出来る料理は、ステーキかハンバーグだけだった。そこでハンバーグを頼んだ。ドミグラス・ソースはOKかと聞くのでOKだと言ったら、巨大なハンバーグが見え無いくらい山になってかかっていた。そして、そのソースが結構、しつこいものだった。ただし、値段は安く、チップ込みで14ドルだった。しかも、広い店内には客は自分が一人だけだった。帰りにデニーズを外から覗くと、10カップル以上は客が入っていたようだった。


アメリカ西海岸のドライブ旅行日記10/31

1031日(日)PortlandからSeattle

・翌朝、壊された車を別の物と替えて貰う為に、昨日、PCで調べておいた街中にあるダラーのオフィスへ行った。保険がきく筈なので、その場で直ぐに替えてくれるものと思っていたら、自分が借りた車は、ダラーとダイレクトに契約したものではなく、ダラーを通した別の小さなフランチャイズ業者なので、その業者のオフィスに行かなければダメだと言われてしまった。そこで色調べて貰ったら、幸か不幸かその業者のオフィスがこの地区にもあるという事だった。ただし、一番近くにあるオフィスは、エアポートの事務所だと云って、そこまでの地図を書いてくれた。


・高速道をエアポートに向けて走った。しかし、窓が開いているので冷たい風が入ってきて寒くてしょうがない。外は零度C位の気温だった。高速では走る事が出来ないので、ゆっくり走っていると後続の車がイライラしているのが分かる。やっとエアポートについて着いて、近くのカープールにあるオフィスで聞くと、ここでもその業者の車は扱っていないという。近くにあるその業者のオフィスに行かなくてはいけないと言われた。地図を書いて場所の説明をして貰ったのだが、しかし、カーナビもないし、しばらく走っている内に方向感覚がなくなってしまい、すっかり道に迷ってしまった。全く自分がどこにいるのかも分からない状態になってしまった。


・そして、気落ちした気分である角を曲がった処で、いきなりサイレンを鳴らされた。見るとパトロールカーがスピーカーで、どうやら止まれと言っているようだった。うーん、またやってしまった。パトロールカーに止められたのは二回目である。日本では5年間に一度くらいの割合なのに、こちらでは一ヶ月に一回の頻度であった。警官に聞かれることは、日本と同じであるが、いろいろと云い訳をしていたら、どうやら許してくれる事になった。ことについでにレンタカーのオフィスを聞くと、ついてこい云われパトロールカーで先導してくれた。この経験も二度目である。つまり、焦っている時は何らかの違反をしており、捕まる可能性が高くなるのである。


・代車の手続きは直ぐに終了した。結構新しい年式(二年目)で程度の良いフォード車だった。年式は新しいが、距離計は随分進んでいた。(値は忘れてしまったが) 韓国車の様にキビキビと走る軽さはなかったが、どっしりと戦車のような重量感があった。そして、高速道を走り続けるには、この車のほうが安定感がり運転しやすいと思った。アクセルペダルが重くて、しかもエンジンの回転がペダルに直ぐには追従しないようにわざと作られている様な気がした。


・こうなったら、一刻も早くポートランドを離れて、シアトルに行ってみたかった。事前に調べた所では、シアトルは大変美しい街のようだった。ガイド・ブックだけではなく、そこに住んでいる日本人の書いた本や、シアトルでロングステイの案内をしている日本人が書いた本を何冊か読んでいた。それを読んでいたこともあり、今回のアメリカ旅行では、シアトルを訪れる事が目的の一つと考えていた。出来ればシアトルに5日間位滞在したいと考えていた。


・自分が持っているアメリカ西海岸をカバーしている地図では、ポートランドからシアトルまでは大した距離ではなかったのに、実際に高速道R5を飛ばしていると、とても長い距離であることが実感できる。しかも、始めてカリフォルニアの大地をドライブした時の感激は、今はあまり無く代わり映えのしない風景が続く。しかし、右前方の遠くの方に富士山よりも高そう雪を頂いた山がそびえているのを見た時は、率直に美しいと思った。後で地図を調べたら、Mt.Rainier 4392mと出ていた。


・その内に雨がふりだしてきたのだが、見る間に激しい雨になってしまい、高速道の標識が何も見えなくなってしまった。標識だけではなく、自分が走っている車線まで見えなくなってしまった。怖いので、自分は速度を落として走っているのだが、回りの車がドンドン追い抜いていくのがとても不思議だった。何故、前がよく見えない所でスピードを出して走ることが出来るのだろうか? しかも、一台や二台の車がそうしているのではないのだ。


・夕方になって、シアトルについた。例によって、市の中心地区を車で走ってみた。ついでにガス・ステーションで給油したのだが、ここでノズルの使い方が分からずに困ってしまった。近くにいた若い女性に聞いてやっと分かったことは、シアトルの給油装置は旧式な機械式のノズルで、ハンドルの切り替えを手動でやる必要があることだった。遅れているというか、最新式であることに顧客があまり拘らないのだろう。旧式なものが結構目に付く。


・早めに今夜の宿を決めておこうと思って、探し始めてまた困ってしまった。持っていたガイド・ブックには、ワシントン州が載っていなかったし、カーナビも既になかったカラである。街中を走りまわっても、大きなホテルがあるばかりで、モーテル等どこにも見当たらない。あちこちのガス・ステーションやコンビニ店の店員に聞いてみたが、良い返事が得られない。コンビニにいた客の一人が、それなら俺が良い処を知っていると言って、自分の車で先導して連れていってくれた。しかし、行った所は確かにモーテルだったが、崩れかかった古い幽霊屋敷のようなところだった。


・徒歩にくれてしばらく雨の中を走っていると、全く突然に道の両側にモーテルが連なっている所に出た。しかも、この通りには大きなスーパー・マーケットやファーマシーやステープル等の大型店舗、レストランなどが沢山あって、品が良くはなかったがとても便利そうなところだった。自分はSeals Motelと云う所に泊まることにした。一泊55ドルだった。夕食は近くの韓国レストランで、石焼カルビを食べた。チップを含めて10ドルだった。


アメリカ西海岸のドライブ旅行日記10/30

1030日(土)Florenceの町からEugene、そしてPortland

いつもの様に朝の10時頃になってから、フローレンスで宿泊したモーテルを出発した。フローレンスと云う街は地図で見ると、西側は太平洋に面しており、そして東側は背の高い気に覆われた小高い丘が続く狭い処にある。今日はそこからほぼ直角に東に向かって、大きな川に沿って進んだ。途中から登りが急になり、カーブが続く山道となるが、そこをどんどん登っていく。しかし、山の中を走るのは数時間だけで、しばらく走ると峠を越して、平らな平原に出る。木や草原等の広大な自然が続く所は、南カリフォルニアとは大違いである。紅葉している木々もかなり見る事が出来る。しかも、赤一色か黄色一色と云うのではなく、色々な色が混じり合っている処は、何処か日本の風情に似ている。


1時間ほど走り続けると、大きな町の郊外にあるショッピング・センターと云った感じの処に出た。思いだせばまだ朝飯前だったので、トイレ休憩も兼ねて、ドでかい駐車場に車を止めた。


・マーケットの中はとても広い食品売り場有って、しかもいろいろな種類の出来上がった惣菜(デリ)を売っていた。とても陽気で元気な店員の叔母さんが話しかけて来たので、色々と話をしながら少しずつ何種類かの料理をパックして貰った。ラーメンとスパゲッティ・マカロニ・サラダ、スープ等である。それを車の中で食べながら、分厚いガイド・ブックを見ながら今日、行くべきところを探した。


・それからユージーンの中心街の方に車を進め、まずは土地勘をみにつける為に、街の中心市街を、あちこちを走った。この街はとても美しい街だった。広い通りには必ず大きな古い木が立ち並んでいて、そして大きな公園があちこちにある。街全体が公園の中にある様な感じがした。中心街から少し離れると、こじんまりしているが、やはり美しい住宅地が続いている。中心街には、幾つかのモーテルが有ったので、降りて値段を調べたり、銀行で預金を下ろしたりした。何と銀行では一度に40ドルしか下ろす事が出来なかった。しかも、一回につき手数料が3ドル掛ると云う。200ドル下ろしたら、手数料が15ドルと思うとバカバカしくなり、40ドルでやめてしまった。


・大きな図書館が有ったので、ユージーンやシアトルの見所を調べて見ようと思い中に入る。とても大きな図書館で、設備も近代的だった。沢山のPCがズラッと並んでいる処が有ったので、自分のGメールが読めるかと思っていじって見たが、よそ者がこれを使うには特別の許可がいるらしかった。


・若いカッコいい男性が座っていたインフォメーション・テーブルの処に行って聞いてみると、何故か彼氏の奥さんは日本人だと云う事で、普通の世間話になってしまった。今日はマーケットで叔母さんと少し話をしただけだったので、自分はやはり話し相手が欲しかった。買い物などの会話を別にして、一日に5人位の人と話すようにしないととても寂しいのだ。図書館のお兄さんはよそ者に対してとっても気を使って、色々話してくれたのでその優しさが本当に身にしみて嬉しかった。


・この街に暮らす日本人の女性が書いた本を、以前、読んだことが有り、ユージーンに対してとても素晴らしいイメージを持っていたので、この街に泊ってもう少し観察をしてみたい気がした。しかし、別の本で読んだポートランド、そしてシアトルの街のイメージがより強かった事もあり、取りあえず明るい内にポートランドに行ってみようと決めた。そして、早々に車に戻って出発する。


・ユージーンからは高速道路を使ったので、特に強い印象もないままポートランドに着いてしまった。そして、ここでもユージーンでやったように、街中をぐるぐる来るまで回って見た。ポートランドはとても大きな都会であった。都会の騒々しさと、所所はユージーンで見たような美しさを保っている処が入り交ざったような大きな町である。幾つもの高速道路が入り組んでいるので、地図を頭の中に入れることはできなかったし、第一、移動に思ったより期間が掛るので、途中でやめて今夜の宿泊場所を当たる事にした。今回は4件を覗いて話を聞いてみた。中程度のモーテルは7090ドル位の範囲であったので、その中から市の中心に近く中心地を往復しているトロリー電車の駅の前にある70ドルと云われたモーテルに決めた。そして駐車場に車を止めた。


・宿泊の手続きをしてから、夕食に久しぶりに寿司でも食べようと思った。既に夜の7時を過ぎており、辺りは真っ暗だったので、部屋に入る前に出かけることにした。まずは車の中を外から覗かれても、何も見えない様に荷物やカメラをトランクにしまって出かけた。


・街の中心部は綺麗な店や、マーシー等のデパートが立ち並ぶ通りが有り、人は少ないが東京の銀座通りの様なイメージだった。とても寒いせいか、ロスで良く見かけるような、ホームレスや物乞いをする人達は殆どいなかった。少し行くときれいな「さくら」と書かれた寿司屋が有ったので、中に入ると回転寿司で有った。しかし、今までに良く見かけた、カリフォルニア寿司ではなく、日本と全く同じ感じの本格的な握り寿司が廻っている。客に日本人は全くいなかったし、店員や板さんも日本人では無く、どうやら韓国人の様だった。ここで、寿司とビールを飲んで、支払いは14ドルでした。


・さて、モーテルに戻って、荷物を部屋に入れようと車の処に行った時に、自分にとって今まで全く経験した事のない大事件が起こった。


・運転席の窓が壊されていたのである。調べて見ると、大きな旅行バッグやその他の荷物はそのままだったが、カーナビと一眼レフのカメラが無くなっていた。運転席につみあがったガラスの大きな破片を取り除いていると、一組の若いカップルが近付いてきてそれを手伝ってくれたが、自分には彼らの仕業の様な気がした。しかし、何も証拠が無いので自分で荷物を取り返す事は、早々と諦めて、警察に電話をした。モーテルの掛りの男性がいろいろ相談に乗ってくれたが、パトロールカーは直ぐにやってきた。警官は恐ろしく形式的に調べただけで、盗難届用紙と登録NO.を記入して自分の名刺を渡すと、詳細は後で警察に来るか郵送でやってくれと云って直ぐに帰ってしまった。盗まれたものを後で書きかえることもできるではないか? 実際に自分は盗まれたカメラの型番が分からなかったので、その場ではおおよその買値を記入しただけだった。


・兎に角、運転席から大きなガラスを取り除いて、床のコンクリートの上に落とした。ガラスの始末はモーテルのオッサンガやってくれた。今日はもう遅いので、明日何をするべきかを書きだしてから、酒でも飲んで寝ることに事にした。


アメリカ西海岸のドライブ旅行日記10/29

1029日(金)EurekaからFlorenceの町へオレゴン州を走る

Eurekaで宿泊したモーテルを早々と朝の9時頃出発する。Eurekaはカリフォルニア州の北端にある海沿いの町であるが、いよいよ北カリフォルニアと別れて北上し、これからオレゴン州に行くことになる。しばらくは昨日に引き続いて、景色の良い海沿いの道を北に向かって走り続ける。そして左に広大な太平洋を、右にはフレッシュ・ウォーター・ラグーンという名前の潟に挟まれた、細長い土手の上をR101が走っている。この辺りではレッド・ウッド・ハイウェイという名前が付いている。潟を離れる所から急に山道に入っていく。直ぐに海が見えなくなってしまい、その代わりに鬱蒼としたとてつもなく高くそびえ立つレッドシダーの森に入っていく。本当に壮観な眺めであった。


・地図で確認すると、このあたりは「レッドウッド国立公園」と「プレーリー・グリーク・レッドウッド州立公園」が繋がっている大きな公園で、ハイキングコースが幾つかあるようだった。車から降りて少しでも歩いてみたかったが、チャンとした駐車場を備えた本格的なコースしか無い様で、気軽に道路脇に車を止めて入っていけるような雰囲気の所はなかった。なので、止める場所を探しながら、走っている内に公園を通り過ぎてしまった。


・しかし、しばらく突っ走っていると再び、海の見える所に出てきた。そしてやがて大きな町に出たのだが、そこはクレッセント・シティという。ここを過ぎる直ぐにカリフォルニアとオレゴンの州境になる。しかし、地形的にはただ道路を走っている内に、いきなりオレゴン州ということになる。国境ではないのだから、当然かも知れないが、あっけない。


・しかしながら、オレゴン州に入った途端に大きな違いに気がつく。オレゴンはカリフォルニアと比べると雰囲気が一変するのである。幾つかの小さな街を通り過ぎたのだが、家の建て方が北カリフォルニアによく見られる風情のある木造建築の代わりに、ただの箱のような家が目立つのである。全体のイメージでは、昔の西部劇に出てくるテキサスの街並みの様な雰囲気である。今までは見られなかった、色とりどりの看板が目立つ。全体としては少し貧しくなった感じがする。


・もう一つ大きな変化は、街中を走る車の速度である。今までは広い道を街中といえども時速50-60マイルでは知っていたが、ここではどの車も時速30マイルを守っている。町の中を農業用のトラクターが走っているようなイメージで、皆、ノロノロと走っているのである。どうしても自分だけ群れから独走する体制になってしまい、慌ててブレーキを踏むことの繰り返しであった。


・フローレンスの近くで昼食を食べようとして、サブウェイに入る。しかし注文を使用としたのだが、どうしても相手の言葉聞き取れなかった。その上、相手もまた自分の英語が分からない様だったので、とても苦労すると共に自信が崩れていく。更にガソリン・スタンドでは、$25と頼んだのに$55ドルのクレジット請求が来た。


・今日は久しぶりに午後の早い時間であったが、フローレンスの町で泊まることにした。シルバー・サンド・モーテルという地元のモーテルで、価格は42.9ドルだった。今日は一週間分の溜まった洗濯物を持って、コインランドリーに行った。そして洗濯をしながら、スーパー・マーケットでかいものをする。と言っても、殆んど食料品とビール等であるが。


・フローレンスの街は、西に太平洋と、東は日本でもよく見かけるような低い山に囲まれた、静かなのんびりとした雰囲気の所である。ガイド・ブックを探しても、これといって有名な見所は見つからないが、自分は何となく落ち着いた気分になれる。


・宿に戻って、ビールを飲みながら写真の整理や文章を少し書いた。後は知り得る限りの友人にメールを書くことや、フェースブックで応答をしている内に時間がドンドン過ぎていく。夜は近くの中華料理屋(チャイナ・ベイ・レストランと言う名前の大きなドライブ・イン)でディナーを食べる。玉子ときくらげと幾つかの野菜が入った炒め物の一皿の料理と、後はスープとご飯だけで、払ったのは、チップを入れて$12だった。しかし、兎に角、量が多い。運んでくる娘さんもお母さんも中国人だったが、味はこんなもんかな。


アメリカ西海岸のドライブ旅行日記10/28


1028日(木)Gualala、及びEurekaの町で見て考えたことなど

・何時もスーパーを覗いた時に思うことは、カリフォルニアの西海岸では何処へ行っても不思議なくらい同じようなものばかりを売っていることである。ここのスーパーもご多分にもれず、この地方に特有なものは少なくとも食品に関しては見つけることが出来なかった。逆に言うと、ここで売っているようなものは、何処に行っても手に入れることができる。


・これらの料理はレストランで食べる料理よりも、一般的に味がさっぱりしていて自分の口にあっており、とても食べやすい。少なくとも、シツコすぎて食べられないという味付けのものは見当たらない。ただし、カリフォルニアだからかも知れないが、一般的に少しスパイスが効き過ぎている用な感じがあるようである。


・場所によって、メキシコ系の人たちや黒人が多く住んでいる所や、白人系の裕福な階層が多い所では、品質や値段が若干違う気もするが、扱っている料理が全く異なっているということはないようだ。その昔は独特のものを食べていたに違いない、インディアン系の人が数多く住んでいる村を通過した時でも、そこの土地の個人経営の様なマーケットの中で見掛けたものに、特別なものは見当たらず、彼らが特別なものを食べている様子はなかった。ただし、今まで通り過ぎてきた町は、すべてカリフォルニアだけなので、まだ、このように言い切るには早過ぎるという気もする。


・更に、「何故カリフォルニアでは、種類が同じようなものばかりで、また味付けも似ているものばかりを売っているのだろうか」、ということについて考えてみた。恐らくどの品物も、最初に売りだされてから それなりに時間を経ているものと仮定できる。多くの人達にとって、これがベストであると感じるものに仕上がっているのだろうと思う。問題は、アメリカにはいろいろな人種の人間が住んでいるにも関わらず、種類や味付けの尺度が似ているのかという事である。


・恐らくその理由は、彼らが物事を判断する際に、最初に最も重要視することが、その感覚や印象などではなくて論理であるからではないか。例えば「美味いハンバーグ」ときたら、「こんなスパイスの効き具合」で、「この程度のシツコさ」が必要でというように、その要因系を一つ一つ最適化していった結果が、今どこでも売られている商品担ったのではないか。そして、それを少しでもはみ出したような商品は、多分、価格が高くなってしまい結局誰も買わなくなってしまうという事ではないだろうか。


・そうだとすると、特別な味付けのものは、個人の家庭に行かなければ御目にかかれないということになりそうだ。そして、この考え方にあまり当てはまらないような、新しい食品の一つが日本食なのではないか。ただし、日本食はそれ程買い手が多くないこともあり、現時点ではローカルである。(日本食は、日本で考えられている程、広くアメリカ(カリフォルニア)で、強い人気と地位を勝ち取っているようには見えない。日本食のレストランは多くは韓国人オーナーの経営であるし、客の入りもそれほど多くはない。また、客も料理を食べ残したまま出て行ってしまう姿も多く見受けられた。)


・そうそう、実は今までの話に当てはまらない経験をしていたことを思い出した。それはLAのモンタレーという町にある、中国人街のマーケットに行った時のことであった。そこには、恐らく日本のマーケットよりも多種・多彩の見たこともないような食材が多数売られていた。だから、中国人だけはアメリカでは特別な存在だろうと思う。彼らがアメリカに来た時から今までずっと、彼らは自分達だけで集まって暮らしていることに原因があるのだろうと思う。だから自分達の考え方や習慣をあまり変えることなく、独自のものをいまだに保ち続けているのだろうと思う。


・中国人マーケットは、恐ろしく活気にあふれていたし、また特徴としては「生の素材の量り売り」が多い。魚や肉などが日本のようにパックされていないのである。アメリカの他のマーケットでは、逆に多くのものがパックされて安く得られているのだが、特徴は一つ一つが兎に角 巨大であることである。


・さて、今朝は9:50にGualalaの宿を発って1時間半ばかり走り、11:20にFort Braggという村についた。どちらも地図で見ると、北カリフォルニア州にあって太平洋に面したR1に沿った所にある村である。従って、この辺りのメイン・ルートであるR101からは遠く離れた所にあり、普通の環境客が多数訪れるというような所ではない。北カリフォルニアは砂漠を思わせる南カリフォルニアと大きく異なり、とてつもなく大きな森に覆われた所である。太平洋に面していることから、冬でも比較的暖かくて、雪もあまり積もらないようだ。


・この太平洋を直ぐ左側に見ながら、海に面した道であるルート1を北上していると、まず感じることは信じられない程の美しさである。広大に何処までも続く海岸線は切り立った土の絶壁になっていて、回りには人家も少なく荒涼としている。もちろん、行き交う車も少ないというよりも殆ど無い位である。道の両側に所々で見られる家は、LAやサンフランシスコの住宅街でよく見掛けるものとは大分異なっており、アーリー・アメリカかまたはイギリス調である。家とその周りを取り巻く丘や森が良く調和している。殆どが木造であるが、日本で見かけるアメリカン・ハウスよりもかなりサイズが大きい。



・何故、家の建て方がこうも違うのか? 普通の車で一日も走れば来ることが出来る距離であるし、住んでいる人種が全く異なるとは考えにくい。走りながら少し考えた結果、それはコストから来るものと思われた。LAで良く見かける何の変哲もないフラットな建物は、とても合理的な設計になっていてコストが安いものであると考えられる。しかしながら、ここで見掛ける多くの家は、豊かな緑に囲まれていることもあり、人々が美しさを気にしながら建てたものではないか。どの家もその周囲は、綺麗な庭が付いている。LAでは手入れの行き届いた庭のある家は、高級住宅地だけであり、しかもそれは住人が自ら手入れしたものではない。(メキシコ系の黒人があちこちの家で作業をしていた。) ここでは住人が自分達で作業をしているのだろうと思う。


・そんなことを考えながら走っていると、道は海からだんだん遠ざかっていき、両側を馬鹿でかい木々が取り囲むように生い茂っている山道に入った。そして、急に大雨になったのだが、この辺りはずっと前から雨が降っていたらしい。この周辺は背の高いRED WOODが生い茂っていることで有名である。周囲の風景を見ながらゆっくりと走りたい気分だったが、実際は全く逆の結果になってしまった。と言うのは、後ろから追いかけてきたピックアップが自分の後ろにぴったりとついてくるので、引き離してやろうと思いスピードを上げたからである。しばらく、二台の車でカー・チェイスのような事を続けている内に、あっという間に何車線かあるR101に出てしまった。


・それにしても、日本ではおとなしく運転していることが多いのに、何故こんなスピード競争をする様な気分になってしまうのか。自分でも嫌になってしまう。山道はアップダウンがはげしいし、きついカーブも多いので、何回もフロントのバンパーを道路にこすりつける音がした。こちらの道路は、日本と違ってカーブの所がかなりのバンクになっているので、高速で走り抜けることが出来るのだが、カーブの出口の所で前のバンパーが路面にこするのだ。それにしても、今乗っているのは韓国製のKIAという普通のオートマ車であるが、レバーを二速にシフトダウンした時のエンジン・ブレーキの効きが良い。つまり、何もしなくてもヒール・アンド・トウができるので、OUT to INと組み合わせると、その後で加速しながらで高速で走り抜けることが出来る。欠点は、タイヤとサスペンションがプアーなことで、ブレーキを強く踏んだ時に車がふらつくことである。


・山の中を走っているR101Free Wayと言いながら、道幅が狭くカーブでの速度のリミットが35mil/hになっている所もある。アメリカのFree Wayでは珍しい道路である。そんな山の中でぽつんとカフェ兼お土産屋が現れた。トイレ休憩にコーヒーとドーナッツでもあるかなと思い中を伺っていると、入り口のテラスの所で70歳位の男性に声を掛けられた。


・ハッキリと聞き取れる美しい英語を話す人だったので、教養のある人に思えた。そして、とても暖かみのある穏やかな人だったので、話が弾んだ。男性の出身はサンタ・クルズだが、今はLAのパサディナに住んでいると言っていた。長期の予定でここに滞在していると言う。しばらく二人で話をしていたら、彼の友人という男性と、更にしばらくして彼らの奥さん達が話しに加わった。そして、しばらくすると、その店の女主人が出てきて、やはり話しの輪に加わった。


・色々な話ができてとても嬉しい気分だった。そして、その時になっていきなり何かが分かった気がした。つまり、結局の所、人生の楽しみの目的の一つは、人との交わりや繋がりだったのだ。こちらに来て、一人で旅行していることもあり、何時間も誰とも話さないことも多い。そんな孤独の時間を沢山経験していると、それがよく分かるのだ。自分は今まで、二十代の若者と友人と言える様な付き合いをする機会がなかった。しかし、こちらに来て何人もの若い友人と呼べるような人と知り合うことができたのも、そんな経験をしているからだったのだということに、今になって気がついた。もちろん、彼らを上から目線ではなく、学生同士と言う同じレベルの目線で付き合えるという環境に飛び込んだと言うこともあるだろうと思う。そして、自ら経験した結果、やっと分かったのだった。そのことを、身をもって分かったことが、今回の旅行の収穫であるといって良いのではないか。


・このカフェを出てから、またしばらく走った後で急に空腹を覚えたので直ぐ次のICで降りた。時計を見たら、既に午後3時だったが、気が付いてみると、まだちゃんとした昼食を食べていなかった。ICの横の森の中に小さなうらぶれたカフェがあった。そこへ入ると、二人の若者が話をしていたのだが、全く自分に関心を示さない。コーヒーとアップルパイを注文して外に出て、車の中で昼食を取った。外は雨が降っているのに、何故だろう傘もささずに大きなリュックサックを担いで、一人で歩いている若者を見た。一体何なのだろう、何故、そして何処へ行くのだろう?既に体中が濡れているように見えた。


・再び高速道に戻って暫く行くと、何と渋滞にぶつかった。何事かと思いながらのろのろと走っていると、車がひっくり返って降り既に警官が事故現場の検証中だった。珍しいこともあるとおもったが、考えてみれば事故は何処でも起こりえることだし、まして今は雨なので下手にスピードを出して言うとカーブを曲がり切れないこともありうると感じた。そこを通り過ぎリト呆気無くまた、一人だけのドライブになった。


・夕方近くになって、Eurekaの街についた。地図を見ると、太平洋に面した外れの方にあるので、勝手に寂れたそして懐かしくも美しい光景を予想していた。所が町の中に入ってみると、ここはとても大きな街(といよりは大きく広がった街)だということが分かった。メイン通りはとても広い道幅があるのに、途中から二つに分かれて街の中はそれぞれが一方通行になっている。


・ここでいつもの通り、ガイド・ブックと電話とカーナビを使って幾つかのモーテルに当たりをつけてから、実際に行ってみて眺め、そして話を聞いて確認するという方法でモーテルを探した。そして結局、中クラスのフランチャイズ・チェーンのモーテルであるアメリカン・ベスト・バリュー・インに決めた。一泊が税込で$62.15であった。部屋は二階にあり中は、可もなく不可もなく一人旅にはまあまあの感じであった。


・早速、近くのスーパーに散歩を兼ねて買物に出かけた。町は確かに大きくて、レストランや商店もそれなりにあったが、やはり田舎の町という感じだった。と言うのは、メイン・ストリートの数百メートル以外は、殆どすべての建物が木造の二階建てで、家と家の間も十分な空間があり、住宅地の中にポツンポツンと商店やレストランが有るような感じであった。しかし、一軒一軒のレストランは決してみすぼらしい感じではなく、とても粋なアーリー・アメリカン調の建物であり、綺麗な飾り付けなどがあったりして感じが良かった。


・ただし、町全体の雰囲気は、郊外の綺麗に手入れされた住宅街とは違って、チョットうらぶれた感じの家もあったりする。そして、これがアメリカの平均的な田舎町なのだろうと一人で勝手に納得した。通りには歩く人の数もあまりなく、平坦にだだっ広く広がった、とても静かな町だった。


・モーテルに帰ってから、久しぶりに町で一番のイタリア料理店で、美味いイタリア料理を食べようと思い、PCとカーナビで情報を集めた。モーテルの近くに3軒程見つかったので、今度は車でレストラン見学に出かけて、良さそうな所を絞り込んだ。選んだ店の名前は、Ray’s Club Italian Rest.であった。


・そして、この街は暗くなってから一人で歩いても危険は少ないだろうと感じたことや、ワインを飲みたかったこともあって今度は歩いて出かけた。レストランの中は暗かったが、ローソクの明かりがともされていてとても落ち着いた上品な雰囲気だった。アペリチフを注文しようと思ったが、メニューだけではよく分からないので、オーナーの様な雰囲気の中年の女性が来た時に色々聞いてみた。そして結局、いろいろな種類のチーズやハムの盛り合わせと、テリーヌ、野菜サラダ、スープ等を頼んだ。ワインも良かったし、料理がとても美味くてとても心地よい感じであった。


・しかし、メイン料理を何にするか悩んでしまった。前菜で十分な量があったので、簡単にスパゲティを頼むことにした。そしてテーブルに運ばれた皿を見てビックリし、一口食べてまたビックリしてしまった。まずは、大きな更に山の様に積まれた量の多さに対して。そして、食べてみてあまりの不味さに対してである。まず、極細のソーメンのような麺が使われていたのは良いが、ぐちゃぐちゃに茹でてあり、しかも冷たくて巨大な塊になっていた。刻まれた玉ねぎの大きな破片が、殆んど生の様に硬くてシャキシャキ音がする様に固かった。しかも一人ではとても食べきれる量ではなかった。持て余しながらやっと1/3位食べた。


・この麺が細くて柔らかくて固まったスパゲティは、同じようなものを何処かで食べた記憶があった。思い出した。LAで宿泊したホーム・ステイ先の奥さんが、良く作ってくれたスパゲティと同じだった。あの時、MeiKazと文句を言っていたことを思い出した。もしかするとこのようなグチャグチャに固まったスパゲティは、アメリカのカリフォルニア近辺では、アメリカ・ナイズされた極、普通の料理なのかも知れないと思った。


・そして店を出る時になって、値段の安さにまた驚いてしまった。チップを入れて、〆て$20でした。でも、スパゲティはホントに不味かった。自分で作った方が100倍は美味いのができる。


アメリカ西海岸のドライブ旅行日記10/27

1027日(水)やっとの思いでPoint ReyesLight House

・翌朝は、しかし、出かける前に少しだけモーテルでトラブルがあった。実は前の晩、テレビをいじくっていたらアダルト番組に入ってしまった。直ぐに元に戻したのだが、翌朝になって料金が付いていることが分かったためである。自分は見る気もなかったので、当然返却手続きをしてもらったが、カード払いだったので気が付かないことも有ったかも知れないと思った。

・いよいよ岬にある灯台に向けて出発した。しかし、昨日来た道を引き返すのが正解だったのだが、何を勘違いしたのだろうか時間を浮かそうと思って、R101に乗ってしまったのだった。そこで次のNovatoという町で降りて、何となくそれらしい方向に向かって、気分よく田舎道を疾走した。しかし、途中で全く道がわからなくなってしまった。周りには家など一軒もない所で、地図と磁石とカーナビを頼りに、景色のよさそうなルートを探す。

・訳もわからず大分走った所で、急にTomales Bayという所に出た。ここはもう海であった。                                     

・ライトハウスの左側は、切り立った断崖絶壁でしたの方は岩場になって波が打ち寄せている。波の音の他には、しきりに何かの動物の鳴き声だけが喧しく聞こえるが、妙に静けさが身にしみる。


・帰り道は再び同じ道を行く。相変わらず曲がりくねった道が続くが、名残惜しさと次に現れる景色や出会いに期待を抱いて、50km位のユックリした速度で走る。来る時に見かけた二度目のオイスター・ファームに寄ってみた。メイン・ルートにある入り口の案内に従って、脇道をドンドン下に降りていく。するとまもなく海岸沿いに小さな掘っ建て小屋とベンチ、それに小さな船が止められた海岸に出た。海岸には牡蠣のカラが山のように積まれている。イメージとしては100年前位の、アーリー・アメリカンの開拓時代を思わせる光景だった。





 ・小屋の中に入ると、養殖の方法や牡蠣の成長の過程を示す図が壁に飾ってあったので、それを読んでいたが人の気配がしない。しばらくするとオーナーらしき女性に声をかけられた。頼みもしないのに、図を説明してくれた。ここの牡蠣のタネは、広島から持ってきたものだと言っていた。そして自分が物欲しそうな顔をしていたのか、良かったらトライして頂戴と小さな牡蠣を4つばかり剥いてくれた。この所、しけが続いていて大きな牡蠣が取れないという。タバスコとレモン汁を掛けて食べてみたが、クサさは全く無くて甘い味がした。

・牡蠣をここで食べると大きいやつ6ケで$9だという。ただし、これは自分でむいて食べる場合で、むいてもらうと$12だという。

・そうこうしている内に船が着いて、オジサン達が作業を始めた。そこで彼らの写真を撮っていたら、こちらに来いと合図する。行ってみるといろいろと牡蠣についての話や、自慢話を聞かせてくれた。食べた牡蠣も美味しかったが、オジサン達との会話がとても楽しかった。

・村に戻る途中に小さなレストランがぽつんと建っていた。見かけは新しい感じでとても綺麗な店だったので、牡蠣なら新鮮で美味しいのが食べられるだろうと期待して中に入る。メニューを見ていると、おすすめの牡蠣フライのランチがあったので頼んだ。しかし、出てきた牡蠣はこれ以上熱を加えることができない位にカリカリ・コチコチに揚げた牡蠣と、フライド・ポテトがどちらも山のように積み上げられたものだった。全く牡蠣のジューシな味がしない。油が多くて体に悪そうな料理だった。しかも、サラダはキャベツを生のままザクザク切ったもの。それとドリンク。これでしめて$14.5だった。ただし、今日のスープはとても美味かった。豆、セロリ、玉ネギ、人参、ジャガイモ、トマトなどをミネストローネの様に煮こんだもの。これだけでは$2.5だった。税金とチップでTot.$21.2だった。

・一休みしてから、今度はノース・カリフォルニア海を左に見ながら北上を続けた。とても気持ちの良いドライブだった。午前中立ち寄った最初のオイスター・ファーム(Hog Island oyster)を通りすぎて、BondegaBayに来ると、ここには観光客用のモーテルが沢山あった。さらにSalmon Creekを過ぎた辺りのオーシャン・ビューはとても素晴らしかった。

・海岸線は岩と言うよりも土でできた低い崖が、ずっとどこまでも続いている。土だから、崖が波で現れて不思議な形をしている。何とも奇妙で美しい風景が続く。しかし、何処まで行っても同じ光景が嫌になるほど続くのだ。これがアメリカなのだと思う。日本では見たこともない様な景色に圧倒されるのだが、それが延々と続くのだ。日本のように山アリ谷アリ浜アリという様な変化とは、また違ったシツコサで迫ってくる。

・走りながら日本から20枚位持ってきたCDを聞いた。何を聞いたかというと、今回の旅行で初めてビギンの曲(島唄)だった。たった一人で誰もいない海辺の曲がりくねった道路を、高速で走りぬけながら曲を聞いていると、知らない内に自分が涙もろくなっていることに気づく。何故なのか理由は分からないが、妙に寂しい曲だったが繰り返し聴いた。

・夕方近くになってきたためか、あるいは雨が降ってきたためか、回りが薄暗くなってきたので、今夜の宿泊場所を物色する。The Sea Ranchという小さな村に来た時は、ここにしようかと思ったが、余りにも寂しい感じがしたので、もう一つ先の村であるGualalaに行く事にした。

・さて、Gualalaに着くと浜が開けていて明るい感じだったのと、道路沿いにスーパー・ストアや大きなガソリン・ステーションがあったので、とても良い雰囲気に思えた。そこで雨が降っていたが、スーパー・ストアの駐車場に車を止めて付近を歩いてみた。ついでに、幾つかモーテルを訪ねて、値段と雰囲気を見てみたかった。結局値段よりも帳場にいた奥さんの感じが良かったので、Gualala Country Innという所に決めた。部屋が一階だったということも気に入った。

・この宿は奥さんがガーデニングに凝っているということで、とても綺麗な庭が窓から見えた。そして何よりも、その先に広大な海が目の前に広がっているのが最高だった。部屋も少し狭いがとてもお洒落で女性が好きそうな感じに仕上がっていた。ただし、田舎の割には値段が少し高めの$87.69だった。

・ここの奥さんとは、なぜか話しが弾む。多分、商売のためだと思うが、とても愛想がよく、それが一人旅にはとても楽しいと感じる。

・ディナーを食べようと外に出たが、近くにはカフェとステーキハウス位しか無かったので、目の前にあったスーパー・ストアで食料を買って部屋で食べることにした。いつもながら、フライド・チキン、サラダ、スープとハイネッケン・ビール、それに果物とスナック菓子などを買った。

・既に調理された惣菜売り場に行くと、今日のスープが3種類、豆やサラダの色々な詰め合わせパックや量り売りのものが何種類かある。それにフライド・ポテトなどの冷凍食品を揚げた物や、煮た物、ビーフやポークやその他、ラザニア等のイタリア料理のようなものを何種類か売っている。いずれも量り売りで、フライド・チキンなどは1本から売ってくれる。





アメリカ西海岸のドライブ旅行日記10/26

1026日(火)いよいよノース・カリフォルニアへ

・朝10時にYRと会う約束をしていたので、9時半にモーテルを出て車を出してもらうように頼んだ。しかし、自分の前に3人組がいて既に車を出すように頼んでいた。彼らの車が玄関前についたのは9時45分だった。同じ人が取りに行くようだったので、急ぐように催促したが中々戻ってこない。結局、やってきたのは10時丁度だった。駐車場付きとはいえ、場所はかなり離れた所にあるようで、繁華街とは車の出し入れには本当に不便な所だと思った。

・10時3分にヒルトン・ホテル前に着いたが、車を停める場所がない。しかも、駐車違反は御法度である。ホテルマンにチップを出して、5分間止めて見ていて貰った。YRはロビーで時間通りに待っていた。挨拶もそこそこにして、これから空港に送っていくのだが肝心のカーナビをセットしている時間がない。急いでセットしようとするのだが、スペルが違うのかカーナビが空港を標示してくれない。兎に角、空港方面に向かう高速に乗れれば良いので、空港より少し先のSan Mateoに行き先をセットして走りだす。少し行くと、途中から空港方面を示す飛行機の道路標識が出てきてホッとする。空港には着いたが、国内と国際のウィング入り口がよく分からず、また、駐車出来るスペースが見つからず、同じ所をグルグル廻ってしまった。

・さていよいよYRを無事に下ろしてから、走りだす前に、再び、今度はゴールデン・ゲートをセットした。しかし、この作業中に、空港のガードマンに、車を早く移動させるようにと激しく怒られてしまった。窓を棍棒で強く叩かれたので、ガラスが割れてしまうのではないかと思ったくらいである。もしもトラブッタ場合には、どのように交渉したら勝てるのだろうか。色々頭の中で反論する英語を考えながら、走っていたら気持が高ぶってきてしまった。

・ゴールデン・ゲートを渡った所に展望台があったので、駐車場に車を入れて少し散歩しながら写真を取った。心地よい日差しを浴びながら、少し休憩して心の余裕を取り戻した。

・まずは直ぐ先にあるMill Valleyで高速道を降りて、そこからPoint Reyes NAT’L Seashore海岸通りを走って、Point Reyesという岬に行ってみたかった。その前にMill Valleyという小さな町にある近くのスーパー・マーケットで寿司とスープとリンゴを買って、近くの公園で昼食を食べた。日当たりがとても心地良かった。

・しかし、Mill Valleyから海の方へ入っていく道がどうしても見つからない。この辺りは山になっていて、しかも深い森が道路を覆っているので、カーナビが誤動作するのだ。集落の近くに保育園があって、そこに集まっていた女性の一人に道を聞くと、ノートを取り出して丁寧に教えてくれた。しかも、彼女が日本に行ったことがあるということで、また、北カリフォルニアは南カリフォルニアと違って森が沢山あって、何処か日本と似た雰囲気があるという話から始まって盛り上がってしまった。

・しかし、教えられた通りにそのまま行くと、道路が更に険しい山道になり、上り下りが激しい上、カーブがキツイ。その上、車がやっと1台通れる様な細い道に迷い込んでしまった。散々迷って走っていると、何と先程の保育園の前に出てしまった。そうこう、さ迷いながらも、迷路からやっと抜けだしてPoint Reyesに向かって、それらしい道を走り出したのは小1時間後だった。この約1時間の間、西も東もわからない所で、サバイバルする力もなく、たださ迷い続けるだけだった自分のレベルの低さを実感してしまった。本当に嫌な気分になって落ち込んでしまった。結局、海沿いの道を見つけることは出来ず、山の中をくぐり抜ける事になってしまった。

・しかし、どうにかやっと広い道に出た。木々や今度は美しいと思える森がある曲がりくねった快適な道を、時速80kmで走り続ける。他に車は全く見かけなかった。地図で確認すると、どうやらBolinas Stinson Beachに向かう道のようだった。

・段々と木が少なくなって、直ぐにあたり一面見渡す限りの平原ばかりになってしまった。Point Reyes Stationに着いた頃は、この道の駅は、そして周囲の風景は、チョットしたアーリー・アメリカン調の田舎の村という感じだった。メイン・ストリートには7軒くらいの店があって、チャンとガソリン・スタンドやスーパー・マーケットや本屋等があるのだが、どれもが古ぼけた木造の平屋の建物ばかりであった。ここで、またリンゴを4つ購入した。所でこの村でガスを補給したり、買い物をしたりしていて感じたことは、都会からほんの少しだが離れた村では、見知らぬ旅人に対する態度がクールであることだった。全く、愛想がない。とっつき難い感じの人ばかりのような気がした。

・この村から先は、バカでかい州立公園の中を、海に向かって そして突端にあるライト・ハウス(灯台)に向かって走り続けるつもりだった。しかし、地図を確認すると目的地までかなりの距離がありそうなことが分かったので、少し時間が早かったが今夜の宿泊場所を先に確保することにした。ガソリン・スタンドでモーテル情報を聞くと、この近くには一軒もないという。確かにカーナビで調べても、高速道から離れた所にある人気のない観光地なので、この近くのモーテルは出てこない。

Point Reyes Stationから少しだけ離れた所にあるOlemaの近くを走っていると、綺麗なモーテルが幾つか有った。見た感じでは、モーテルと言うよりは夕食の食べられるB&Bか、或いはペンションと言った感じの宿泊所ばかりである。その中で1軒程選んで中に入ってみた。入口の横が感じのよいレストランになっていて、待望の牡蠣料理が食べられるという。しかし、値段を聞くと一人で一泊$160ということなので、諦めて次を探すことにした。

・次の1軒もその次の1軒も同様だった。そこで、宿にいた若い女性に聞くと、R101に向かって大分走らないと無いだろうという。自分は午後になってから、R101の近くにあるMill Valleyからやって来たのではなかったか。そこで既に薄暗くなり始めた道を、来た時とは違う道だったが、R101に向かって宛もなく走り出した。恐らく自分が今、走っている道路は、ルーカス・バレイ・ロードだと思うが、それが当たっているとすると真っ直ぐに進めば、この先のR101の手前には大きなSan Rafaelという町があるはずだった。


・途中で既に真っ暗になってしまったが、Lucas Valley Marin Woodという大きな町があった。この街道瑞に幾つかモーテルが有ったので、その内の一つに寄ってみた。中には大きなプールがあって、それを囲うように綺麗な部屋が並んでいるモーテルだった。値段は$100と少し高めだったが、他を探す元気もなかった。

・部屋に入ってみると、その広さにビックリした。ドアを開けると右側にベッドルームが有り、大きなダブルベッドがおいてある。しかも、大きなクローゼットのドアは全面が鏡になっている。向かいに大きな洗面ルームがあり、その奥に42インチの薄型テレビがある巨大なリビング・ルームであった。


・リビングの奥にはダイニングテーブルが置いてあって、その横には日本のマンションのキッチンよりも、かなり大き目のキッチンがついていた。チャンと料理器具や皿も揃っている。料理をする気はなかったが、少しでもモーテル代を浮かそうと、スーパー・ストアで食品を買ってきて食べようと思った。








アメリカ西海岸のドライブ旅行日記10/25

1025日(月)今日も素敵なサニー・デイ

・朝、起きだしてから、昨日、送別会をやってくれた友人達に、サンキュー・レターを送信する。自分のカメラで取った写真を添付して、皆、同じ様な内容のコメントを書いて送った。それからモーテルの近くを散歩した。これは旅行に出てからは、すっかり朝の習慣になってしまったものである。


・散歩の前に、PCでグーグル地図を広げて、今、パルアルトのどの辺にいるのか、大まかな情報を見てから出かけた。BR101R101の旧道か)の通りを少し北の方に歩いてから、適当に気の向くまま住宅地の方に歩いていった。10月も月末に近づくと何処でもハロウィンの飾りが目に付く。と言っても日本にいる時に考えていたような、派手な飾り付けは殆んど見当たらない。多くは、本物のカボチャに色々と細工したものを、ただ、玄関のドアの前に素っ気なく置いてあるだけである。その横には脱ぎ捨てたスニーカーがニ三足転がっていたりする。カボチャは、人の顔よりかなり大きなサイズの物から、10センチ位の控え目なものまである。中には大胆にオブジェ風に工夫した飾りを入り口においてある家もあった。


・午前中は11時頃までユックリしてから、荷物を車に積んで出かけることにした。ガソリンを入れてから、車で街を少し走って観察する。大きな駐車場のあるショッピング・センターが有ったので、車を駐車させて少し歩いてみた。


・パロアルトはアメリカの他の平均的な街と比べてみても、落ち着いた綺麗な街だと思う。ショッピング・モールも他と違って感じが良い。何が違うのだろう? まず建物が赤レンガで出来ており、多くは平屋建てである。スペースはゆったりしていて、間に木々が植えてある。店の前の歩道には椅子とテーブルが出ていている所が多いし、また、所所には誰が座っても良い様な椅子とテーブルが置いてある所がある。しかも日陰になっていて、平日にもかかわらず本を読んでいる若い人がいる。


・一角にチョット小奇麗なスーパー・マーケットがあったのでトイレを借りようと入ってみる。近くの店員に挨拶をしてから、トイレに直行する。その後で店の中をうろつきまわりながら観察する。しかし、売っているものは、ビックルするくらい代わり映えがしない。どこの店に入っても同じ様なものばかりを売っているのである。珍しいものは見つかりそうもなかった。ただし、この店の様にチョット綺麗な店では、焼きたてのパンを売っていたり、ワインがレイアウト良く整然と並べられていたりする。サンドウィッチなどもチョット食欲をそそるようなものがある。サンドウィッチは、ハムやターキーや野菜等、内容は他の店と大差ないが、見た感じでは少し高級感がある。他の店では新鮮さの点で買う気がしなかった 寿司(カリフォルニア・ロール$4)、それにサラダ$3とジュース$1等を昼食用に購入する。


・車に戻ってから、昼食には時間が中途半端だったが、強い日差しで買ったものが心配だったので直ぐに食べ始めてしまった。食べながら、手持ちぶさただったこともあり、今日、気がついたことをメモしていった。しかし、車の中に一人座っていると、急に表現しにくい寂しさが込み上げてきた。こんな経験は今まではなかったものだった。はじめてアメリカに来た当初の3週間のドライブ旅行では、見るものが何もかもとても新鮮だった。海辺のドライブや通りの観察、ヨセミテの山登り、カリフォルニアの温泉探し、夜のナマのジャズ・クラブ、どれをとっても懐かしく楽しい思い出があった。


・しかし、今、自分がここにいることの意味が何なのか、そして今、自分は果たして楽しいと感じているのか等、自分の気持が良く分からなくなってしまった。昨日までの4週間は多くの人が傍にいたが、今はたった一人きりで話し相手がいない。誰かと、話すことがなくなるまで話をしたかった。しかし、寂しさの理由は、本当にそれだけなのだろうか。いい年をしている筈なのに、子供のように段々と感情が高ぶってきて、不意に涙が溢れてきた。


・丁度、右側の道路脇で、しかも直ぐ横に交差点があり、信号待ちの車が列を作る場所に車を止めていた。そこで車を一時、停止させたドライバーとふいに目が合ってしまう。若い女性だった。自分が目に涙を溜めて、相手を見ているのが不思議だったのだろう、笑顔を作って挨拶をしてくれた。アメリカ人はとてもフレンドリーな人が多い。多分、彼ら自身が生きていくために自然に身につけた処世術なのだろうとおもう。しかし、こんな時の自分には、それでも彼らの挨拶がとても嬉しく感じた。


・止めた車の前の歩道を歩いていた人も、皆、自分をチラッと見ていくような気がしたが、今は何も気にならなかった。自分は何をやるためにここへ来ているのか? ここに来ている間に、できるだけアメリカのそこら中を見ていこう、そしてできるだけ英語を身につけて帰ろうと改めて想った。他のことは帰ってから考えても良いのだ。


・午後、1時にパロアルとの駐車場を出発し、140にはサンフランシスコのヒルトン・ホテルの前に着いてしまった。しかし、車を止めておく所が何処にもない。通りのパーキングは一杯だったし、路上で駐車出来る所は全く見当たらない。しかもパトカーが沢山うろついている。一つ二つ空いているパーキング・メーターがあったが、ここでは大量のコインが必要だ。20分毎にクォーター・コインが必要で、しかも、止められる時間の最大が2時間である。ここだけは、全く東京の様な感じがする。歩行者の方が何かと便利な街だ。


・街中を少し走りまわってから、前回、来た時に土地勘ができたランバート通りの裏の住宅街に車を停める。ここは2時間だけフリーという標識がでていた。ここに車を止めて、モーテル・ガイドでユニオン・スクウェアの近くで安い所を4軒位ピックアップする。そして、片端から電話をしていく。電話で分かるのは、空き情報と料金だけだ。そして、目星をつけてから 今度は、実際にそこの場所を訪れて部屋を確認したかった。兎に角、ここサンフランシスコは今までの所より部屋代が高いのだ。安い所はダニや汚れで寝る気も起こらない位のベッドではないかと、不安が一杯だったからである。


・バンク・オブ・アメリカで$10紙幣をコイン40枚に変えてから、駐車場付きで$69TAXであると電話で確認したホテルへ行って見た。ユニオン・スクウェアにあるヒルトン・ホテルの隣のブロックにあり、しかも外観は綺麗な所である。しかし、行ってみると料金は$80だった。さっき電話した時は$69だったと言いながら、モーテル・ガイドを見せたら、そこには$58と書いてあった。結局、あっさりと駐車場付きで$58にしてくれた。前回、大分外れにあるランバート通りの、小汚いモーテルで$100だったことを思うと、中心街の割には随分と安いと感じた。しかも、部屋を見せてもらった所、前回より数段綺麗だったのでビックリ。そして、自分が必要条件にしている、インターネットの出来るテーブルや、スタンドの他、ビールを入れる冷蔵庫も付いている。他の客を観察してみると、前回の安いモーテルには黒人も沢山 泊まっていたのに比べると、ここは欧米系の旅行者が目に付く。


・部屋に荷物をおいてから、早速、外に出て少し歩いてみた。そして、しばらく歩いてみた結果、料金が安い理由が分かってきた。ユニオン・スクウェアの横にあり、とても便利なのだが、ヒルトン・ホテルから西側の方は道路上に黒人が沢山いるのである。探してみると、それらしい施設があって、あまり綺麗とは言えない身なりの黒人が入り口の所から列を作っていた。夜道は注意が必要と思ったが、安全なヒルトン・ホテルからは僅か1ブロックしか離れていないのである。


・夕方、モーテルに戻ってシャワーを浴びて、ビールを飲んで一休みする。7時にYRと待ち合わせていたヒルトン・ホテルに行くと、そこに見覚えのあるそして懐かしい顔が待っていた。二人で夜の新宿と銀座と表参道を混ぜあわせたような街を、話をしながら歩く。中華料理の看板が掛かっている店に入って、アルコールと料理を注文し食べながら話を続ける。食事の後はカフェで一休み、もちろん夜の期待は全くない。


・明日、LAに飛行機で帰るということなので、サンフランシスコ空港へ車で送っていく約束をして別れる。明日は、自分はいよいよ、アメリカの西海岸をカナダの近くのシアトルに向けて、走ったことのない道を行く予定だった。